112.憧れだけでは届かないもの
私の一日は、それなりに早い時間から始まります。
敬愛する運命の筋肉の持ち主であり、私の愛する殿方でもある篤先輩が早朝のランニングをするので、そのお供を努めなければなりません。
先輩は「朝から大変だろうから別にいい」などと優しい言葉をかけてくれますが、自らを鍛えようと奮闘する先輩のお傍にいてこそ、真のパートナーというものです。
朝早い時間だからといって、惰眠を貪っていい理由にはならないでしょう。
そんなわけで私は四時半頃には家を出て、篤先輩のお宅へと向かいます。
この時に気を付けなければいけないのは、あまり早くに行き過ぎないことです。
以前、四時前から先輩のお宅前でスタンバイしていた時は、警察の方に声をかけられて危うく補導されるところでした。
どうやら、この辺りの地域では朝四時くらいを境に、補導を実施しているようです。
その時は篤先輩のご家族に「身内」と説明していただいて、どうにか補導を免れたのですが……当然ながら後で私の家にも簗木家から連絡が入り、両親にこっぴどく叱られてしまいました。
ちなみに私の両親は決して放任主義ではないのですが、篤先輩のお世話に関しては私が言っても聞かないので、完全に諦めているようです。
私が篤先輩のお宅で朝食をいただいている件についても、色々と両家の間で話し合いが持たれたようですし。
迷惑をかけてしまうのは心苦しいのですが、仕方ありません。愛のためですから。
「あら影戌ちゃん、今日も彼氏のお迎え? 精が出るわねえ」
「おはようございます、田所さん。今日もお元気そうで何よりです」
さて今日も無事に、篤先輩のお宅の前まで辿り着きました。
補導の対象時間外とはいえ、女子高生が出歩く時間ではないので何か言われても不思議ではないのですが、ご近所様もすっかり慣れたもので普通に挨拶を交わすようになっています。
いつも通りなら一分程度で、篤先輩が中から出てくるはずです。
私ごときの笑顔にどれほどの価値があるかは分かりませんが、朝から励む篤先輩を少しでも後押しすべく、姉のように思っている人を参考にして出来る限りの笑顔を浮かべます。
「おはようございます、篤先輩! 今日も頑張っていきましょう!」
「ああ、はよっす、知麻。いつも朝早くから、ありがとな」
「いえ、篤先輩を支え、応援するのが私の務めですので」
慈悲に満ち溢れた篤先輩の言葉に、私は自然な態度で返しました。
本当は御仏のことき優しさに感服し、滂沱の涙を流したいくらいの気分なのですが、これからランニングだというのに篤先輩の貴重なトレーニング時間を私が奪うわけにはいきません。
……それにしても篤先輩が優しさに満ち満ちているのは言うまでもありませんが、普段ならそういったものをあまり口には出さず、心の奥に秘めていたような気がします。まあ秘めたところで溢れ出てしまうほどに、篤先輩が慈悲深いということなのかもしれませんが。
「さあ行きましょう、篤先輩! 地の果てまでもお供します!」
「そうだな。知麻と一緒なら、どこまででも行けそうだぜ」
「ん、んぐ……そ、その通りです」
……な、何でしょう?
