▼11 FLY AGAIN
その時、エリカたちが見下ろす渓谷に、瞬く間に洪水のように七色の光が波打って満ちた。まるで無数の蛇が絡み合うように、質量ある奔流が谷から溢れ、彼らの足元にまでも届く。
『――――ハック・ダック教官との通信が途切れました』
エリカはブーツで地面を踏みにじるように立ち上がった。隣ではクルックスも同じく四つ足で立ち上がり、頭巾の下でぴくぴくと耳を動かしている。
「前言撤回! 確保に動きます! 」
「よし! いくよ! デネヴ! 」
「了解しました友よ」
デネヴのしなやかな肢体が、おもむろに崖を跳んだ。
薄布を巻きつけただけの褐色の体が、長い髪束を置いて切り立った山壁を落ちていく。デネヴは一振りのブーメランのように体を曲げ、腕を自らの頭に差し込むと、たっぷりとした自らの髪を指の間に掬って、ロープのように空へと投げた。
エリカとクルックスもまた、それに続いた。
細い髪束が二人の体にひとりでに巻き付き、デネヴという繰り手に引かれたマリオネットのように、ともにサーカスの縄芸の動きで、ぬるい白に染まった街の上空を泳ぐ。
デネヴの頭髪は擬態した触手である。それ一本一本が、大気より少し重い。本来は顕微鏡でしか視認できないほど細いそれを、ヨリ合わせ、密度を調節して、鋼より硬く尖らせる。
岩壁の隙間に投擲された触手は、岩に触れた瞬間に根を張るように土を掴み、宙にある三人の身体を吊り上げながらゴム状に伸びて空中へと撃ち出し、タンポポの綿毛のように渓谷の下に着地させる。
触手はデネヴの本体であり、それ一本一本がデネヴ自身のすべての能力を持つ。
デネヴに『視覚』という感覚は無い。
しかし、すべての五感を超越した『触覚』が、この触手には備わっている。
擬態、機動力、戦闘、生殖活動、それらを活用して生き延びる、管理局有数の生命力を持つ触手生物が、デネヴという生命体の本性である。
擬態した『手』と、渓谷内の空気の動きに操られ、触手は広い渓谷を縦横無尽に駆け巡った。
目に見えないほど細い触手たちの一部が青い大男に触れ、その腕の中の子供に触れる。
光より早くその認識はデネヴの擬態した声帯に伝わり、マイクが言葉を拾った。
「ハック・ダックとイレギュラーを確認……外傷は確認されません」
『それは良かった。もう一人のイレギュラー確保に集中できます』
「先いくよ! エリカ! 」
「後ろから援護するわ」
四つ足で駆けるクルックスが、いまだ白く靄のかかる街道へ先んじて飛び込んだ。ずんぐりとして見える体格は、いざ地を駆けるとなると、ばねのように伸びて、声を置いてきぼりにして小さくなる。
続くのは、デネヴ。触手に引かれて、地面すれすれを滑空しながら殿を蹴るのはエリカだ。
エリカが素早く手のひらで風をなぞると、銀色の帯が鎌首をもたげるように、靄を切り裂くクルックスの背中に向かって飛んだ。魔法の端が触れた瞬間、クルックスの体は解き放たれた矢のごとく鋭さを増す。
クルックスを、そのシルエットからは想像もできないほどの鎧のような筋肉が、天性の体幹が、音速に近い移動を支える。
音速を超えた滑走が、街道の煉瓦を、噴水の瓦礫を砕き、光の中心の切れ目に尖った鼻づらを刺し入れ、影法師のように心もとなく佇む『イレギュラー』の胴にタックルして前肢をまわす。
合図の代わりにクルックスは吠えた。マスクの下、彼に取り付けられた呼吸器の甲高い軋みを交じらせ、鬨の声に大気が震える。
瞬間、クルックスの腰にあるデネヴの触手が、レールを巻き上げるように、抱き上げた確保対象ごと空に跳ね上げた。
クルックスは広場を見下ろす協会の屋根に、軽やかに着地する。
「うわっ! あちちっ! 」
足元が滑る。もうもうと巻き上がる熱気と湿気。
この靄は『湯気』だ。熱せられ気化した水である。
「うう……」
クルックスの腕の中で、確保対象が苦し気な呻き声を上げた。
