▼2 魔女
捕縛が終わっても、当然のことながら、それですべての仕事が終了というわけではない。
容疑者への聴取、その証言が正しいかという裏取りのための再調査、報告書の製作、手続きに必要なもろもろの書類製作、それに伴う事務作業、積み重なる地味な雑務、etc……。
ビスが抱えた全ての仕事を片付けたのは、二日目の昼を少しまわったところだった。
休日まるまると睡眠時間の半分を生贄にしたというのに、これでは仮眠もとれない。頭に住み着く白い睡魔をはらい除けながら、ビスの体は機械のように無心に動く。
ビスは仮面と釣鐘コートを脱ぎ、平時の制服に着替えて、上司に会いに管理局のオフィスのある街のはずれ、大通りのつきあたりにある『図書館』へ向かった。
管理局ビルディング――――俗称・図書館の外装は、五階建ての赤レンガ壁で、ゴシック様式を用いた洋館造りとなっている。積み木を積み上げたようなてっぺんに、黒い洋瓦の尖った屋根が乗ったその建物は、一歩踏み入れれば、大理石風の床と銀色の柱、スケルトンのエレベーターと、SFのロケーションになりそうな内装であった。
受付には、今日もカーキ色の詰襟制服を着た二人の受付嬢が、管理局ビルディング一階の玄関ホール中心にある円柱形の受付デスクに、背中合わせで座していた。柱型の銀色の受付デスクは、床よりも七十センチも高いところにあり、通る職員たちを俯瞰し監視している。
異種と異相ばかりの彼らでも、ある程度共通できる『美意識』というものがある。
そこに座る二人ともが、受付という『顔』にふさわしく、一部の管理局職員たちを熱狂させる美貌の持ち主だ。
「やあ、こんにちは。今日はいい天気だね。ビス」
と、上から朗らかに声をかけてきた『彼』は、ふさふさとした金糸の睫毛が縁取る目を緩ませ、ビスに手を振った。
受付嬢の麦穂とおなじ色をした髪からは二本の巻貝状の角が生え、傍らには立派な老木の杖の宝石が、彼の頭上を照らしている。
ビスは、彼のヤギの眼を見上げて言った。
「お元気そうで何よりです。クリスタベル」
「そうでもないよ。彼氏が寝かせてくれないから、ね? 」
ふふふ、とクリスタベルは可憐にして艶然と微笑んだ。
「きみの顔をここで見るのは、ずいぶん久しぶりな気がするよ。最近はどう? 」
「仕事を」
ぶつ切りで短い返事に、クリスタベルは朗らかに笑う。
「そう。『あっち』で忙しいんだね。お兄さんにもよろしく。ふふ、また呑みましょうって伝えて。次はきみもいっしょに。ハリーも連れてくから。ねっ」
クリスタベルの肘が、背後の娘を小突く。彼女は卵型の輪郭にやや長い首を持ち、小ぶりな鼻を上げ、縦に割れた瞳孔の大きな瞳でジッと高窓のステンドグラスを見つめていた。
花弁のように艶やかな鱗が天然の鎧として、頬をはじめとした皮膚の薄い部分を覆っている。このトカゲ娘の腰からは少年の胴より太い強靭な尻尾が生えており、そのギザギザの歯の生えた口はひどく寡黙。その細腕は、身長より大きなハンマーを振るい、三打で小山をも砕くことができる。
ハリーは少し振り向き、黄色い目を伏せて、小さく頷いて見せた。
「仕事もいいけど、息抜きも必要だよ? 」
「予定が合えば……」
ビスは困って、ついと視線をそらした。クリスタベルは呆れた顔で腰を上げ、おもいっきり腕を伸ばして、ずいぶん低い位置にあるビスの頭を突っつく。
「もう……体には気を付けてね。『あっち』はハードなんだから」
「……気を付けます」
サテュロスの温かな微笑みを背に受けながら、ビスはようやくエレベーターに向かった。
いつしか玄関ホールは、波を打ったように静まり返っていた。モーゼの気分を苦々しく噛み締めながら、ビスはまっすぐエレベーターに乗り込む。
まばらにホールにいた職員たちの眼が、いっせいにエレベーターで上がっていく白髪の子供を見つめていた。
