7 逢引
早朝、親が寝ているのを見計らって家を出ようとした僕とアリスだったのだが──
「お兄さん、アリス、お出かけ?」
もしかしなくとも、妹の夕暮だ。
起きたばかりなのだろう、艶やかな黒髪は四方に飛び跳ね、猫を思わせる切れ長な眼は眠たげな半開きという有様である。
そんな状態であろうと、それほど大きくない支度の際の物音に反応して起きてくるというのは《時間泥棒》によって培われた危機察知の能力の賜物か、はたまた生来のものなのか。
どちらにせよこれからデートだという時に妹に見つかるというのは非常に都合が悪い。それも、からかうのが大好きな夕暮ならば尚のこと。
しかし、そうして内心で冷や汗をかく僕のことなど露知らず、アリスの態度はといえばあっけらかんとしたものだ。
「そうよ。これから遊園地へ行くの。あ、そうだ! 夕暮も行く? 三人で行ったらきっと楽しいわ!」
あまつさえ夕暮を遊園地に誘いまでした。だが、夕暮はほわっとひとつ欠伸をすると、
「いいえ、今日は遠慮しておく。疲れてるから家でのんびり休日を満喫しているわ」
「そう……ならしょうがないわね。じゃあ一日お兄さんを借りるわ」
「どうぞ、こんな兄でよければ」
いつものようにからかってこない夕暮。
アリスと夕暮はここ一週間でかなり仲良くなっていたので、その信頼ゆえなのだろうか。
それにしても「こんな兄」とは心外だが。まあここはからかわれなかった事実に免じて不問に付そう。
「じゃあ、行ってくるよ」
「行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
そうしてアリスが玄関を出て、僕も続こうと靴を履く。するとそこで夕暮に肩をつつかれる。
何事だろうと振り返った僕の耳に囁かれたのは
「帰ってきたらどこまでいったか報告してね」
という言葉。
そして何より恐ろしかったのは、無表情の隙間から漏れ出る「帰ってきたらお兄さんをからかおう」というサディスティックな愉悦の色だった。
やはり僕の妹は侮れない。
−−−
早朝──具体的に言うなら朝の六時に空いている遊園地など有りようもなく、僕たちは喫茶店で朝食がてら時間を潰すことにした。
とはいえ早朝六時から開店している喫茶店というのも中々に稀有であり、僕の知っている限りでは一店舗しかない。
その喫茶店──「RoBin」は、いかにも大人の隠れ家といった風情で、古書がぎっしりと詰め込まれた本棚や、最奥に据えられた木製の年季の入ったカウンター、そして蓄音機から奏でられるジャズ音楽などが相まってレトロな雰囲気を醸し出している。
熟成された趣は学生にとって決して親しみやすいものではないのだが、僕はこの喫茶店がなかなかどうして気に入っていた。
あまり友人との会話を得意としない僕にとって、沈黙を了としてくれるこの場所は貴重なもので、一人になって考え事をしたい時や、また寡黙なマスターに悩みを聞いてもらうために幾度となく足を運んでいたのだ。
そういうわけで僕はこの店のいわば常連であるのだが、よくよく考えてみると誰かを連れて来たのは初めての経験である。それに連れてきたのはアリスという意中の女子だ。
僕の全身を両親に彼女を紹介するのにも似たむず痒さが支配する。
もっとも、今まで両親に紹介する彼女自体が居なかったので、比喩が適切なのかは計りかねるところではあるのだが。
ともあれ、カラコロというこれまた店内の雰囲気に違わず、レトロなベルの音とともに店内に入ると、
「いらっしゃい……また来たのか」
「お久しぶりです。最後の呟きは聞かなかったことに」
「また来たのか」
「二度言わなくても良くないですか!?」
お決まりのやり取りを終えると、マスターがふと小さく微笑む──というのがいつもの着席の合図となっているのだが。
「で、そこのお嬢さんは?」
「ああ……えっと」
「私、アリスって言います! ジックの彼女です!」
かつての僕の夕暮への発言の意趣返しのつもりだろうか。あまりにも唐突な宣言に「んぐ!?」なんていう意味不明な声を上げてしまう。
しかし勢いよく振り向いた先にあるアリスの顔は真っ赤で、なんともまあ彼女らしくはあった。
その二人の様子にマスターは珍しく小さく吹き出すと、
「ジック……ほう、このガキのか。えらいもの好きもいたものだ。そうか、それじゃあ今日はそんな可愛らしくて奇特な彼女に免じてコーヒーを一杯ずつサービスしよう」
基本的に善良なマスターなのだ。だけれど、
「釈然としないなぁ……色々と」
「ありがとうございます!」
言葉の端々に棘を潜ませたマスターの発言に複雑な心境になるが、まぁアリスが喜んでいるので良しとしようか、なんて。
