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短編小説

残像の杜

作者: 中川大存

 過去の自分は、本当に存在したのだろうか。

 僕は割とよく、そんな無意味なことを考える。

 もちろん存在はしたのだろう──記憶からしても記録からしても、過去の自分は間違いなく現在の自分に繋がっている。頭では理解できるのだが、どうにも現実味を感じることができないのだ。錯覚の類、なのだろう。

 

 考えながら歩いていた僕は、左手に現れた大きな鳥居を見てふっと我に返る。

 僕はどうも、どうでもいいことを深く考え過ぎる傾向にあるらしい。うまくいかない就職活動の気分転換に散歩に出たのに、これでは家の中で鬱々としているのと大差ない。

 思うに、僕はいつでもこうして余計な考えに沈みがちであるがゆえに、何事に対しても熱意が足りなくなっているのではないかと思う。就活のグループ面接のときなど、一緒になった他の就活生の意気込み具合に驚いてしまうのだ。何もそこまで力まなくても、と思ってしまうのだが、この就職氷河期の中にあっては彼らのような態度こそ当然なのかもしれない。どうあっても内定を勝ち取ってやるという決意──それが、僕にはないのだ。

 別に、働きたくないというわけではない。

 社会人となって働いている自分が想像できないのだ。

 一応それらしき像を思い浮かべてみても、それは勇者や魔法使いになった自分などというものと同レベルの、まったく現実味のない空想上の存在にしか思えない。過去の自分がそうであるのと同じように、僕は未来の自分に対してもリアリティを抱けないのだ。つまりは、この感覚は直すことができない僕の性分なのだろうか──とそこまで考えて、また一心に考え込んでいる自分に気がつく。どうしようもないのかもしれない。

 

 鳥居の正面に立つ。ほとんどが植えられたものでない自然木であるという特徴からか、町のど真ん中にありながらちょっとした森のような様相を呈している──地元では有名な、大きな神社である。

 来たからにはとりあえず参拝して行こうと思うが、今日は別にそれが目的で来たわけではなかった。確かに困った時の神頼みという気持ちもないわけではないが、近所であるがゆえに大した理由もなく訪れたというのが正しかった。就活中の大学生は、意外と暇な時間があるのである。

 

 一つ目の鳥居を過ぎた。

 とても涼しい。

 木漏れ日がちらちらと降り注ぎ、敷き詰められた砂利の上に複雑な模様を描き出している。上方に視線を移せば、頭上を覆う鮮やかな緑色の木の葉が重なり合い、光を受けて、微妙な色彩を成していた。

 子供のころから慣れ親しんできた場所だったが、なんだか今日は別世界にいるような感慨を覚えた。ここ一年ほど足を踏み入れることがなかったせいか──それとも、今の僕がいつになく追い詰められているためにここに流れる穏やかな癒しの空気を普段以上に感じ取ったせいだろうか。いずれにしろ悪い気分ではなく、僕は清新な気持ちで深呼吸をした。

 

 ふと前方に目をやると、少し遠くに少年が立っていることに気がついた。珍しいことに浴衣姿のその少年は、体を右に向けて放し飼いにされている鶏を物珍しそうに見つめている。

 どきり、と心臓が不意に大きな音を立てた。

 突然の反応に、僕は他人のように驚いた。最初は浴衣の柄に見覚えがあるような気がしたせいだと思ったが、やがてそんなレベルのことではないことに気付く。そんなことがあるはずはないとわかってはいるけれど、一方ではそうに違いないという気持ちがどうしようもなく膨らんでいた。

 この、たった今目の前にいる少年は。

 

 これは──小学校時代の僕だ。

 

 小学生の僕は跳ねるようにして体の向きを変え、僕と向かい合った。

 着ているのは──ここで毎年六月に行われる夏祭りのたびに着ていた、お気に入りの浴衣だった。

 僕はなんと声をかけていいのか分からず、ああとかううとか変な声を出した。

 小学生の僕は含み笑いをして、元気よく右手を上げた。それで義務は果たしたとでも言うように、くるりと背を向けて全速力で奥へと走って行く。

 呆然と後姿を見送っていたが、はっとして追いかける。正体を確かめなければならない──しかし、角を曲がるとすでに彼の姿はなかった。

 今のは何だったのだろうか。

 あくまでもこだわって探し回るべきかと少し迷ったが、そのための具体的な方策も思いつきそうになかったので、とりあえずは参拝という当初の目的を優先させようと思い直した。