(……これを、この人がやったのか)
立ち込める蒸気が、渓谷を吹く風に僅かにならされ薄くなる。
『イレギュラー』が対峙していた怪物は、路地から顔を出した時の位置のまま、醜悪なタール状に地面を汚染しながら、焼き過ぎたマシュマロのように溶け崩れている。もう立ち上がることは無いだろう。
そんな、いまだ薄く靄のかかる広場に、無数の丸い影がかかった。
瞬きする前に彼が立ち尽くしていた場所に、音と熱波を立てて、大小いくつもの『象のあし』が上空から靄を踏みつけて出現した。
陽動役のデネヴが、『象のあし』を掠めてサーカスのブランコ乗りの動きで広場の端から端までへと飛ぶ。目玉の無い『象のあし』は、まるで首を回して睨むように、目の前を横切るデネヴを追って体を捻る。無機質にして醜悪、獰猛な悪意に、クルックスはゾッと背筋を震わせた。
そこに、エリカが遅れて街道から広場に足を踏み入れた。剣を振るように動かした右手から、広場一帯を掻き混ぜる魔法のつむじ風が吹き荒れる。先ほどの比ではない。
靄が晴れる。クルックスは、じっと細めた目を丸くした。
「うっひゃあ……えーと、いち、にい、さん……八体も!? 」
アンモニアに似た腐臭と、象のあしの表皮や踏みつけた瓦礫が焦げる臭い。鼻をつく悪臭が、靄の消えた広場に満ちようとしていた。
デネヴが再び陽動に飛び上がると同時に、地上にひとり残ったエリカは、今度は自らに向かって呪文を唱えて、路地の奥へと姿を隠した。近くに出現した三体の『象のあし』が、押しあいながらエリカを追って街道へと入り込もうとする。
その時、三体の表皮を、火花を散らして弾丸が穿った。
対向の屋根の上、小銃を下ろしたビス・ケイリスクが口を動かす。マイクから声変わりの無い声がする。
『対象の確保作戦成功。――――これ以上の交戦は不要です。第五部隊班、撤退します』
マイクから同じく、返答の声がある。
『こちら、ゾグ・ライヤー隊員了解。同時に、三班合同で街道一掃戦闘作戦を開始する。――――このデカブツども残らず追い出しやぁ!! 』
※※※※
「街道の水の採取を急げ! この暑さだ。水なんてすぐ乾いちまうぞ! 」
「アイアイ! ドク! 」
「ハック・ダックの方はどうだ? 」
「ピンピンしてるってよ。さすがだよなぁ……」
「オラァ! くっちゃべってンじゃねーぞ! 生体反応をしらみつぶしに探せ! 」
「っちーなぁ……水筒空っぽだよ~」
「ねえ! ぼくの機材ドコにやった!? 」
人影が消えて久しい街に、喧騒が一時戻っていた。
広場から外れた路地裏、ビスは手袋を外し、足元の煉瓦に触れる。
多量の水分が漂ったのであろうそこは、いまだ雨上がりのように濡れて硬い煉瓦の冷たい感触をビスの指先に知らせた。
「ねえ、エリカ知りません? 」
しゃがみこんだビスを覗き込むようにして、クルックスが尋ねる。
「もうテントに戻ったのかなあ……ねえねえ」
「すみません。すこしその街道を『視』たいので、ぼくの後ろのほうにどいてくれませんか」
「あっ、はいはい……透視ですか? 」
「いえ、過去視です」
「ほえ~なるほど……あんまり違いは分かんないけど」
ビスは右の青い瞳に被さった重たげな瞼を少し持ち上げ、じっと街道を見つめると、少し悩んで左目の眼帯に手をかけた。黒革のベルトを外し、邪魔にならないように襷のように肩にかける。内側の白いサラシが現れ、少年の印象がさらに白く不健康な印象になった。
遠くの喧騒とギョッとするクルックスをしり目に、ビスは作業的に布を取り去って、裸の顔を街道に向けると左目をすがめる。
「な、なんかわかりました? 」
「……はい。どうやらエリカさんの作戦は成功したようです」
「え? 作戦? ……え? 」
クルックスのエメラルド色の瞳がさらに丸くなり、口布の下でぱっかりと顎が開いた。