57.茅ヶ原 有瀬は卵が割れない③
「んんっ……み、見苦しいところを見せたわね」
「はい、あ、いえ……大丈夫ですよ」
しばらくガチ泣きした後、茅ヶ原先生はようやく落ち着きを取り戻した。
割とマジで見苦しかったとは思うけど、そこは蒸し返さないでおこう。
流石にここに至って先生も突っ伏したままという事はなく、僕が今日この部室に来てから初めて体を起こした姿を見る事が出来た。いや長いよ。
「うう……あそこまで言うつもりなかったのに……」
隣を見れば、まだ小手毬さんは恥ずかしさから俯いている。
そんな彼女の様子を見て、茅ヶ原先生は胡乱げに問いかけてきた。
「真壁くん、念のためなんだけど……もう出来ちゃってるとか、そういう事はないわよね? 二人はうちのクラスでもあるわけだし、顧問になっていきなり不祥事とか困るんだけど……」
とんでもない事を尋ねてくると思ったけど、小手毬さんの失言を聞けば、そのあたりが心配になるのも無理はないだろう。
「いえ、大丈夫ですよ。そういうのは、ちゃんとしてますから」
「そ、そうです! 真壁くんと私は、ちゃんと節度を守ってます!」
「……そう? それならいいんだけど」
微妙に不満げな顔をしつつも、茅ヶ原先生は納得した様子だった。
その後、思い出したように話題を変える。
「そういえば、もう一人部員がいるのよね? 確か一年生だったかしら?」
「ああ、影戌後輩ですね。彼女は今日は別のところにいますよ」
顧問になるのだから、当然先生は部員の構成くらい把握しているだろう。
うちは三人しか部員がいないから、覚えるのも楽だろうし。
ちなみに今日の影戌後輩は、簗木のところでトレーナー業に勤しんでいる。
そのあたりの事情――影戌後輩が恋愛相談を切っ掛けに入部したことや、簗木の恋人兼トレーニングのパートナーとして別行動も多いということを伝えると、先生は少しだけ頭の痛そうな顔を見せた。
「影戌さんまで恋人がいるのね……どうして私にはいないのかしら……?」
そんなことを聞かれても、僕にも小手毬さんにも答え様がない。
「ああ、そういえば前に放課後の教室で、真壁くんと簗木くんと一緒にいた女子がいたわね。もしかして、あの子が影戌さん?」
「そう言われると、そんな事もありましたね。そうですよ」
あれは確か鳶田の一件で、簗木に助っ人を依頼した時だったか。
思えば茅ヶ原先生にうちの部を紹介したのも、あの時だな。
なんとなく直感で先生が悩んでいるような気がしたんだけど、さっきの醜態や婚活で連敗しているという発言からして、間違ってはいなかったようだ。
僕がそんなことを考えていると、先生は神妙な表情で口を開いた。
「……あの時は断ってしまったけど、せっかく顧問になったわけだし、今からでも相談させてもらってもいいかしら? そろそろ両親もしつこくて……」
「ええ、もちろんいいですよ」
どうやら先生も、ようやく相談する気になったらしい。
家庭によって差はあるだろうけど、ある程度の年齢になると見合い話が持ち込まれたりと、本人からすれば過剰な心配を周囲からされるというのはよく聞く話だ。
別にお見合いそのものを否定するわけじゃないけどね。
「それじゃあ、改めてお茶でも淹れますか。恋愛相談する前に、まずリラックスする事が大切ですから。先生は何が好きですか? 定番どころは揃ってますけど」
「真壁くん、私が淹れるよ?」
小手毬さんがそう言って立ち上がろうとするけど、僕はそれを制した。
最初に彼女が淹れてくれたコーヒーは、三人とも揃って飲み終わっている。
ここは僕が新しいお茶を手ずから用意する姿を見せて、先生からの信用を得るのに利用させてもらおう。打算的だけど、こういうのは意外に侮れない。
「いいからいいから。それで先生、何がいいですか?」
「え? ああ、それじゃあ緑茶をお願いしても大丈夫かしら?……って、生徒を使うみたいで、なんだか申し訳ないわね」
「気にしなくてもいいですよ。ちょっと待っててくださいね」
そう言って僕は注文された緑茶を淹れるべく、席を立った。
しばらくの間、先生の相手は小手毬さんに任せよう。迂闊に惚気てまた先生を泣かせないかだけは心配だけど、あれは先生が八つ当たりで要らないことを言ったせいでもあるし、流石に同じ轍を踏んだりはしないだろう。
「それにしても茅ヶ原先生って美人なのに、婚活って難しいんですね」
「ありがとう、小手毬さん。……私が美人かどうかはともかく、婚活が難しいのは事実ね。最初から結婚目当てだから、どうしても内面以外の部分を重視するところがあるし」
僕がお茶を淹れている間も、小手毬さんはしっかり先生から情報を引き出してくれている。彼女の場合は打算無しで会話をしている面が大きいけど、あれはあれで相手の警戒心を解くという点では優れている。要するに適材適所というヤツだ。
「内面以外……職業とか収入とかですか?」
「そうね、後は家族構成とか両親と同居とかも重要ね。それと借金」
「借金……確かに結婚した後で言われたら、困りますもんね」
「そうなのよ。真壁くんがギャンブルに嵌まったりしないよう、あなたも気を付けなさいな」
「分かりました、気を付けます」
いや、別に気を付けてなくても僕は小手毬さんを蔑ろにして、ギャンブルに嵌まったりしないけど。パチンコ屋とか競馬場に通うより、小手毬さんのいる家に帰った方が幸せじゃない?
