55.茅ヶ原 有瀬は卵が割れない①
小野寺さんと建山の件が片付いて数日。
恋愛相談部には目立った相談もなく、学校生活は平和そのものだった。
しいて言うなら、影戌後輩がよく小手毬さんに話しかけて、小手毬さんが真っ赤な顔で困っている姿をよく見るようになったけど、小手毬さんも本気で嫌がっている様子ではないし、何より赤面した彼女が可愛くて仕方ないので、助けを求められないうちは外から眺めて楽しませてもらおうと思う。
そんな小手毬さんだけど、今は僕の隣にはいなかった。
これまで生きてきた人生で言えば、小手毬さんが隣にいなかった時間の方が圧倒的に長いというのに、今ではすっかり彼女がいることが当たり前になっている。
彼女がいる間はこの上なく幸せな気持ちになれるけど、ふとした時にこうして一人になると、言い様のない寂しさを感じてしまうのだ。
これが恋わずらいというやつか……。
「ハァ……寂しい」
「だったら溜め息吐いてないで、さっさと手ぇ動かせ」
僕が恋慕の溜め息を溢していると、横合いから不躾な声が飛んできた。
思わず顔を顰めながらそちらを向けば、愛する小手毬さんとは似ても似つかない筋肉ゴリラがジト目で僕を見ていた。
「ハァ……なんて僕はゴリラと掃除なんてしてるんだ」
「俺だって眼鏡と掃除してるより、知麻とトレーニングしたいっつーの。いいから、早く終わらせるぞ」
「そうだな……部室に行けば、小手毬さんの笑顔とコーヒーが僕を待ってるんだ」
そう言うと僕は、ようやく箒を持っていた手を動かし始めた。
現在は放課後――もっと言えば、教室掃除の時間である。
最近は生徒に掃除をさせず業者に頼む学校もあると聞くが、我が校では週に一回あるかないかという頻度で掃除当番が回ってくる。生徒が手を出すのは自分たちの教室だけで、トイレなんかは業者が担当しているから、そこまで億劫というわけでもないんだけどね。
掃除当番は出席番号順に割り振られているので、僕と小手毬さんは当然ながら同じ班にはなれない。うちのクラスにいる鈴木や佐藤を滅ぼせば、小手毬さんと一緒に掃除が出来るのだろうか……。
「……お前、また下らないこと考えてるだろ」
「失礼な。何を証拠に下らないことだって決め付けてるんだ?」
「お前が真面目な顔してる時は、下らないことかゲスなこと考えてる時だろうが」
凄まじく失礼なことを言われてしまった。
下らないと決め付けられたのも腹が立つが、それ以上にゲスとまで言われてしまったのが心外である。
「小手毬さんのことは、下らなくもゲスでもないだろ」
「小手毬がどうとかじゃなくて、内容が間違いなく下らねえんだよなあ……」
また呆れた目だ。くそう、なんだって言うんだ。僕はこんなに懸命に、心から小手毬さんを愛しているというのに……。
この件については万の言葉を用いて語り尽くしたいところだけど、そこに必要以上の時間を費やすよりも、さっさと掃除を終わらせて小手毬さんに会いに行った方が有意義だろう。
僕は遊ばせていた箒をガシッと握り締めて、高らかに宣言した。
「さあ、いい加減に終わらせるぞ。早く小手毬さんに会いたいからな」
「だから俺がさっきからそう言ってただろ……」
せっかくやる気を出したのに、また呆れられてしまった。解せぬ。
ようやく小手毬さんのいない掃除という苦行から解放された僕は、足早に恋愛相談部の部室へと向かった。
小手毬さんは放課後になって間もなく、先に部室に行ったはずなので、今頃は僕のために美味しいコーヒーを淹れて待ってくれているはずだ。
扉を開けたら、美味しいコーヒーと小手毬さんのとびきりの笑顔……想像するだけで、結婚した後は何時間でも働けそうな気分になってくる。いや、でも小手毬さんをあまり寂しがらせるわけにはいけないから、定時退社……せめて一~二時間くらいの残業で帰れるところに就職したいな。
就労時間が短くなれば給料も減るかもしれないが、そこは会社と僕の能力次第だろう。愛する小手毬さんとの幸せな未来のため、僕にはホワイト企業に入社するという義務があるのだ。
そんな綿密な将来設計を脳内で描いているうちに、部室の前に辿り着いた。
コーヒーの芳香と最高の笑顔を想像して意気揚々と扉を開くと、そこには――。
「またダメだった、またダメだった、またダメだった……」
「せ、先生、元気出して下さい!」
素敵な困り顔をしている小手毬さんと、彼女の前でテーブルに突っ伏して何やら怪しい呪詛を唱える女性の姿が……あ、あれ茅ヶ原先生だ。
どう見ても落ち込んでいる先生を、小手毬さんが励ましている図だった。
「あ、真壁くんっ」
扉を開けた音で、僕が来たことに気付いたのだろう。小手毬さんは先生への激励を中断して、僕の方へと小走りに寄ってくる。
そして目の前に立つと、花の咲いたような笑顔で口を開いた。
「真壁くん、おかえりなさいっ」
「た、ただいま、小手毬さん」
あれ? 僕、いつの間に小手毬さんと入籍したっけ?