それにきっとマスターも気心知れた仲だからこそこんなことを言うのだろう。というかそうじゃなかったら泣いてしまう。
「あ……でも……」
「どうしたんだい、お嬢ちゃん」
「私コーヒー飲めないので、他のでも大丈夫ですか?」
勢い込んで登場したのと同一人物とは思えない控えめなアリスの台詞に、僕とマスターは顔を見合わせて小さく吹き出したのだった。
−−−
席に着いてから五分もしないうちに僕にはコーヒー、アリスにはミックスジュースが運ばれてきた。
ぼんやりと湯気の立ち上る黒色の水面は、店内の穏やかな暖色のあかりをゆらゆらと揺蕩うように反射させている。そしてそこからふんわりと香るのはコーヒー独特のあの香り。
香りに惹かれるようにして顔をカップに近付け、まだ熱いコーヒーに少し息を吹きかけて冷まして、一口。
広がるのは豆の奥深く強かな苦味と、少しばかりの酸味。
それを数秒舌で転がしてから鼻から息を抜いて今一度香りを堪能すると──一息。
カップからコーヒーが垂れないように拭き取ってカップに戻して対面のアリスを見ると、彼女は両手で長靴のような形状のグラスに満たされたミックスジュースをんくんくやっている。
どうやら気に入ったようで、グラスの四分の一ほどを一気に飲むと、
「美味しいわね!」
満面の笑み。その無邪気な笑みに思わずにやけてしまう──と、それに気付いたアリスは頬を膨らませて
「な、なによ、ニヤニヤ笑って! どうせこどもっぽいってバカにしてるんでしょ! あーそうよ、どうせ私はこどもっぽいわよ!」
「いや、別にそんな」
「いいえ、笑ってたわ!」
「いやだからそれは……」
「それは、なによ?」
「素直に可愛いなって」
「かわ……いい?」
キョトンとしたかと思うと、その一秒後にはその顔を下から上に真っ赤に染め上げる。
そして口を酸素を求める魚のようにパクパクとしばらく開閉させて。
「なな、なななな、なななななな! 何を!? 私がかかか、可愛いだなんてあるわけないじゃない!!」
「でもこの前自分のこと美少女って言ってなかった?」
「そ、そうね! 当たり前じゃない! って違う、そうじゃなくて、これはこれ! それはそれなの!」
そのまま紅い顔をぷいとしてしまったアリスの頭頂からはぷすぷすと湯気が出ており、彼女がいかに恥ずかしがり屋であるかを如実に語っていた。
普段の自信に満ちた言動とは裏腹に極度の恥ずかしがりであるのだということはここ数日でよく分かったことの一つであり、勿論夕暮にもからかわれていた。
でも僕は思うのだ。そんな恥ずかしがり屋なところこそが愛らしいのだと。
だから。
「ははっ」
「あーもう! また笑った!」
「だってあまりにも照れちゃったもんだから。くっはは」
「て、照れてなんかない! もう! 笑うなー!!」
そうしてむすっとしてしまったアリスをなだめながら、僕は「可愛い」と言ったときの頬の余熱を冷ますべく、顔を扇ぎ続けていた。
きっとバレてない、よな?
−−−
「ん……む……」
瞼が重い……。恐らくは昨日の《時間泥棒》が響いているのだろうか、どうやら知らぬ間に寝落ちしてしまっていたらしい。さっきまで湯気を燻らせていたコーヒーもすっかり冷めてしまっている。アイスコーヒーと化したそれを一気に飲み干すと、ようやく目が冴えてくる。
「すー……すー……」
そして、対面を見れば、アリスも寝ているではないか。まぁ、僕がこの時間まで寝ていられたということはそりゃそうか。
天使を思わせるあどけなさと無垢さの同居した寝顔に、アリスも昨日僕を待つために遅くまで起きていたからな……なんて微笑んでいたのも束の間。
「なっ!? おい、アリス! 起きろ!」
「むぅ……何よ?」
「何よじゃなくて、時間だよ時間!」
「時間って何よ……だってまだ六時過ぎじゃ……」
「それはここに来た時間! いいからしっかり目を開いて携帯見て!」
「そんな大声出さなくても……って、え!?」
「急いで支度して出よう!」
携帯の待ち受け画面に表示されていた時刻は八時。遊園地の開園時間の一時間前だったのだから。
「ま、待って! まだミックスジュースが残ってる!」
両手で、またしてもアリスがんくんくやって飲み干すのを待ってから、
「マスター、ごちそうさま!」
「ごちそうさまでした!」
どたどたと忙しない僕たちにため息を吐きながら、気のいい店主は右の口角だけを釣り上げて言うのだった。
「ああ、楽しんでこい」
その声を背に受けながら、僕たちは駅への道を走り始めた。
が、しかし。
「あ、坊主、金払ってねえぞ」
珍しいマスターの大声にものの数秒で出鼻を挫かれる形になったのだが。