広報雑誌のアイドルがそんな少年に向かって、ガラス越しになってもヒラヒラと手を振っている。
ひそめた声で、誰かが言った。
「……あれ誰? ベルちゃんの例の彼氏? 」
「違うよ……あれは、ほら……」
※※※※
五年前のこの街を、無数の破壊と、蜘蛛の巣状の炎が撫でた。
忘れもしない。三十年ぶりに降り積もった雪の冬。大みそかの三日前。
のちに首謀者とされた管理局職員の名前から『アン・エイビー事件』で知られることになる一晩の惨劇だった。
管理局は一割の職員と、街に住む本の一族・三百四十二人を失い、あの玄関ホールも、避難者たちで溢れかえった。
受付に座るあの二人含め、戦いとは遠ざかっている職員たちも、それぞれの武器を握って地獄を戦ったのだ。
山羊脚のクリスタベルは、『第一部隊』でただ一人、『仮面を付けない』『素性を隠さない』職員である。
彼の永続的な任務は、この施設自体の防守。管理局に紛れ込む敵を餞別すること。
携えた杖と、その眼で、受付から管理局の玄関を見下ろし、悪意を感じ取る。相棒のハリーは、武闘派の第四部隊所属の戦闘員。クリスタベルの護衛でもある。
二人合わせてこの組織の窓口であり、門番だ。
五年前、『敵』をこの管理局に招き入れた裏切り者がいたと周知されたとき。
クリスタベルは責任者として、受付の壇上から、群衆に向かってマイクを握った。
五年前。多くが失われた。
その日、本のくにには三十年ぶりの雪が降っていた。夜更けに雪は冷たい雨に変わり、夜空を炙る血の炎を、死神の黒に落とし込んだ。
長い夜が明け、青い朝日に晒されたのは、焼けた瓦礫の住宅街、裸にされた地平線、七百人の犠牲者と、生き残った六万人。
多くがつまずいて、失くしたものの多さに途方に暮れた。
ビス・ケイリスクは、つまずいたほうだった。家を失くし、管理局職員だった両親を亡くし、ろくに話したことのない年が離れた兄だけが残った。
もう五年も前のことで、たった五年前のことだ。
この街は、再び立ち上がっている。
ビスの体の時間だけが、止まったままだ。
場所は第一部隊の暗く無人のオフィスではなく、小さな使っていない会議室。
そこで待っていた今日の上司は、大人が無理に子供の声を出しているような、甘えた声の女だった。
「アン・エイビーは魔女だった」
この街には、人種としての『魔女』がいる。しかしそういった意味ではないことは明白であった。『裏切り者』『悪魔への内通者』を意味する『魔女』である。
「エリカ・クロックフォードは『魔女』なのか? それは彼女がこの管理局にやってきてから五年間、多くが抱いた疑念だ」
「五年? それじゃあエリカは、まだ十歳にもなっていないでしょう。どうしてそんな女の子の裏切りを疑うのですか」
「彼女の出生に問題があるのさ。きみとおなじ……」
「……僕と同じ? 」
これにはビスの凍った表情筋も、ごく僅かに動く。
「いや、訂正する。『きみたち兄弟』と、おなじだ。エリカ嬢もまた、血縁上の父親の被害者といったところでね。血縁というものは、なんて煩わしいものだろうか。わたしは肉親がいない身の上で助かった」
羽仮面の女は、舞台芸人のように肩をすくめた。
「エリカ・A・クロックフォード嬢は私生児だ。母親と祖父に育てられたが、そのフルネームの『A』とは、サテ……なんだとおもう? 」
彼が口にするフルネームには、確かにビスを呼ぶ時とおなじ響きがあった。
ビスは卓の上の少女に左目を落とし、顎を指先で擦る。
そこには、白磁の肌に鴉の濡れ羽の髪をした少女が、猫のように丸い瞳でシャッターを射抜いている。フラッシュに浮かび上がったその瞳は、瞳孔の底に星の光をたたえた、夜空の紺色だった。前髪のかかった眉が、きりりと引き絞った弓の弦に似ている。
顔を上げると、ビスを見る仮面の向こう、日替わりで変わる瞳が「きみならわかるはずだ」と笑っていた。ビスは再び、視線を写真に向ける。