「後はお酒とかタバコとか……自分も嗜むなら話は別だけど」
「お酒は分からないですけど、タバコの臭いは苦手です」
僕が絶対にタバコを吸わないと、心に決めた瞬間だった。
そもそも興味があったわけじゃないんだけど。
そんなことを考えているうちにお茶が入ったので、二人のところへ持っていく。
「先生、お待たせしました。小手毬さんもどうぞ」
「わあ、ありがとう、真壁くん」
「悪いわね、わざわざ。どうもありがとう」
「いえいえ」
言いながら僕は小手毬さんの隣――茅ヶ原先生の向かいのソファーに座った。
当たり前のように並んで座ったせいか、一瞬だけ先生はげんなりした顔を見せたけど、このくらいは日常茶飯事なので出来れば慣れてほしい。影戌後輩だって出来たんだから、きっと先生も大丈夫なはずだ。
流石に座り方にいちいち文句を付けるつもりもないのか、先生は何も言わずに僕の淹れたお茶を口に含んだ。
「あら……美味しいわね、これ」
「お褒めに与り光栄です」
「美味しいですよね、真壁くんのお茶」
「ええ、本当に」
うむ、緑茶を淹れたのは久々だったけど、二人とも気に入ってくれたようだ。
茅ヶ原先生は何度かお茶を啜りながら、しみじみと呟いた。
「私もこうやって美味しいお茶の一つでも淹れられたら、素敵な相手が見つかったりするのかしらね」
「先生、お茶淹れるの苦手なんですか?」
質問をしたのは小手毬さんだったけど、僕も大いに興味のある話だ。
お茶が淹れられるからといって相手が見つかるようなものでもないだろうけど、家庭的というのは一種のステータスだろう。大抵のものは、出来ないより出来る方がいいのは当然の話だ。
しかし妙に清々しい笑顔を浮かべた先生の口から飛び出したのは、僕が想像していたよりも遥かに深刻な内容だった。
「ふふふ……自慢じゃないけど、料理は全く出来ないの。子供の頃から、そういうのはやらせてもらえなくてね。今は一人暮らしなんだけどキッチンに立つと、どうしても昔のことを思い出してしまって手が動かないのよ」
「え、それってどういう……?」
小手毬さんが少し青褪めた顔で先生を見た。
僕も彼女ほど分かりやすい反応はしていないけど、シリアスな気配を感じて額に冷や汗を浮かべている。
子供の頃から家庭的なことを禁じられている。
いまだにキッチンに立つと、昔を思い出して動けなくなる。
これらの情報から予想できる先生の過去は、とても明るいものだとは思えなかった。
そんな僕らの戦慄を知ってか知らずか、先生は何気ない口調で話を続けた。
「今でも思い出すわ……。生卵1パック分を丸々ダメにして、『アンタはもう料理は諦めて、勉強を頑張りなさい』って母親に言われた日の事を……」
「……はい?」
なんか今の話、おかしくなかったか?
あれ、シリアスは?
