10.楠 舞奈との近すぎる距離①
いつもと変わらない放課後の教室で、僕はいつもと変わらない時間を過ごしていた。要するに友人の簗木と、どうでもいい内容の会話を繰り広げていた。
「そういや、お前。最近は小手毬と仲良くやってんのか?」
腹直筋と腹横筋の違いについて、簗木がムダに熱心に話していたはずだったのだが、いつの間にか僕と小手毬さんの話題になっていた。おい、さっき途中から出てきた腹斜筋って何だよ。気になるじゃないか。
「小手毬さんと? 別にいつも通り、仲良くやってるけど」
しかし僕が筋肉に興味津々だと知られると、簗木が調子に乗ってしまう。
仕方がないので腹斜筋への好奇心を抑え込み、素直に質問に答えた。
「ふーん。いつも通りにねえ……」
僕の回答が気に入らなかったのか、簗木は胡乱げな視線を向けてくる。
普段は僕がそういう視線を向ける側だから、いざ向けられると腹立つな……。
「何か含むところがありそうな言い方だな」
「含むところっていうか……」
そう言いながら簗木は、離れた席にいる小手毬さんに目をやった。
その先では小手毬さんが友人と話しているけど、時折こっちに意識を向けているのが分かる。
「お前、今日は小手毬と全然話してねえじゃん」
「うっ、それは……!」
痛いところを突かれて、僕は思わず呻き声を上げた。
そう。いつもなら今頃の時間になると、小手毬さんの方から僕の方に寄ってきてくれて、アニマルセラピーさながらの超絶癒し空間が発生するのだ。
そうやって僕は、一日の学校生活で消耗した英気を養うわけだけど……。
今日の小手毬さんは、たまに横目で僕を見るだけで近くに来てくれない。
多分、僕の方から近寄っても、さり気なく離れて行ってしまうだろう。というか、実はすでに実証済みだ。危うく死にたくなってしまった。
でも「あ、忘れ物しちゃったかもー」と、めちゃくちゃわざとらしい独り言で誤魔化そうとする小手毬さんも、本当に可愛い。
「一体、何やったんだよ」
「どうして僕が何かをした前提になってるんだ」
苦し紛れに反論してみるが、呆れた目を向けられるだけだった。
「小手毬がお前に、何かすると思うのか?」
「ぐ……っ!」
く、くそっ! あまりの正論に、何も言い返せない……!
小手毬さんといえば、素朴で無害な人間の代表格なのだ。彼女が悪意を持って行動するようになるくらいなら、きっと人間の愚かさで世界が滅びる方が先だろう。
「心当たりは……ある」
「ほら、やっぱあるんじゃねえか。何やったんだよ、言ってみ?」
僕がいよいよ観念して白状すると、簗木は心底呆れた目でこっちを見てきた。
やはり腹が立つが、小手毬さんを怒らせるという大罪を犯した僕には、筋肉ゴリラに呆れられるという屈辱がお似合いなのかもしれない。
「実は、その……最近、別の女子のところに通ってて……」
「……は?」
素直に話したというのに、さっきよりも冷たい目で見られてしまった。
畜生、ゴリラの醒めた目なんて需要はないんだよ! 小手毬さんなら、そんな目で見られても可愛さを感じられるだろうけどな! いや、やっぱり死ぬかも……。
「え、何。お前、小手毬を放って、他の女子に粉かけてんの?」
「人聞きの悪い言い方をするな。僕はただ、彼女のところに足繁く通って、話し相手になってるだけだ」
「違いが分からんが……。でも、それで小手毬は怒ってるんだろ?」
そうなんだよなぁ……。小手毬さん、事情は知ってるはずなんだけど。
分かってても、気に入らないってことかな。そんな風に思ってもらえるくらいに懐かれてるのは嬉しいけど、現在の状況はあまり嬉しくない。
早いところ、今回の問題を解決しないとな……。