明けの明星が落ちた瞳。銀色の光輪が彼女の黒髪を囲んでいる。この色彩と、目鼻の配置を、どこかで見たことがある。
この眼が見た記憶を掘り返す。
ビスの頭の中で、アルファベットの辞書と写真がめくられ、イメージの狭間に収められた数々の情報に光を当てていく。
明けの明星―――東の夜空―――紫色の花―――。
「A……『Azuma』……『シオン・東』……なるほど、管理局が長年追っている異世界旅行者ですね。彼女の父親は」
「『長年』なんてもんじゃあない! 彼は十四歳から数多の世界を渡り歩き、そして歴史を塗り替えてまわった世紀の勇者さまだ! 魔と戦い、戦争を終わらせ、恋人たちを導いた! 人々はシオンに『救われた』と口にする! しかしね、それは、異世界人が筋書きに介入し、世界を変えるということは、結末を早めさせるということに他ならない。観測できるだけで、二十一の筋書きを変えた。東シオンという男は。この、かわいらしい顔で」
羽仮面の女は、固いささくれのような棘のついた指先で、もう一枚の写真を卓の上に落とす。
黒髪に紫苑色の瞳をした少年の写真だった。少女と見分けがつかないほどに、若く可憐な容貌である。娘と同じ年のころだろう。
二人は双子のようによく似ていた。違うのは、『シオン』は肩ごしに振り返りながら、今にも泣きそうに眉を下げて上目遣いにレンズの方をうかがっているところか。隠し撮りだ。
管理局のファイルにある『東シオン』の姿は、多くがこのように情けない上目遣いばかりだった。つけられたあだ名は、『│泣き虫シオン』。管理局が収められた写真は、これ一枚しかない。
「しかし彼は、ひとたび剣を握れば人が変わる」
少年は、銀色に光る剣を手に、異界の戦場を駆けた。
いくつも。
数え切れないほど。
その姿を観測した管理局の職員は、そのおぞましい姿を今でも夢に見るという。
「彼が戦を終わらせるのか、彼が戦を呼び込んでいるのか、救い手となる勇者なのか、戦乱の悪魔なのか。しかし管理局職員たるもの、最悪を考えなければね。『夢魔』と呼ばれた男の娘だ。心してあたれ」
「はい。すぐに取り掛かります」
「監視といったけれど、なにもずっと張り付く必要はない。……言いたいことは分かるね?『眼』の使いどころを間違えるな……といったところで、きみには釈迦に説法か。問題はそれ以外にある。まあ、うまくやってくれたまえ」
オフィスを出て行こうとした羽仮面の上司に、ビスも立ち上がる。
「……ああ、それと、エリカ嬢が『保護』され、この国に来たのは、五年前の大みそか、その三日前だ」
礼をとろうとしたビスに向かって、とってつけたように羽仮面が言った。
「この日付の意味が分からないきみじゃあないだろう。当然、『アン・エイビー事件』の関与も疑われている。……これは極秘だがね。この国で、彼を見た人間がいるんだよ。確かな信用できる人物からの証言だ。彼が言うには、」
ビスは頭を跳ね上げた。怪人が父親の名前を口にしたからだ。
「……あの日、ダイモン・ケイリスクの死体の横に、『夢魔』が立っていたらしい」
=ビス・ケイリスク
この物語の軸となるイレギュラー。実年齢十六歳の外見年齢十二歳(かなり小さめ)。
白髪天然パーマのオッドアイ眼帯という中二病が爆発したような外見は、彼の意図したところではない。
特徴的な『光の波紋が波打つ瞳』を持ち、予知や記憶の読み取りなどを得意とする。
兄と二人暮らし。事情あって、両親が死んだ五年前のアン・エイビー事件まで離れて暮らしていたが、現状兄弟仲は良い。
わりと薄幸。本質が内気なので、人間同士の駆け引きが苦手。
秘密警察機関である、管理局の第一部隊所属。その捜査員としての身分を使い、両親の死の真相を追う。
『本』と異世界人のハーフ。