そんな疑問を覚えてしまいそうな光景だけど、幸せだから別にいいか……。
もはや学生結婚だとか十八歳未満だとか、そんなのは知ったことではない。法律が僕に合わせてこい。
僕が反社会的なことを考えていると、小手毬さんは恥ずかしげに笑った。
「えへへ、驚いた? この間の女子会で私、『部室が私たちの家みたいなもの』って言ったの。だから今日は、そんな感じで真壁くんをお迎えしてみようかなって」
なるほど。ここが僕と小手毬さんのマイホームだったのか。目から鱗だ。
しかし考えてみれば、僕らはここで一番長く二人の時間を過ごしているわけで、そうなると家も同然というのは真理なのではないだろうか。
ローンもかからないし、まさしく最高の物件――いや、そもそも高校の学費が必要なのか。僕は今日ほど、両親に感謝した日はない。
「これからも、それでお願いします」
「はぁい、お願いされました」
可愛すぎる。この子、僕の奥さんなんですよ。間違えた、彼女なんですよ。
まあ籍を入れているかどうかの違いだ。大した差はないだろう、うん。
「はぁぁぁぁ……貴方たち、ずいぶんと幸せそうね……」
僕が「事実婚」という言葉を意図的に間違った意味で解釈していると、テーブルに突っ伏した姿勢のままだった茅ヶ原先生がこちらに目を向けて、恨み言のように言葉を吐き出してきた。
やべ、完全に忘れてた。まあ小手毬さんが可愛すぎるのが悪いな。僕は無実だ。
「えーっと、茅ヶ原先生。今日はどうして、うちの部室に?」
「あ、そうだった!」
僕が茅ヶ原先生に声をかけると、小手毬さんも思い出したように声を上げた。
明らかに彼女も、先生のことをすっかり忘れていたようだ。
小手毬さんの言動からそれが分かってしまったらしく、先生はさらに落ち込んだ様子で深い溜め息を吐く。
「いいのよ……私みたいな連敗女は、彼氏持ちの小手毬さんの歯牙にもかからない木っ端なんだから……」
「ああ……」
細かい事情は全く聞いていないけど、今の発言だけで大体の事情は察せられた。
先生、婚活失敗したんだな……。
そういえば以前、先生が婚活について愚痴を漏らしていたので、「何かあったら恋愛相談部に」と声をかけたことがあった。
それを実行して、先生はうちに相談をしに来たということだろうか。
「えっと、先生。あれですか、恋愛相談ですか?」
僕はテーブルに近付きながら、おずおずと声をかけた。すると茅ヶ原先生は突っ伏した姿勢のまま顔を動かし、胡乱げな目を僕に向けてきた。ちょっと怖い。
「まあ、それもあるわね……。『生徒に相談するほど切羽詰まっていない』なんて言って、このざまよ。滑稽ね……笑っていいのよ?」
笑えねえよ。
負のオーラが強すぎて、怖いというより不憫な気持ちになってきた。
ん? というか、先生の口振りだと恋愛相談以外にも、何か目的があってうちに来たように聞こえたけど……。
「先生。今、『それもあるけど』って言いましたよね? 他に何かあるんですか?」
言いながら僕は、先に部室に来て先生と話していた小手毬さんに目を向けた。
しかし彼女も首をブンブンと振るだけだ。どうやら恋愛相談……というか婚活失敗の愚痴以外の用件については、まだ聞いていないらしい。
「ああ……そういえば、そうだったわね」
そんな僕らの様子を見ていた先生は、やはり姿勢を変えないままボソッと呟いた。
「私、これから恋愛相談部の顧問になるから。よろしくね、二人とも」
「ええ!?」
先生の衝撃発言に、僕と小手毬さんは揃って驚きの声を上げた。
いや……ていうか先生、いい加減に顔上げません?
55話目にして初めて話題に上がる、恋愛相談部の顧問について。