▼9 Oblivious
眠るたび、嗅ぎ慣れたにおいが漂う暗闇を夢に見る。
垢が染みるほど握った道具の手触りを夢に見る。
もう忘れた故郷の声は、夢の中でだけ再生されて、思い出したと錯覚する。
あれだけ忌まわしくて憎んだ学校を、教室を、道場を、家を、思い出をなぞる夢を――――幻を見る。
眠るたびに期待する。
明日はどうだろうか。何か変わっちゃあいないか。誰か助けてくれないか。……家に帰ってはいないだろうか。
眼が覚めるたびに、涙が出る。
何も変わっていない朝が来た。誰も助けてくれない未来が来た。残酷なだけの、無慈悲な地獄。それは、ひたひたと覚醒の奥からやってきて、俯いたおれの頭上で哂っている。
現実は地獄だと思っていた。嫌いなモンばっかりだった。
でもあんなもん、生温いんだ。あんなもん、どこにでもある。誰が強くて、誰が弱かったかという話だ。
ここが地獄だ。本当の地獄は、何もない。争う人もいない。誰もいない。ひとりぼっちだ。
どうしておれは、ここにいるんだろう。
勇者なんてもんに選ばれちまったんだろう。
誰かに見つけてほしかった。選ばれたかった。
これはきっと、『ずる』をしたから罰が当たったんだと思うことにした。そう考えなきゃあ、おれは死んでしまうと思った。
なんでおれはまだ、生きているんだろう。
もし、おれが『勇者』をやめることができたなら。
……もし、あの湿った寝床のある場所に帰ることができたとして。
果たしてみんなは、いまのおれを『おれ』だって、分かってくれるんだろうか―――――?
※※※※
暗闇の中に浮かび上がる天井は、すでに見慣れてしまったものだった。
「ばあっ! ――――あっ、ショーマ起きた? 」
「……しょーまじゃなくて蒼馬だって。何度言ったらわかんの」
声に応えて、体を確かめるようにゆっくりと起き上がり、傍らにちょこんと座る『もの』の姿を視界に捉える。目元の垢をこすってやり、腹までめくれた裾を下ろし、跳ねた髪を手櫛で梳いてやると、その『もの』は口元を小さな手で押さえて笑った。
「……ミイサ、女の子だろ」
「ミイサじゃないミーシャよ。ショーマ」
「だからショーマじゃねえったら……」
憂鬱な気分で、今日も蒼馬は蚊帳のように吊った天幕をめくる。
日光の殺菌作用はばかにできないことをこの一年足らずで学んでからは、一日の初めはこうして襤褸の天幕をめくるのが日課になった。
恐らく街の有力者の所有だったのだろう、屋敷のリビングの端を布で仕切った居住空間は、たかが孤児二人の手では手入れにまで回らず、この一年の動乱で廃屋と言っていい様相を表していた。
差し込んだ眩い陽の光に、幼子が緑色の目を細める。エメラルドの緑よりも淡い、黄色がかったペリドットの色だ。その肌の色はよく日に焼けて、こんがりと焼けたパンのような色をしている。
「……おまえも喋るようになったんだな」
蒼馬のつぶやきに、ミイサは不思議そうに、無垢そのものの瞳で見つめ返した。赤ん坊の成長とは恐ろしい。自分もこうだったのだろうか……。
いや、きっとミイサの頭の出来が良いのだと思うのは、親心のようなものなのだろうか。
「ミイサ、めし探し行くぞ」
「はあい」
相手の手のひらを握り切れないほどに小さな手が、蒼馬の指を二本だけ握りしめる。
ミイサは、神官クォルが死んでしばらくしたころ、廃屋を漁っていたときに見つけた子である。
おくるみに包まれたまま、家屋の奥の蒸した寝室に放置されていた子供は、ようやく立って歩けるほどの赤ん坊だった。
『ミーシャ』と名付けたのは、つい三日前まで生きていた酒屋の子だった少年だ。
健康なものからやられていく異界の病。
働き手を失くした住民たちは、体が動けるうちにと街を出て行き、残ったものは、端から病に切り取られる。残ったのは、孤独で衰えた老人や、未熟な子供、病人たちばかり。
