▼10 laterality
ミーシャが『目覚めた』のは、ほんの半年前のことである。
蒼馬と出会って、四か月と少しほど経ったころだった。
ある日、寝床で微睡みから覚めると、明らかに目の前の光景が違って見えたのだ。
窓から差し込む光を『朝日』と認識し、小さな手指ひとつひとつの名前が分かる。道具は用途によって名称があり、大気の色さえ、朝と夜では異なる呼び名を持つことを、その日のミーシャは知っていた。
今まで見ていたすべての景色は、比べて見れば、水の中で目を開けていたようなものでしかない。
『自我を持った』というのだろう。ミーシャの記憶が目覚めたのは、その朝のことだった。
ミーシャ以前の記憶を掘り返してみると、それはずいぶんぶつ切りで、不明瞭である。
色で例えるなら灰色。白黒の無声映画のよう。
しかし実物を見れば、朝日は『朝日』という名前のものとして、いくつかの思い出が鮮やかな写真として切り出されて頭に浮かぶ。無機質な電信柱と電線に切り取られた空と風、摩天楼の隙間にある街道の排気ガスの匂い、春の桜の雨、秋の落葉を踏む足の裏、携帯電話を握る感触も、蒼馬の語る夢物語を聴けば、おのずと思い出すことができる。ミーシャの『記憶』とは、そういったものだった。
自分がどこの誰で、どういった名前かだけは思い出せない。
生々しく思い出すことができるのは、今わの際に抱いた感情だけだ。
苦しい! 痛い! 息が出来ない!
……何でおれがこんな目に。
あんたのせいか。あんたのせいか! あんたの……! 殺してやる……殺してやる! 殺して――――……。
「……確かに、あたしの【中身】は、このミーシャのものじゃあない。それは認める。でも、あたしにだってなんで│こう«・・»なったのか分からない。あたしは何にも知らないよ。あんたは何をしにきたの? 」
「この世界を救いに来た」
上目遣いに尋ねたミーシャに、青い男――――ハック・ダックは何の気負いも情熱も乗せず、いたって当たり前のように言った。
ギョッとする幼子に与えた衝撃を、ハック・ダックはまったく認識していないように見えた。ぼりぼりと太い首を掻き、「この国は虫が多いな」などと呟いている。
「あっ――――あんたには、それができるっていうの……? 」
「それ? 」
「この世界を救うって言ったでしょ!? 」
「ああ、それか……だからそのために来たって言っただろ。それが俺たちの仕事でな……要領を得なくてすまんな。見目が小さいから話し辛くってよ」
近づいてきた男にミーシャは圧倒される。100センチほどしか無いミーシャにとって、ハック・ダックは怪獣に等しかった。
(……もし、この男が、あたしを捕まえたら逃げようがない)
そんな絶望感を感じさせるスケール。
(うわっ……想像以上に細くて小せぇな……こんなの、おもちゃ屋のぬいぐるみくらいじゃあないか? これで地面を歩けるのかよ……スカウト交渉の経験少ないんだよ……)
一方、ハック・ダックもまた、汗で体が冷たくなるのを感じていた。
ハック・ダックは、自身の面相を五八年の人生でいやというほど承知している。長年の独身生活で愛想を知らず、子守にも縁も無い。(個性で殴りつけてくる教え子たちは例外だ)
さらにこの異形といえる体は、ずいぶん恐ろしく見えるだろう。さしずめ、フランケン・シュタインの怪物だ。同じくらいハック・ダックも、目の前の幼子が恐ろしい。さしずめグッド・ガイ人形に相対するアンディ……は言い過ぎか。
ハック・ダックは跪き、それでも胸の高さほどしかない少女の顔を覗き込み、ミーシャもまた、決意を込めて男を見返した。
怯えて濡れるエメラルド色の奥が、力強い意志の炎で燃えている。
男の水晶体の底で、青白い稲妻を思わせる光がチリチリと燻ぶっている。
汗の味がする唾を飲んだ。
「危害は絶対に加えないと約束する……。俺と来てくれないか? 」
「いやだって言ったら? 」
「俺がここに来る。……俺の質問に答えてほしい。話をするだけだ。きみたちにしか答えられな―――――」
何が起こったのか分からなかった。
耳で音を認識するより前に、目の前から鋼の両腕がミーシャを縛り上げる。悲鳴を上げた幼子の目が、耳が、遅れて男の肩の隙間から空を見る。
―――――一瞬、街の空に高々と、鉛色の柱が立った。
なんて、大きい―――――!