とても嬉しいはずなのに、妙な違和感があります。
篤先輩は元々、その逞しさに反して無意味に声を荒げるような人ではないのですが……今日はいつもより穏やかというか、愛に満ちているというか。
正直、優しい言葉をかけていただいているはずなのに、何故か鬼畜な気配を感じてしまいますね。
とはいえ、ランニングの最中に気を散らすわけにはいきません。
今は集中して、篤先輩のお供を務めるとしましょう。
ランニングが終われば、簗木家の皆さんとの朝食です。
所詮、今は他人でしかない私が一家団欒に混ぜていただくのは恐縮ですが、流石に早朝から家で食事をとる余裕はありませんし、かといって僭越ながら篤先輩のトレーナーを自称する私が、「時間がないから」という理由で食事を抜くわけにもいきません。
この件についても両家の間で話は付いていますし、ここは将来的に家族として迎え入れていただく予定の方々に、出来るだけ気に入られるよう努力するのみです。
篤先輩の後にシャワーをお借りして汗を流すと、朝食が始まります。
簗木家の皆さんは篤先輩のご家族なだけあってとても優しく、私にも分け隔てなく会話を振ってくれるのですが、今日は少々気になることがあるので、なかなか会話の方に集中することが出来ません。
生返事のようになってしまって申し訳ないと思いつつ、つい会話の端々で篤先輩の様子を窺ってしまっています。
「ん? 今日の卵焼きは、いつもと味付けが違うね。母さん、何か変えたの?」
お義父様が不意にそう言ったので、思わずビクリと肩を震わせてしまいました。
今ほど自分の表情が変化しづらいことを感謝した日はありませんが、視界の端でお義母様とお義姉様がにやにやと笑っているので、きっと私の動揺など完全に見破られているのでしょう。
そんな私を見かねてか、お義母様は笑顔のまま種明かしを始めました。
「あら、気付いた? 実は今日の卵焼きは、知麻ちゃんが味付けしたのよ」
「へえー、確かにうちのとは少し違うね。ああ、もちろん違うからって文句を言いたいわけじゃなくて、凄く美味しいと思ってるからね」
「あ、ありがとうございます……」
どうやらお義父様には、私の卵焼きを気に入っていただけたようです。
お義姉様には作っている最中に味見をお願いして「美味しい!」と言っていただきましたし、美薗先輩には敵わないとはいえ、せめて卵焼きだけでもと練習しておいた甲斐がありました。
これに慢心せず、いずれは簗木家の味も覚えていきたいところです。
「ほらほら、篤。愛しの彼女の手作り料理よ? いつまでも仏頂面してないで、感想の一つでも言いなさいよ」
「ああ、そうだな……」
おっと、いけません。お義父様に褒められて少しばかり油断していましたが、本丸と言うべき篤先輩の感想を、まだいただいていませんでした。
今日の朝食ではあまり喋っていなかった篤先輩ですが、お義姉様が促して下さったおかげで感想を聞くことが出来ますね。
この細やかな気遣い、流石は篤先輩のお義姉様です。一生ついていきます。
涼しい顔で篤先輩の評価を待つ私ですが、その胸中は凄まじい緊張に襲われており、ゴリラのドラミングもかくやという勢いで胸が高鳴っています。
「すげえ美味い。ありがとうな、知麻」
「いえ……お粗末様です」
サラッと返しましたが、本当は小躍りしたいくらいに喜んでいる私です。
今日という日を、祝日として暦に刻むべきではないでしょうか?
この味がいいねと君が……いえ、これでは盗作ですね。
喜びのあまり支離滅裂な思考に陥っていた私でしたが、篤先輩のお褒めの言葉はまだ終わりではありませんでした。
「こんな美味い卵焼きなら、毎日でも食べたいくらいだな」
「……はぇ?」
浮かれる私を、篤先輩のさらなる追撃が襲います。
完全に意表を突かれてしまったので、思わず間の抜けた声が出てしまいました。
え? もしかして私、プロポーズされましたか? 今すぐ祝言を挙げますか?
幸いというべきか、何故か美薗先輩からいただいた婚姻届も鞄の中にありますし、証人もお義父様とお義母様で問題なく埋まるのでは?
