18.恋する少女・小手毬ちゃんのささやかな幸福
真壁くんが楠さんに会いに行っている間、私は部室には行かなかった。
何故かと言えば、真壁くんが部室に来なかったから。
真壁くんのいない部室が、私には寂しくて耐えられそうになかったから。
一度、真壁くんが「部室には行けない」と教えてくれたにも関わらず、私が勝手に部室で彼を待っていたことがあった。
それまで毎日のように二人で過ごしていたから、寂しくて堪らなかったんだと思う。真壁くんなら少しでも時間があれば顔を出してくれるなんて、都合のいい期待をしてしまった。
だけど当たり前のように真壁くんは来なくて、私は勝手に用意したコーヒーやお菓子を、勝手に傷付きながら片付けることになった。
次の日、暗い顔をしてたら友達の里利ちゃんに気付かれて、真壁くんが文句を言われることになっちゃったし、私は本当に真壁くんに迷惑をかけてばかりだ。
そんな私が最も幸せを感じられるのは、やっぱり真壁くんにコーヒーを淹れてあげて、それを彼が美味しそうに飲んでくれている時だ。
真壁くんが「美味しいよ」って笑顔で言ってくれる度に、こんな私でも彼のために何かが出来るのだと思えて、どうしようもなく幸せな気分になる。
「今日は何だか、真壁くんが来てくれそうな気がする」
放課後になって、教室を出て行く真壁くんの横顔を見た私は、何故か唐突にそんな予感を覚えた。根拠なんてないけど、そんな気がした。
それは、もしかしたら真壁くんと久しぶりに二人の時間を過ごしたい私の、都合のいい妄想なのかもしれないけど。
「どうしたの、小手毬ちゃん?」
急に独り言を呟いた私を見て、隣にいた里利ちゃんが声をかけてくる。
本当なら部室には寄らないで里利ちゃんと一緒に帰るはずだけど、どうしてもこの予感が無視できなかった私は、彼女に断わって教室を出る事にした。
「ごめんね、里利ちゃん。今日は先に帰ってて!」
「あ、ちょっと! 小手毬ちゃん!?」
せっかく約束してたのに、ごめんね。
だけど私は、どうしても真壁くんに会いたいの。
根拠なんて、何ひとつないけど。何となく今日は、そうした方がいい気がする。
それは、きっと教室を出て行く真壁くんの横顔が、いつもより真剣だったから。
部室に着いた私は、真壁くんのためにコーヒーを淹れる準備を始める。
今日はお菓子を作ってないから、せめてコーヒーだけでも美味しいのを用意してあげよう。頑張った真壁くんが、笑顔になってくれるような。
一通りの準備が終われば、後は真壁くんが来るのを待つだけだ。
コーヒーを淹れる準備なんて、何十分もかかるようなものじゃない。放課後になってすぐ教室を出てきたから、準備が終わっても大して時間は経っていなかった。
何となく、真壁くんが使っている部長席の傍に立ってみる。
最初に私がこの部室を訪れた時、真壁くんはここに座って本を読んでいたけど、最近はあまりそういうイメージはない。何故かと考えたら、すぐに私と一緒にソファに座っている事が多いからだと気付いた。
私がコーヒーを淹れて、真壁くんが笑顔で「ありがとう」って受け取ってくれて。私が隣に座って、コーヒーを飲む真壁くんの横顔を眺めていると、不意に私の方を向いて「美味しいよ」って言ってくれる。
それが私と真壁くんの、いつもの日常。真壁くんの隣に私がいる、私の一番幸せな時間だ。
「真壁くん、早く来ないかなぁ」
約束なんてしてないのに、私はすっかり真壁くんが来るつもりになっている。
前回もそんな風に思い込んで、勝手に傷付いて、真壁くんを困らせたくせに。
