14.楠 舞奈との近すぎる距離⑤
爽やかな朝。雲一つない晴れ空と穏やかな気温で、今日も僕はご機嫌だった。
昨日は無事に楠さんと距離を縮められたので、今回の問題が解決して僕が普段の日常を取り戻すのも、そう遠くはないだろう。
そうすれば、あとは可愛い小手毬さんを愛で続ける、幸せな日々が待っている。
そう思って、いい気分で登校したはずだったのに――。
「真壁くん。あなた、健気な小手毬ちゃんを放置するなんて、鬼畜ね!」
何故か朝から、クラスメイトに鬼畜呼ばわりされてしまった。
目の前には薄茶の髪をアップにまとめた、OLのような出で立ちの女子生徒。
女子にしてはやや高めの身長で、涙目の小手毬さんを後ろに庇うように立つその姿は、さながら姫君を守るナイトのようだ。その役、僕と代わってくれよ。
「ええ……? 一体何のこと? 信楽さん」
僕は自分に不名誉な呼び名を付けた女子生徒――信楽 里利さんに、「心外である」と言わんばかりの視線を向けた。
僕ほど小手毬さんを純粋な気持ちで愛でている人間なんて、この学校にはいないだろうに。全世界を見回したとしても、小手毬さんの家族くらいだろう。流石に彼女が生まれた時から愛でている両親や祖父母には、年季の差もあって敵うべくもない。ご家族が相手なら、むしろ負けた方が僕も本望だ。
「何? 惚ける気? 流石ね、鬼畜眼鏡」
「鬼畜眼鏡」
酷い罵倒だった。まず「眼鏡」を、さも罵倒と感じさせる言い草が酷い。
僕が鬼畜かどうかより、眼鏡を罵詈雑言にされたことの方がムカついた。
「信楽さん。鬼畜かどうかはともかく、眼鏡をバカにするのは止めてくれない?」
「え、何その反応? 鬼畜はいいの?」
おい、急に素に戻るんじゃないよ。何か恥ずかしいだろうが。
「いや、良くないけど。会うなり鬼畜呼ばわりって、一体どうなってるの?」
僕が気を取り直して理由を尋ねると、信楽さんは目を細める。怖いよ。
「どうも何も。昨日、小手毬ちゃんはあなたが来てくれると思って、部室でコーヒーを淹れる準備をして待ってたのよ? それを聞いて、何とも思わないの?」
「……は? 待ってた……?」
え? どういうことだ?
昨日、僕は小手毬さんに「楠さんと接触してくるから、部室には行かない」と断っておいたはずだ。本当なら部室で、小手毬さんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら幸せな時間を過ごすところを、断腸の思いで問題解決に尽力したのだ。
それなのに、どうして小手毬さんが部室で僕を待っているんだ?
僕が疑問の目を向けると、信楽さんの横で涙目になっていた小手毬さんが、ビクリと肩を跳ね上げた。僕に文句を言われるとでも思ったのだろうか。彼女にそんな反応をされると不意に死にたくなってしまうので、もっと自分の殺傷能力を理解してほしい。
「えっと、小手毬さん? 僕、昨日は部室に行かないって言ったよね?」
僕が訪ねると、小手毬さんはコクコクと首を縦に振った。
それだけなら、ただ可愛い小動物というだけなのだが、何故かそのまま申し訳なさそうな顔で僕を見てくる。
「その……ごめんなさい。ただ私が、真壁くんなら少しくらい顔を出してくれると思って、勝手に待ってただけだったの」
そして聞かされた真実に、僕は急激に罪悪感を覚えてしまった。
分かってる。僕はちゃんと部室には行かないと、小手毬さんに伝えていた。理屈通りであれば、僕に非は一切ないはずだ。それは理解しているけど……。
「どう? 真壁くん。いえ、鬼畜眼鏡。こんな健気なことを言う小手毬ちゃんを見て、あなたは何とも思わないの? それとも視力と一緒に、人の心も失くしてしまったのかしら?」
「ぐぐ……っ!」
あまりにも暴論である。
しかし暴論だと分かっていながら、僕は信楽さんに何も言い返せなかった。
想像してしまったのだ。たった一人、部室で僕を待ちながら、いつでもコーヒーを淹れられるようにと準備している、小手毬さんの姿を。やがて時間が経つにつれて、「もしかして今日は来てくれないのかな」と不安になる姿を。
「その鬼畜な心でも想像できるかしら? 『私が勝手に待ってたんだから、仕方ないよね』なんて苦笑しながら、目の端にうっすらと涙を浮かべて、せっかく用意したお茶を片付ける小手毬ちゃんの姿が!」
「そ、それ以上は止めてくれ……!」
血を見ることになるぞ! 僕の!
え、何それ? 僕、ちょっと罪深いにもほどがあるんじゃないか?
なんかもう、罪悪感が半端ないんだけど。
「ふん。どうやらあなたにも、まだ人の心が残っていたようね」
鼻を鳴らして言う信楽さんは、めちゃくちゃ偉そうだった。
しかし小手毬さんに対する罪悪感が、僕に反論する余地を与えてくれない。
信楽さんは、小手毬さんと特に親しい友人だ。
教室内で小手毬さんが僕以外と話していたら、大抵相手は信楽さんである。
さらに言えば、彼女は小手毬さんを愛でるガチ勢でもある。
その道に関しては両親や祖父母を除いて負け知らずと言いたい僕だけど、相手が信楽さんとなると流石に確実に勝てるとは言い難い。
そんな彼女が、この状況で僕に対して怒りを覚えるのも、無理はないだろう。
「これに懲りたら、小手毬ちゃんに――」
「あのっ、里利ちゃん!」
なおも信楽さんが言葉を続けようとしていると、小手毬さんが止めに入ってくれた。正直、もうちょっと早く止めてほしかったところだけど。
「何かしら? 小手毬ちゃん」
僕が相手の時とは一転して聖母のような笑顔で、信楽さんが答える。
そんな信楽さんに、小手毬さんは必死の様相で訴えかけた。
「わ、私がいけないのっ。真壁くんは、ちゃんと『来れない』って伝えてくれたし、やらないといけないことがあって忙しいのも分かってたの。勝手に期待して、勝手に落ち込んでた私が悪いの!」
あ、これダメだ。これ僕をフォローするんじゃなくて、トドメ刺しに来てるわ。
小手毬さんの見事な被害者ぶりに感化されて、信楽さんも涙目になっている。
というか、気付けばクラス中の冷たい視線が、僕に向けて注がれていた。
うん、朝から相当騒いでたからね……。
「あっははー、ウケるー」
「真壁くん、やるじゃん」
いつの間にか登校していた楠さんと金名も、他人事のように楽しんでいた。
くそっ! 誰のせいでこんなことになったと思ってるんだ……!
こうして僕は、小手毬さんと喧嘩をするという、大罪を犯したのだった。