「篤……? なんか変な物でも……は知麻ちゃんに失礼か。でも今日のアンタ、いつもとちょっと雰囲気違わない?」
「……そうか? 美味いと思ったから、素直に言っただけだろ」
「あわわ……」
祝言は流石に冗談……というか浮かれて言ってみただけですが、今日の篤先輩が何やらいつもと違うのは、お義姉様の言う通りです。
普段の篤先輩でも「美味い」くらいは言っていただけると思いますが、「毎日でも食べたい」とまで言われるとは予想だにしていませんでした。
こんなにハッキリと愛情表現をして下さるなんて、まるで真壁先輩と美薗先輩のようです。
日頃から真壁先輩に「浮かれ過ぎです」と小言をぶつけてきた私ですが、こんなことを言われて浮かれるなという方が無理なのかもしれません。これまで言い過ぎたと真壁先輩に謝罪……は意地でもしたくないので、心の中でだけ謝っておきましょう。
自信作だったはずの卵焼きですが、篤先輩の発言に動揺していたせいか、いまひとつ自分では味が分からないままでした。
朝食を終えた後、簗木家の皆さんに挨拶をしてから篤先輩と一緒に登校をするのが、いつもの流れです。
今日も同じように、篤先輩が私の自転車を引いて下さる隣を歩いているのですが……何というか、とても落ち着かない気分になっています。
流石にプロポーズ紛いの言葉は朝食の時だけだったとはいえ、今日の篤先輩は言葉の端々に愛情が込められていて、油断すると「不束者ですが、よろしくお願いします」とでも返してしまいそうです。
「あの……お義姉様の言葉ではありませんが、今日の篤先輩はいつもと少し様子が違いませんか? もちろん優しい言葉をかけていただくのは、とても嬉しいのですが……」
いよいよ腑に落ちず、篤先輩に直接問いかけてしまいました。
だって嬉しいのは事実でも、とにかく落ち着かないのです。
ふわふわと浮ついた気分になってしまって……これでは真壁先輩たちのイチャつきについて、とやかく言う資格なんてありません。
「……ダメだったか?」
そんな私の問いに、篤先輩はどこか不安そうな表情を見せました。
篤先輩はいつでも質実剛健で、そういった感情を表に出すことがなかったので、今はまるで別人のようにも見えます。
「い、いえ……さっきも言った通り、とても嬉しいです。ただ普段の篤先輩のイメージとは違うと言いますか……ちょっと真壁先輩のようだと思いまして」
「……真壁か」
私が何となく付け加えた一言に、篤先輩の眉がぴくりと跳ねたような気がしますが、一瞬のことだったので確かめる術はありません。
ただ少しだけ……怒っているわけではないと思うのですが、どことなく篤先輩の機嫌が良くないように私には見えます。
さっきまでは、あんなに穏やかな雰囲気で甘い言葉を口にしていたというのに。
「知麻、聞いた話だとな……恋人と長くやっていきたいなら、自分のダメな部分を見せられるようになった方がいいらしいぜ」
話を変えるように、篤先輩がそんな言葉を呟きました。
しかし何故だか分かりませんが、さっきまで話していた「篤先輩の様子」とは別の話題のはずなのに、私には話が変わらず続いているように思えます。
「は、はあ……ダメな部分ですか? 篤先輩にそんな部分があるのかは疑問ですが」
別に言っていることが間違っているとは、全く思いませんけどね。
ただ、まるで「あの人」が言いそうなセリフだな、とは思いました。
「いや、あるんだよ」
「篤先輩……?」
見たことのない自嘲気味な笑顔を浮かべた篤先輩は、立ち止まって私を見つめてきました。
身長差があって私が見上げるのはいつも通りのはずなのに、今日の篤先輩はなんだか普段よりも小さく見えているような気がします。
「知麻。俺はお前と、これからも長くやっていきたい」
「は、はい……ありがとうございます。私も……同じ気持ちです」
いつもと違う篤先輩の雰囲気に少しだけ怖気づいてしまいましたが、私も末永くご一緒したいというのは紛れもない本心です。
そのために……と言ってしまうと、いささか打算的に思われてしまいそうですが、簗木家の皆さんに溶け込もうと私なりに努力はしているつもりでした。
だというのに、篤先輩は。
「そうか……俺も、お前が同じ気持ちだと信じたい。だから……」
私の気持ちを「信じたい」と口にしました。
まるで今の時点では、私の言葉が信じられないかのように。
「俺は、俺の一番情けない部分を、お前に見せたいと思う」
そう言った篤先輩の顔は、何だか泣き出す寸前の子供のように見えました。
次回、簗木くん視点で締めます。




