56.茅ヶ原 有瀬は卵が割れない②
「顧問って、どういうことですか? 佐々岡先生は?」
茅ヶ原先生の衝撃発言を聞いた僕は、すぐさま先生に詰め寄った。
全く顔を出してはいなかったけど、うちの部は杉崎先輩が部長を務めていたころから、佐々岡先生という女性教師が担当していたはずである。
僕が入部した時も入部届を出すために彼女に会っているし、小手毬さんや影戌後輩だって入部時には一度挨拶に行っている。
あの先生はまだ在籍しているのに、どうして急に顧問が変わるのだろうか?
「まだ生徒たちには、公表していないんだけどね……」
僕の追求を受けた茅ヶ原先生は、物憂げな目でこちらを見ながら告げる。
僕がここに来た時から変わらず、いまだにテーブルに突っ伏した姿勢なんだけど……あれか、意外とひんやりしていて、気に入ったんだろうか。
「佐々岡先生は……」
「さ、佐々岡先生は……?」
小手毬さんが緊張した様子で、茅ヶ原先生の言葉を復唱する。
口には出していないものの、僕も小手毬さんと変わらないほどに緊張していた。
確かに佐々岡先生はあまり顔を出さなかったけど、何かあれば相談に乗ってくれるような人だし、人当たりもいいのでほど良い距離感で付き合っていた。
そんな彼女が、いったいどうして顧問を辞めてしまうのか――。
「――産休よ……はぁぁぁぁぁ……」
今日最高に深い溜め息と共に、茅ヶ原先生の口から真相が語られた。
な、なるほど……そういえば佐々岡先生は、結婚三年目くらいだったな。当然、そういう話は聞いていなかったけど、そろそろ子供を考えてもおかしくないか。
そして茅ヶ原先生が妙にダウナーな雰囲気だった理由も、同時に察せられた。
自分は婚活連敗中なのに、同僚は産休でそのヘルプに入るんだからな。はっきりと不満を口にしないだけ、まだ分別があるのかもしれない。
「それで、ここは恋愛相談を受ける部活よね? 私は何をすればいいのかしら?……自慢じゃないけど、相談なんて私が乗ってほしいくらいよ」
本当に自慢にならなかった。いや、流石に面と向かっては言わないけど。
どうやら茅ヶ原先生は顧問になった挨拶と、顧問としてどんなことを求められているのかを確認しに来たらしい。しかし、うちは佐々岡先生もほとんど顔を出していなかったくらいだし、特に顧問の指導を必要としているわけではない。
というか、本人が指導なんて出来ないって言ってるしな……。
「いえ、特にやっていただく事はないですよ。佐々岡先生も滅多に顔出しませんでしたし」
「そうだねえ。私も入部した時しか、部の用事で会った事なかったかも」
僕と小手毬さんがそう言うと、茅ヶ原先生は何故か悲しそうな顔になった。
「そう……ここでも私は求められないのね……はぁぁぁぁぁ……」
め、めんどくせえ……。これが婚活連敗中の女性のオーラか。
こういう時は小手毬さんに癒されて……いや、待て。先生の目の前で小手毬さんとイチャついたりしたら、もっと重苦しい雰囲気になるに決まっている。
ここは涙を飲んで我慢を……と思いながら横を見たら、いつの間にか小手毬さんが手を広げて「おいで?」と言わんばかりの笑顔で僕を待ち構えていた。僕が疲れた時は小手毬さんを抱き締めるのが常態化していて、彼女は僕の精神的疲労を一瞬で見抜いてくるのだ。
僕としてはその胸に飛び込みたいのは山々なんだけど、流石にこの面倒な状態の茅ヶ原先生を前にして、そんな行為に及ぶわけにはいかない。
やはり涙を飲んで首を振ると、僕が抱き締めてこないと察した小手毬さんは、寂しそうに腕と眉をシュンと下げてしまった。……やっぱり抱き締めちゃダメかな?
「あ、そうだ」
僕が数秒前の決意を投げ捨てようか逡巡している間に、小手毬さんは気を取り直したらしい。すぐに僕に背を向けて、給茶スペースへと歩いて行った。
「まだ今日のコーヒー淹れてなかったね。ちょっと待っててね、真壁くん」
「ああ、うん。いつもありがとう、小手毬さん」
「はぁい、どういたしまして」
やべえよ、可愛いよ。やはり僕と小手毬さんは結婚しているのでは?