赤い大地の荒野。ゴーストタウンとなるのに、そう長くはかからなかった。人が消えれば、争いも無くなる。最初の半年、その住民たちの手で行われた破壊は、奇しくも彼らがいなくなったとたんにピタリとやんだ。
そうなると、西部劇のような街並みは、乾いた風と太陽と荒野に生える生命力の強い植物たちに侵食され、どんどん様相を変えていく。
ミーシャの名付け親の少年は「ようやくおれの番だ」と、黒い指先を陽に掲げて言った。
この街が過去、どれほど繁栄していたのか、想像に容易い。けれど、その真の姿を知っていた最後の一人は、そうして晴れがましく全てを諦めた顔で、自分の体が動かなくなるのを待っていた。
自ら棺桶に横たわったようなもの。蒼馬は置いて逝かれたのだ。
「……くそっ! 」
病のように胸を侵すものは、唐突に発起して体を暴力へ動かす。
とつぜん手近な壁を蹴り上げた蒼馬に、ミイサは何も言わずにそっと手を離れて、蒼馬を置き去りに脚を進めた。歩きなれたいつもの川辺へと向かうことは蒼馬も分かっている。
その行動は、蒼馬の暴力衝動を見て学んだ幼いミイサなりの防衛術なのかもしれない。
実際のところ、何度も幼く何も分からないミイサに、その暴力が向かいそうになったことがあった。幸いにも、蒼馬の理性が宿った拳は振り下ろされなかったけれど。
小さな背中。
自分はあの子供の存在に、救われているのだと思い知る。
「情けねえなぁ………」
※※※※
ミイサこと、ミーシャは、とことこと小さな脚を動かして、河川敷の足場の悪い砂利道に踏み入った。
(ショーマを待ってるあいだ、石投げでもしとこっと)
よく跳ぶのは、皿のように薄い石だ。なおかつ、この小さな手にフィットするくらいの大きさ。
渓谷のはざまに流れる川の名前を、彼女は知らない。渓谷を象徴できるくらい大きな川なのだから名前がついているはずだとは思うのだけれど、同居人の少年はこの世界にとって新参者で、彼女に教えられるだけの知識が身についていなかった。
ミーシャには、知らないことがたくさんある。
自分の姓。母の名前。父の名前。自分の誕生日。自分の年齢。この国の暦の数え方。この『惑星』から見える星―――――。
ミーシャは石を拾う手を止め、小さくため息をつく。
いったい何に対しての溜息なのか。この小さな頭では理解できなかった。
しいて挙げるなら……終わりつつある世界の端にしては、この澄んだ川のある景色が綺麗だったから、だろうか。
ふとミーシャは、あたりを見渡した。
「……だれ? 」
見通しの良い河川敷だ。ミーシャはなだらかな坂を描く堤防を見上げ、威嚇の真似をする小虎のように睨みつけた。
「そこにいるでしょう……わかってんだから。だれ? 」
ミーシャのペリドットの瞳が、警戒を内包して燻ぶる。
もったいぶるように太陽を背にして現れた影を見て、ミーシャは奥歯を噛み締めた。影は大股でミーシャのもとにまで歩いてくると、彼女を見下ろして口を開く。
「餓鬼の目じゃねえ……驚いたな。おまえ、中身は何回くらい死んだ? まだ一回目か? 」
ミーシャは低く唸るように疑問を口にする。
「……あんた、なに」
「何、だって? ふふ……分かるだろ? 」
肌が粟立つ。がたがたと棒っきれのような膝が震えている。
三歳の少女の皮は、もはや破れていた。
ミーシャは自答する。
(そうだ。あたしは一度死んだ。何も分からないまま、泥みたいな血を吐いて、わけわかんない苦痛を押し付けて来た世界を呪いながら、無様に死んだ。勇者の成り損ないだ)
しかし、それを指摘される時が来るとは思わなかった。
混乱と警戒、そして少しの『何か』への期待、期待してしまう自分への嫌悪。
苦虫を噛み締めた顔の幼女を見下ろして、「面白いものを見つけた」とでも言うように片眉を持ち上げた男は、おそろしく冷たい青い肌をしていた。男は少年のように笑う。
「ま、同じ穴のムジナってやつさ。よろしくな。転生者の異世界人さん」
物語で見た悪魔の使いみたいだ、と、ミーシャこと、ミイサ――――改め、名も無きかつての地球人は、思った。