だけど今日は、この間とは違う。そんな気がする。
「……!」
しばらく時間が経って、空の色が薄暗いものに変わった頃。廊下に続く扉越しに、決して大きくない足音が聞こえてきた。
実際のところ、私は真壁くんの足音をはっきり覚えているわけじゃない。だけどこれは、きっとあの人が私のところに帰ってきてくれた音だ。
私は慌ててソファを離れて、ケトルの電源を入れた。
すぐにお湯を沸かして、コーヒーを淹れないと。私のお願いを聞いて、楠さんたちのために頑張ってくれてる真壁くんのために、とびきり美味しいコーヒーを。
「真壁くん、今日のコーヒーはどう?」
真壁くんの隣に座って彼の横顔を眺めながら、私は尋ねた。
この瞬間は、いつもドキドキする。
「今日も美味しいよ。ありがとう、小手毬さん」
真壁くんが、いつものように笑顔でお礼を言ってくれた。
今日も美味しいって言ってもらえて安心するけど、別の意味でドキドキする。
真壁くんの笑顔は、相変わらず私の心臓に悪い。
「楠さんたち、上手くいって良かったね」
あの日の放課後、ちゃんと部室に来てくれた真壁くんは、楠さんたちの件が無事に解決したことを、私に教えてくれた。
まあ、報告だけじゃなくて、もっと凄い事もあったんだけど……。
「いや、本当にどうなることかと思ったけど、無事に済んで良かったよ。でも流石に疲れたから、しばらくは小手毬さんと二人で、のんびり過ごしたいね」
あ、ダメだこれ。ちょっとした世間話のつもりだったのに、真壁くんのせいで幸せな気分になってしまった。本当に真壁くんは、油断も隙もない。ちょっと気を抜くと、すぐに私を幸せにしちゃうんだから。
「真壁くん、真壁くん」
幸せ気分になった私は、いても立ってもいられず真壁くんに向けて両手を広げて見せた。それを見た真壁くんが、ドキッとした顔になる。
「ま、また……?」
「うん、ダメ?」
「……ダメじゃないけど」
私がお願いをすると真壁くんは狼狽えるけど、すぐに頷いてくれた。それが私のために渋々了承してくれたのか、それとも真壁くんも本当は嫌じゃないのか。きっと本当は真壁くんも求めてくれているのだろうと、私はまた都合よく考える。
「えっと……。それじゃあ、失礼して……」
そう言いながら、真壁くんは私をギュッと抱き締めてくれた。
ああ、もう。相変わらず最高に幸せだなあ、これ。
あの日。真壁くんに抱き締められて以来、私はすっかりこれが癖になっていた。
こうやって何でもない時にもお願いして、抱き締めてもらっている。
きっとあの頃の寂しい気持ちを、少しでも埋めたいんだと思う。なんて、もうとっくに埋まっていて、ただ幸せな気持ちになれるだけなんだけど。
「あったかいね、真壁くん」
「……そうだね」
私が真壁くんの背中に手を回すと、真壁くんも私の頭と背に手を当てる。
密着できるのは良いんだけど、真壁くんが恥ずかしがって私の頭を胸に押し付けるから、彼がどんな顔をしてるのか見られないのが、ちょっと不満。
だけど、真壁くんが恥ずかしがっているのだけは分かる。だって私が包まれている胸の奥から、凄く速い鼓動が聞こえてくるから。
密着してるから、私の心臓の音も真壁くんに聞こえてるのかな?
でも私の方が小さいから、胸に顔を当ててる私ほどじゃないよね、きっと。
真壁くんの方が大きくて、本当に良かった。
心臓の音の話だけじゃなくて、こうして全部を包み込んでもらえるんだから。
「真壁くん。私、幸せ……」
思わず呟いてしまった言葉の意味は、真壁くんに伝わっただろうか?