柱は、それは、穿つ槍のように市街の屋根に隠れる―――――一拍遅れての轟音そして振動……!
※※※※
小津蒼馬は、あらんかぎりに目を見開いて、路地裏から砂塵の舞う街道へとまろび出た。
自分の股越しに、先ほどまで足を置いていた地面が丸く赤黒く焼けて、どろりと融解するのが地響きと共に見える。
鉄を打つ槌のように、その『アシ』が蒼馬を踏みつぶさんと再び持ち上がった。
蒼馬は頭を抱えて、ごろごろと地面を転がることで、槌の脚を避けて少しでも距離を取る。痛みは無いが、凍らせたはずの死への恐怖が、胸の内で溶けだしている。
命の危機に、見た目などは気にしていられない。この一年間で皮が捲れ、血が出て肉を打ち、骨身にまで刷り込ませた『生き方』と、無理やり目覚めさせた『本能』は、もはや勝手に体を動かしてくれる。
(慌てるな。考えろ……なんで街中に魔王の手下がいる? 街にはクォルがあれが入ってこれない守護の呪いをかけたはずなのに……いや、クォルが死んで時間が経ったから呪いの効果が切れたのか? )
かつて『広場』と呼ばれた、広い十字路に出た。
一般的な日本家屋どころか、マンション一棟建てられるほど開けた中心には、荒野のオアシスの街としての象徴だったはずの、朽ちた大きな噴水がある。
鮮やかな緑色に塗られていた噴水はこの一年ですっかり禿げあがって、四mはあるかという噴水口は半ばで折れている。
(じゅうぶん距離はとった……この広さなら、『戦える』)
蒼馬は噴水を中心点に、怪物が現れるであろう路地に相対する反対側で足を止めた。体を反転させ、路地を睨みながら腰を低く構える。
(いける。大丈夫。自分を信じろ。小津蒼馬。……何度もシュミレーションしたじゃないか。ぶっつけ本番、今使わないでいつ使うんだ。大丈夫、大丈夫……)
ここで逃げれば、いらぬ心配事が増えるだろう。
ミーシャと離れていたのは、幸運だったのかもしれない。もはや彼女を守ることが、蒼馬にとっての命題である。
危険の種は、ひとつでも潰す。
それが『種』というには強大すぎる脅威であっても、立ち向かわないわけにはいかないのだ。
※※※※
同時刻。渓谷上。
「戦闘が始まりそうです。……どうします? 加勢しますか」
渓谷を双眼鏡越しに覗き込みながら、エリカが通信機に向かって問うた。
『……いえ、少し待ちましょう。今しがた、ハック・ダック教官が片方のイレギュラーを確保しました。『魔王の怪物』の正体がわかるかもしれませんし……勇者がどこまで出来るのかも確認しておきたいです』
「イエス。いつでも飛び出せる姿勢で待ちます」
『はい。危険と判断したなら、各自、指示を待たずに行動を許します。対象の確保は急ぎません』
「イエス」
※※※※
首筋を汗が伝う。
もぅ、とした砂交じりの熱波が、蒼馬の肌を炙る。
家屋に遮られていた怪物の姿が、今まさに広場へと姿を現した。
それは『象のあし』に似ていた。
象というのは、灰色で、ごつごつと固い皮を持ち、平らで丸い足裏を持っている。
そんな象のあしだけが、一本の巨大な野球バットのように直立していた。
その象のあしは、濡れたゴムと、硬質な金属の質感と、それが今しがた真っ赤に溶けだしたような粘的にふやけた表面とを共存させている。熱さを放出する塊は柱のように立ち、打ち付ける杵のように地面を丸く砕き溶かしながらやってくるのである。