「幸せそうね……貴方たち」
「あ」
しまった。小手毬さんが可愛すぎて、また先生の存在が頭から抜け落ちていた。
やはり小手毬さんは人をダメにする、危険な恋の麻薬である。
思い返せば、僕が影戌後輩の前でイチャつくのは、生意気な事を言われた仕返しという面もあるんだけど、小手毬さんの場合は僕に合わせるとかじゃなくて素でやってるんだよな。
ある意味では、茅ヶ原先生の天敵のような存在かもしれない。
「小手毬さんから聞いたわよ、付き合ってるって。本当に、こっちが聞いてないことまで丁寧に教えてくれたわ……」
「な、なんかすいません」
どうやら僕が部室に来る前から、すでにやらかしていたらしい。茅ヶ原先生の態度は佐々岡先生の産休が原因かと思ったけど、小手毬さんも犯人の一人であると判明してしてしまった。
「いいのよ……どうせ高校時代の恋人なんて、ずっと続くわけじゃないんだから……うふふ」
「いやー、それはどうでしょうねえ……?」
僕としては茅ヶ原先生の暴論に異を唱えたいところだったけど、先生だって本気で言っているわけじゃなくて八つ当たり的な意味合いが強いんだろう。別に目くじらを立てるようなことでも――。
「そ、そんなことないです!」
どうやら小手毬さんの方は、聞き逃せなかったらしい。
いつの間にか僕と先生の近くに戻っていた小手毬さんは、持っていたカップを少しだけ乱暴に置いて、先生を鋭い目で見た。
間違いなく怒っているんだろうけど、彼女は致命的に迫力がないので眉は吊り上がっているというより八の字だし、小動物が必死に敵を威嚇しているような印象がある。ぶっちゃけ言うと、かなり可愛い。
しかし茅ヶ原先生は、そんな愛らしい小動物の激おこ姿に怯んだ様子を見せる。迫力の有無以前に、自分の発言が八つ当たり以外の何物でもないと自覚しているのだろう。
「真壁くんと私は、真剣に付き合ってます!」
「で、でも小手毬さん、進学や就職をすれば、もっといい人にだって出会うかもしれないのよ? 高校っていう限られた空間だと、出会いも限られると思うの」
止せばいいのに、先生はなおも小手毬さんに持論を語る。
焦っているような感じがするし、どうも引っ込みが付かなくなっているように見えるな……。
多分、小手毬さん相手にそんなことを言っても、先生が火傷するだけだと思うんだけど。
「それは先生が高校時代に、運命の相手に出会えなかっただけじゃないんですか?」
「うっ……! そ、それは……」
ほら見なさいよ。こうなったら、もう最後だ。
ここから始まるのは――そう、小手毬さん劇場である。
建山の時と同様に、小手毬さんは僕との交流が始まった切っ掛けや入部後の関係、そして告白までを朗々と語る。
以前と違うのは、建山が最初の相談の時点で聞いていた入部の流れを先生が知らない事と、何よりも小手毬さんが激おこ状態になっているという点である。
人の恋路にケチをつける茅ヶ原先生も悪いとは思うんだけど、今日の小手毬さんの惚気話は全く容赦がない。横で聞いている僕ですら、もう少し手心を加えてやってほしいと思うくらいだ。
「――だから私は決めたんです。真壁くんのために、一生美味しいコーヒーを淹れてあげようって」
「うう……ごめんなさい……ごめんなさい……」
茅ヶ原先生は、もはや机に顔を押し付けて謎の謝罪を繰り返していた。
自分の軽口のせいとはいえ、婚活に連敗した上に産休の同僚のヘルプに回されたと思ったら、挙げ句の果てに生徒から惚気話を聞かされるというのは、なかなか堪えるのだろう。
「私は本気なんです。いずれは真壁くんの赤……あっ、い、今のはなしでお願いします!」
よもや永遠に続くかと思われた小手毬さん劇場だったけど、彼女自身の失言……らしきものによって中断された。いや、というか小手毬さん、めちゃくちゃ凄いこと言ってたような気がするんだけど。
流石に今のは口が滑っただけらしく、小手毬さんは顔を赤く染めて俯いてしまった。そのとばっちりで僕も、ちょっと恥ずかしい。
ようやく惚気の嵐が過ぎ去っても、茅ヶ原先生はテーブルに突っ伏したまま動かない。
もしかしてショックのあまりに失神でもしたのではないかと心配したけど、軽く近付いてみると唸り声のようなものが聞こえてくる。とりあえず意識はあるらしい。
と思いきや、先生は肩をカタカタと振るわせ始めた。
「ちょ、茅ヶ原先生? 大丈夫ですか……?」
「もういや……こんなのってないわ……私は真面目に生きてきただけなのに……」
先生の声は明らかに震えていて……え、まさかガチ泣き?
一方の小手毬さんは、さっきの失言のせいか恥ずかしがって何も言わない。
担任教師をガチ泣きさせる小動物が、誕生した瞬間だった。
軽い気持ちで負け惜しみを言ったばかりに……。