僕が消沈していると、簗木は溜息を吐きながら席を立った。
「まあ何か事情があるんだろ? さっさとどうにかして、仲直りしとけ」
「言われなくても、そうするよ」
僕が負け惜しみを言うと、簗木はそれを適当に流して、手をヒラヒラと振りながら去って行く。これから部活に向かうんだろう。
なんて思っていたら、ふと簗木の手に絆創膏がいくつか貼られていることに気付いた。さっきから小手毬さんのことばかり気にして目に入っていなかったが、よくよく見ると顔の端にも貼られているし、痣のようなものも見える。
「簗木。今更だけど、その絆創膏……怪我か? それ、どうしたんだ?」
「本当に今更だな……。朝から何も聞いてこないから、気にしてないのかと思ってたわ」
またも呆れた目で見られてしまうが、僕の視野が狭かったのは事実なので、何も言い返せない。それよりも簗木の怪我の方が今は重要だ。
「何かトラブルか? 面倒事になりそうなら、僕が出て……」
「違うっての。これは、ちょっとした喧嘩で、もう解決済みだから、気にすんな」
それをトラブルって言うんじゃないのか? というか、いくら簗木が野蛮なゴリラでも、無暗に喧嘩なんてするとは思えないんだが……。
「……もう問題ないんだな?」
「ないよ、ないない。お前が友情に厚い熱血眼鏡なのは、分かったけど。いいからお前は、さっさと自分の問題を解決して、小手毬と仲直りしとけ」
そう言うと簗木は、今度こそ教室を出て行ってしまった。
というか、誰が友情に厚いだ。僕はゴリラと友情を築いた覚えなんてないね。
でもまあ、簗木の言う通りか……。
僕の精神衛生のためにも、さっさと今回の恋愛相談を解決してしまおう。
そう思いながら、僕は鞄を持って自分の席を立った。
小手毬さんの席に目を向けると、そこには愛らしい小動物の姿はなかった。
畜生、寂しいなあ……。
「あれ、真壁くん。また来たんだ?」
僕が屋上の扉を開けると、定位置――塔屋の陰にいた少女が声をかけてきた。
明るめの茶髪に緩くパーマのかかった、少し軽そうな雰囲気の女子である。
購買で買ったであろうイチゴミルクを飲みながら、彼女は何が楽しいのかケラケラと笑った。笑うと口の中に覗く八重歯が、彼女の小悪魔感を引き立てている。
「真壁くんも飽きないなー。こんなとこで私なんかと話して、何が楽しいんだか」
自嘲めいた言い方をする彼女だけど、僕は別に楽しくないとも思わない。
「楠さんと話すのは、結構楽しいけどね。適当な感じで、肩肘張らなくていいし」
「むぅ? 口が上手いなー、真壁くん。そうやって、小手毬ちゃんのこともたらし込んだわけ?」
ずいぶんと人聞きの悪い言い方だが、彼女の表情から悪意を持って言っているわけでないのは、容易に読み取れる。なので僕は焦ることなく、落ち着いて返した。
「たらし込んだわけじゃないよ。普通に仲良くなっただけ」
「へぇー。あの警戒心の強い小動物みたいな、小手毬ちゃんを?」
訝しげな目で見られるが、本当にたらし込んでなどいないのだ。
むしろ僕の方が、彼女の淹れてくれるコーヒーに胃袋を掴まれ、彼女の可愛さに心を奪われているので、たらし込まれているようなものだ。
というか、僕以外からも小動物だと思われてるんだな、小手毬さんって。
僕の目の前で楽しそうに笑らう小悪魔少女――楠 舞奈さんは、僕や小手毬さんのクラスメイトだ。だから彼女は、僕と小手毬さんの関係も良く知っている。
今回、我が恋愛相談部に相談を持ちかけてきたのは、楠さん――ではなく。
彼女の幼馴染が、今回の相談者だ。
簗木くんの怪我は、次章の前振りです。
本作は基本シリアスなしですので、安心してお楽しみ下さい。