 

 二つ目の鳥居を過ぎた。

 一気に空間が開ける。左手に見える手水舎でさらさらと水が流れる音が耳に心地よい。頭上を覆っていた木々もなくなり、晴れやかではあるが決して攻撃的ではないうららかな日差しが砂利道に降り注いでいる。

 解放感に大きく伸びをしたい衝動に駆られたが、なんとなく手放しでのんびりする気にもなれなかった。さっきの不思議な体験が心の底に沈殿していて、こうしていてもつい彼の姿を目で探してしまう。

 

 ──と。

 前方、頼りなげにふらふらと歩いている人影を認めて僕は立ち止まる。

 あの髪形。あの服装。あの背格好。一つ一つの要素が確認されるごとに、胸中の確信と驚愕が倍増してゆく。鼓動の音が、ボリュームのつまみを徐々に捻っていくように大きくなるのがわかった。

 また──だ。

 間違いない。

 中学時代の僕だ。

 思春期にありがちな自意識の肥大というやつで、クラスメイトとの関係がうまくいっていなかった思い出が脳裏に浮かぶ。

 中学生の僕は面倒臭そうに振り返り、不承不承といった様子で右手を上げた。

 そのまますぐに向き直り、ポケットに両手を突っ込んで歩いてゆく。

 呼び止めようと思ったが、何と言えばいいのかわからなかった。僕はただ棒立ちに突っ立って、歩き去ってゆく中学生の僕を視界から消えるまで呆然と眺めていた。

 

 これは──何なのだ。

 一度だけならどうとでも説明がつく。もしかしたら、たまたま思い出の中のそれと酷似した浴衣を着た無関係な子供を見間違えただけだったのかもしれない。

 しかし二度続けて、僕は過去の自分を幻視したのだ。どちらも間違いなく僕だった。

 僕はどうにかなってしまったのだろうか。

 それとも、すべては現実なのか。

 進んでいけば──わかるのだろうか。

 

 三つ目の鳥居を過ぎた。

 本殿が見える。その前の空間は広々としていて、何羽もの鳩が地面をつつきながらせかせかと歩き回っている。

 僕はもう、いるに違いないという次元にまで高まった思いを持ちながら周囲をきょろきょろと見回した。

 ここにも僕がいるのか。

 そして奇妙な実感が示す通りに、

 やはり──それはそこにいた。

 高校時代の僕だ。

 初めてできた彼女と一緒に初詣に来た時の服装をしている。横には、やはり当時のままの晴れ着を纏った彼女が連れ添っていた。

 高校生の僕は首だけを捻ってこっちに振り向き、どこか気取ったような調子で右手を上げた。

 隣の彼女も少し微笑んで会釈をした。

 

 この感覚は──何なのだろう。

 二人を見送っていると、いつのまにか自分の中に奇妙な感覚が生まれていることに気付いた。それは、現在と過去が交差する状況への既視感だった。

 少し考えるだけでその正体は知れた。僕が折にふれて想起する、例の錯覚じみた違和感だ。

 

 現在の自分と──過去の自分。

 しばしば、僕はその二つの間に明確な接着性を見出すことができなくなる。続いているという実感が湧かないのだ。

 延長線上、という表現がある。自らの現在位置とそれまで歩んできた過去が地続きのものだと示す時に、今の自分は過去の延長線上にある──などと言ったりする。

 しかし──現在は、本当の意味では過去の延長線上にあるわけではないのではないだろうか。

 延長線というのはそもそも数学用語で、線分から更に伸びる直線を意味する。人生を直線で表すというのが、僕には納得できないのだ。

 例えば──高校時代に僕が彼女に告白していなければ、ついさっきに見たような様子の僕は存在していなかったはずだ。あるいは新年を迎える前に別れていたら、別の高校に進学して彼女と会うことさえなかったら──考えれば考えるほど、結果を変えうる要因はいくらでも出てきた。

