3-1「少女だったモノと喪失」
「……ッ!!」
崖から突き落とされたような気がして、ビクンと身体が跳ね上がる。朦朧とした意識の中で、自分が夢を見ていたことを理解し始める。
それはトラックのブレーキ音と引き換えに、しばらく見なくなっていた夢だった。
「あれ、寝て……」
荒く呼吸をしながらなんとか声を出すとようやく自分が『起きた』ということに気がついた。なぜ自分は寝ていたのだろう、ここはどこだろう、少しずつ意識がはっきりしてくる。
パリパリと音をたてそうなまぶたを力を込めて開くと、ぼやけた視界の中にやたらと白い空間が映る。白い天井、白い壁、白い掛け布団……ベッド、シーツ……少しだけ布団をめくってみると着ている服も白かった。
軋むような身体に力を入れてみる。
手……問題なく動く。
腕……少し痛むが曲がる。
首……ギシギシとするが回る。
身体……動きはするが何故か起き上がれない。
脚……反応なし。
……まあ起き抜けに脚の反応が悪いのはこうなってからはままあることなので、もう一度意識的に力を入れてみる。
が、やはり反応しない。いつもなら悪くとも分厚い毛布越しに触られた位の感覚はあるはずだ。
それが全くない。まるでそこに無いような、抜け落ちたような喪失感を覚える。こんなのは、そう、トラックに轢かれてすぐの、リハビリを始める前以来だ。
「あ……」
そうして、ようやくこの寝ぼけた頭は動いてくれた。
なぜ寝ていたのか、眠る前に何をしていたのか。
覚えている限りの事象が同時に脳にフラッシュバックする。
私の代わりに消えた少女と同じ姿のモノ。その脚から伸びる鋭い木の根。その根が突き刺さった自分の脚。走ってくる黒美。枯れ木のように萎れていく私の脚。突き刺さる根を引き抜こうとする黒美。何かが当たりぐらりと揺れる葵ちゃんの姿の少女。根を掴んだ黒美の指が私の脚と同じように萎れていく姿。
叫び声。悲鳴。怒号。遠くから聞こえてくるヘリコプターの音。
私は恐る恐る自分にかけられている白い布団を腕の力ではぎ落とす。
身体が起こせないので無理やり首を曲げて、下半身の様子を伺う。
動かない脚か……それとも干からびた脚か……その予想はどちらも裏切られた。
そこには何もなかった。
太ももから下には何もなかった。
膝も、スネも、ふくらはぎも、くるぶしもかかともつまさきも、何もなかった。
反応などするはずがなかった。だって、何もないのだから。
私は自分でも驚くほど冷静だった。
「そっか、やっぱり夢なんかじゃないよね……」
あの高知城での出来事を思い出しながら、大きなため息をつく。
そして、自分の脚が無くなったと言う事実を本当にすんなりと受け入れた。
「もう、絶対走れないね……」
言って実感する。
私は安堵している。
もう走れないという言葉は正確ではないだろう、と心の中で小さな女の子の声がする。いなくなった葵ちゃんの代わりの人生を、消えた少女への贖罪の道を、一度失いかけてなお諦めのつかない心を。
『もう走らなくていい』
その言葉が麻酔のように心に染み渡っていく。
あの日からずっと奥底でジクジクと血を滲ませ続けていた傷の痛みが消えたような気さえする。
なんていう穏やかな心だろう。
でも、だというのに、私の目からは意思に反して涙が止まらない。パタパタとシーツに落ちて、清潔な白が濡れたグレーになっていくのを滲んだ瞳が捉えていた。