溶けだした恐怖を振り払うように、体中の筋肉に力を籠め、足裏で地面を踏みつける。
(あいつを守る――――! )
「ぅううぉぉぉぉおおおおおおおおお―――――――ッ!!!!! 」
叫ぶ。
※※※※
同時刻。
たまらずギュッとミーシャは目を瞑った。糸で引かれたように、意識が頭の深層に吸い込まれていく。
「落ち着け」
引き戻したのは、目の前の男の声と鼓動だった。瞼を開けると、男の腕の影の中で何も見えない。恐怖に強張った体に、人肌にしては熱い体温を感じたと同時、視界が眩しくなった。
男自身が、青く発光しているのだ。浮き出て脈打つ血管が、地中の根のように浮かび上がる。血管の中枢である心臓は、ひときわ眩い。
「すごい……CGみたい」
「あ? なんか言ったか? ……くそっ! 悪いが移動するぞ! 俺たちの拠点なら確実に安全だ」
「えっ! ちょっと待ってよ! それならあいつ、ショーマも連れて行って! ショーマも助けて! 」
「そっちは別の奴が保護に向かっている。心配すんな。……あっ」
嫌な予感のする『あっ』だった。
※※※※
蒼馬は、握りしめていた杖を振りあげる。立派な杖だ。つやつやとアンバーに輝く木彫りの杖は、どれだけの人が握り、『魔法』を放ったのだろうという風格がある。
中心には、かつてのこれの持ち主と瞳と同じ緑色の宝石がはまっており、宝石の中心には、まるで琥珀のように異世界の神秘的な虫が閉じ込められていた。
立派な『魔法使いの杖』だった。
かつての持ち主――――クォルは言った。
「これは、もともと僕の祖父のものなのです……その前は、その父。さらにその前は、その父の。代々、神に祈ってきた我が血族の祈りに形があるのなら、それはこの杖だと言えましょう。……ねえ、勇者様……」
クォルは、最期まで蒼馬を『勇者様』と呼んでいた。頑なに蒼馬が名乗らなかったからだ。
「巻き込んだのは我々です。神に願ってしまったのは我々だ。それでも確かに、あなたは神に選ばれた。……あなたが世界とわれらが神に祈ってくれるのならば、それはきっと、世界を変えるほどの奇跡になりましょう」
杖が落ちる。
取り落としたクォルのかわりに、蒼馬の腕が落ちた杖を手に取った。病人には目映い七色の燐光が、クォルの頬と瞳を照らす。
「……ああ、あなたはどこまでも優しい方だ」
クォルはベットの中で、ひどく安心したように微笑んだ。
蒼馬は刀を構えるように、強く杖を握る。
ぼう、と、陽の下でもはっきりとした燐光が琥珀に灯り、瞳が瞬くように、緑が赤、黄色が紫に、白が黒へと、色が反転し―――――そして。
……そして、蒼馬は。
※※※※
ミーシャの視界が、再び塗りつぶされる。
赤に。黄色に。緑に。藍に。紫に。
(縋る腕が強張っている。目の前の男が霞んで見えなくなる……)
色と光の奔流。
(破壊を予感した本能が、体を固く丸めて踏みしめる)
色は渦巻き、ねじれ、身をよじるようにしてどす黒く……不気味に膨れ上がる。
今度は黒を切り裂き、凡て包み込むように白く――――。
(熱。巨大な手のひらに握りしめられたように、熱に締め付けられる。息が! )
―――――(世界が……)ひたすら(白く……)真っ白に………。