 僕の今までの歴史は、ほんの少し選択を変えるだけで容易く様相を変化させる。それは人生というものが、無限の分岐の中から一つを選び取ることの繰り返しだからだ。それなら──人生を線に例えるならばそれは大いに曲がりくねったものであるはずだ。すっきりとした、迷いなき直線などではない。だからこそ僕は過去の自分を想像するたびに、違ってしまった今の自分との間に埋められない溝を感じるのだ。選択の余地──無限の可能性を持っていた過去の自分と、選択を済ませたことで可能性を確定させてしまった現在の自分がまったく別のものに思えるのだ。

 だから──。

 

 足がびくりと痙攣し、歩みが止まった。

 いつもの錯覚を弄ぶうち、僕は不意に閃くように着想を得たのだ。

 直線の道であれば、前方に向かって進み続けている限り後ろを見ることはできないだろう。しかし、くねくねと曲がっている道ならば、角度によっては少し視点を変えるだけで後ろの地点を眺めやることもできる。

 後ろにいる──過去の自分を。

 通常、人はその残像を見ることはできない。でも──この場所に、何か不可視のものを浮かび上がらせるような力があるとするなら。

 滅茶苦茶な論理であることはわかっている。いや、これは論理と呼ぶのもおこがましいような突飛な妄想でしかない。しかし、今はそんな奇妙なことももしかしたらあり得るかもしれないと思ってしまう。なぜなら、この場所に足を踏み入れた時から僕は感じていたのだ。まるで別世界──常識の通じない異世界のような空気を。

 この聖域が何らかの力を及ぼし、それによって僕は過去のある地点にいる何人かの僕を見ることができたのではないか。

 説明にもならない説明ではあるが、それは妙な説得力を伴って僕の胸の内に収まった。まあ、今日起きたことは話してもどうせ誰も信じないだろうし、話すつもりもない。どうせ他人に知られることがないのなら、こんな過分にファンタジックな説明をくっつけて理解しておいても別に問題はないだろう──そんな風に考えながら、僕は砂利を踏みながら本殿へ歩み寄ってゆく。

 

 もう、進む先に鳥居はない。ということは、もう僕に会うこともないのだろうか。

 しばし考えてから、それはそうだ、と気付いた。僕はここまでに、小学生の僕、中学生の僕、高校生の僕と出会った。それぞれの間に空いている間隔からすると、おそらくその次にあたるのは大学生の僕ということになる。

 それはつまり、今の僕なのだから。

 納得はしたものの、まだなんとなく奇妙な気分が胸の内にわだかまっている。予感──のようでもあるが、今までの不思議な体験の残滓でしかないのかも知れない。

 回答の出ない思考を延々と続けながら、本殿の石段を上がった。

 目を閉じ、なんとなく厳かな気持で手を合わせる。

 ここに至り、僕の時間はようやく今に追いついた。ちらりとそんなことを思った。

 目を開けて振り返る。

 飛び込んできた風景を認知した瞬間、僕は自分の中にあった感覚の意味を察した。

 やはりこれは予感だった。

 まだ──終わりではなかったのだ。

 石段の下に、一人の男が立っていた。

 いかにも着慣れていないという印象の真新しいスーツに身を包んだ若い男だ──こっちを見上げているその男は、今までに何度も見た顔をしていた。

 

 ──ああ。これは未来の僕なのだ。

 僕は、すでに過去の僕になっていた。

 

 僕は今までに見た僕達がそうしたように、未来の僕に向けてゆっくりと右手を上げた。

 僕は大丈夫だよ、と心の中で呟く。

 未来の僕もぎこちなくこっちに手を振り、笑みを浮かべた。

 ──なんとかやってるよ。

 そう呟いたような気がした。

 

 鳩が一斉に飛び立つ音が聞こえた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 丁寧な情景描写を堪能させていただきました。 過去の自分の存在に対する疑問から、「現在」や「未来」の自分を肯定するような展開が綺麗に纏まっていて、素直に感動しました。さすがです! ラストシー…
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