「あの先生、生卵をダメにしたって、どういう意味ですか?」
「いえ、母親に教わりながら卵焼きを作ろうとしたんだけど、どうしても上手く割れなくてね。黄身と白身どころか、殻までぐちゃぐちゃだったわ」
「……1パック丸々ですか?」
「そうなのよ。不器用で恥ずかしいわ」
いやいや、不器用にもほどがあるだろ。
親の教育が厳しいんじゃなくて、先生があまりに見込みがなくて親が匙を投げただけだな。
先生の妙に清々しい表情も、単なる開き直りなのかもしれない。
「途中から何故か母親の方が申し訳なさそうな顔になってね……。『もっと器用な子に育てられなくてごめんね』って。その日の夜、私は枕を涙で濡らしたわ」
あまりに悲しい過去だった。
そんなことを親に言われたら、僕だって少しきついかもしれない。
「えっと、つまり先生の婚活が上手く行ってないのは……?」
「多分、これが原因でしょうね。『料理は全く出来ない』って言うと、相手の男の人には凄く微妙な顔をされるもの」
なんか思ったよりも、ハッキリと失敗の原因が分かってしまったな。
とはいえ先生の料理下手は筋金入りみたいだし、今から簡単に矯正できるレベルなら母親も悲しんだりはしなかっただろう。単純に練習して上手くなればいいというのも、少し違うのかもしれない。
「今は共働きも普通って言っても、やっぱり何も出来ないのは厳しいですね」
というか共働きが前提だからこそ、先生が何も出来ないのは厳しいのだ。
このままだと料理は全面的に旦那さんに任せる事になるからな。
「先生、掃除とか洗濯とかはどうなんですか? 料理はダメでも分担すれば……」
小手毬さんの質問に対して、先生はニッコリと微笑んだ。
おお? これは光明が見えたのでは……?
「料理よりはまだマシよ」
「……」
ダメそうだった。いや、本人はハッキリ言ってないんだけど。
逆にハッキリ「出来る」と言わないあたり、そちらもお察しなのだろう。
流石に洗濯機と掃除機くらいは、まともに使えると思いたいけど……。
しかし、そうなると今はどうやって生活しているんだろうか?
「先生って、普段は家事とかどうしてるんですか? 外食とか業者とか?」
今は冷凍食品なんかも種類豊富みたいだし、お金に物を言わせれば掃除も洗濯も代行という手段が取れるだろう。そういうものを利用しているのだろうか?
すると先生は、少し言いづらそうな表情になる。いや、さっきよりも言いづらい話がまだあるのかよ。
「実は……人にやってもらっているの」
「外注ってことですか? それなら、そんなに言いづらそうにしなくても」
先生の私生活が残念なのは、もうバレてるわけだし。
言ってはなんだけど、いまさら取り繕うような威厳もないだろう。
しかし先生は、妙にまごまごした口調で話を続けた。
「いえ、その……近所に昔から世話を焼いてくれる子がいて、私が何もできないのを知ってるから、ちょくちょく様子を見に来てくれるの」
「ええ……?」
「先生……」
思わず小手毬さんと二人で、呆れ顔になってしまった。
この人、知り合いに自分の家のことやってもらってるのか……。
お互い納得しているなら個人の自由とはいえ、その人も面倒見がいいな。
「……この際だから、その人と結婚すればいいんじゃないですか?」
僕が投げやり気味にそう言うと、先生は困惑顔になる。
「流石にそれは……あの子は弟みたいなものだし、年も離れているもの」
「……ん? 弟?」
「先生。その人って、もしかして男の人なんですか?」
「ええ、そうよ。恥ずかしい話なんだけど、うちの一年生の子でね」
多分、先生が自分で思っている以上に、恥ずかしい話だと思うんだけど。
僕は――おそらく小手毬さんも、先生の世話を焼いているのは女性だと勝手に想像していた。だけど実際は男性で、それどころか高校一年生らしい。
なるほど。それなら僕から先生に言えるのは、たった一つだけだ。
「先生」
「何かしら? 真壁くん」
僕は緑茶を一口飲んだ後、先生に向けて笑顔で言った。
「自首して下さい」
「ええ!? ど、どうして!?」
僕と小手毬さんの担任。クールビューティーと名高い、茅ヶ原 有瀬。
彼女の正体は、男子高校生に世話を焼かれる残念美女だった。
茅ヶ原先生に、国家権力の手が迫る……!(嘘)