きっと伝わっている。こればかりは私にも根拠がある。
だって……。
「……僕もだよ」
私を抱き締めるその腕が、ちょっと苦しいくらいに力強くなったから。
「失礼、もう下校時刻だから……って、あなたたち、何をやってるの?」
「うわっ!」
「ひゃあっ!?」
真壁くんと抱き締め合っていたら、急に部室の扉が開いて声をかけられたので、私たちは二人揃って声を上げてしまった。
「あ、えっと、茅ヶ原先生……」
「ええ、先生だけど。それよりも、早く離れなさいな」
あ、しまった。まだ真壁くんと抱き合ったままだった。
漫画とかなら、あそこでビックリして離れるのかもしれないけど、ガッツリ背中に手を回してたから咄嗟に離れられなかったんだよね。むしろ強くなってたり。
「あ、はい。すいません」
「あぁん……」
またまた、しまった! 離れるのが名残惜しくて、変な声が出ちゃった!
な、何かちょっとイヤらしい感じだった気がするけど、聞こえてないよね?
茅ヶ原先生は……ダメだ。最初から不機嫌な顔してるから、分かんないや。
「あなたたち……部室で不純異性交遊してるわけじゃないわよね?」
怪訝そうな顔で、私たちの担任の先生――茅ヶ原 有瀬先生はそう言った。
私と真壁くんは、二人揃ってブンブンと首を振って否定する。
「……本当に仲が良いのね」
あ、何か余計に呆れられた気がする。
だけど先生はそれ以上追求する気はないみたいで、溜息を吐いただけだった。
「まあ、二人の時に抱き合うくらいなら、高校生としては健全な交際だから、あまりとやかくは言わないわよ。くれぐれも人前では気を付けなさい」
「あはは……はい」
「こ、交際……」
私と真壁くんは、決して付き合ってるわけじゃないんだけど……。
うん、まあ言ったらややこしくなるっていうのは、私も分かるから言わない。
「それじゃあ、ほどほどにして帰りなさいな」
そう言って茅原先生は、部室を出て行った。
ようやく落ち着いて窓の外を見ると、結構な暗さだ。
これは先生が見回りに来たとしても、不思議じゃない時間だろう。
「じゃあ、僕らも帰ろうか」
「うん」
真壁くんと二人でティーセットを片付けて、部室の片付けをする。
毎日やってることだから、すっかり慣れたものだ。
最後に扉の鍵を閉めて二人で歩き出した時、ふと真壁くんの鞄を持ってない方の手が、ふらふらと揺れているのが目に入った。
今日はまだ少し、真壁くんに触れていたいな……。
「えいっ」
「うわっ、小手毬さん?」
私が思い切って真壁くんの腕を掴むと、彼は驚いた顔で振り返った。
「……ダメ?」
だけど私がそうやって聞くと、真壁くんはいつものように笑ってくれる。
「……いいよ」
それは私の大好きな笑顔で。
そして私は、真壁くんのことが大好きだ。
「やっぱり、あったかいね」
「うん」
抱き締め合うよりも距離はあるけど、決して負けないくらいの幸せを覚えながら、私は真壁くんと並んで歩く。
二人での帰り道、薄暗くなった空に一番星を見つけた。
心の中で星に願うのは、私が真壁くんにしてあげられる、たったひとつのこと。
明日のコーヒーは、もっと美味しく淹れられますように。
Q.シリアスは?
A.主人公の 理性を溶かす 甘々 ストーリー
次回からは新しい相談に入ります。
冒頭会話担当の筋肉ゴリラこと、簗木くんの話です。
また、坂本ラブコメスキー様よりレビューを頂きました。
この場を借りてお礼申し上げます。
本作を分かりやすく表現して頂いて大変素晴らしいのですが、こんなに良く書いて頂くと実際の作品を読んでガッカリされないか心配ですね。(笑)
レビューに恥じない作品になるよう、精進していきたいと思います。
今後も「真面目な話は他のキャラがやってくれるから、小手毬ちゃんはただ可愛ければいい」をモットーにやっていきますので、よろしくお願いします。