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5 不運な遭遇

 「それじゃ、親御さんが帰って来るまでにお風呂済ませなきゃなんだけど、洗濯物とかでバレてもあれだし銭湯に行ってくるわね」


 そうアリスが言ったのは時計の短針が「6」の文字を少し過ぎたあたりだった。


 「そうだね、両親とも仕事で遅いから多分そんな急がなくても大丈夫だとは思うけど。何かあったら電話するよ」


 「なるほどね。じゃあ少し出てくるわね。くれぐれも鞄は開けるんじゃないわよ?」


 「分かった分かった」


 そして僕は失念していたのだ。

 そう、六時過ぎ、それは


 「だっ、誰!?」


 ──妹が大体いつも帰宅してくる時間ではないか!


 「うわ、やべっ」


 アリスの悲鳴を聞いてその事実に思い至った僕がダッシュで現場に向かうと、そこに流れていたのは重苦しい沈黙。

 どこか雰囲気の似た二人が、片方(アリス)は目を見開いて、片方(夕暮)は感情の読み取れない表情で対峙している。

 

 「あ……」


 あちゃーこれはやっちゃったな……なんて心の中で頭を抱えていると、そんな心中を知ってか知らずか夕暮が口を開く。


 「お兄さん、この人はお兄さんの、コレ?」


 右手の小指を突き立てながら、無表情で。……ってか「コレ」って聞き方おっさんかよ……。

 どこか楽しんですらいそうな妹にそうツッコミを入れたくなる僕だったが、それより先に叫びにも近い声が聞こえてきたものだから、それも叶わなかった。


 「ちっ、違うわよ! わわわっ、私はそんなんじゃ!」


 「ムキになるところが逆に怪しい」


 「ム、ムキになんてなって」


 「否定するのが逆に怪しい」


 「じゃあどうしろって言うのよ!!」


 あ、こいつ確実に楽しんでるな──なんて僕には分かるわけだが、ついさっき夕暮と知り合ったばかりでこの無表情から読み取れるやつがいたらそれこそエスパーか何かだろう。

 どうやらアリスはエスパーでは無いらしくこうして弄ばれているわけだが、夕暮が楽しむのもわかるくらいリアクションがオーバーで面白いな。

 とはいえいつまでもこうしていて後で拗ねられても堪らないので、


 「夕暮、そろそろやめてやれ」


 「あ、お兄さん居たんだ」


 「さっき話しかけてたよな!?」


 妹が楽しんでいるのが分かるからといって上手く扱えるわけではない、ということなわけで。

 危うく妹に流されそうになるのを深呼吸で留まると、僕は言うのだった。


 「まあ聞け。夕暮はこの子について聞きたかった、違うか?」


 妹がこくこくと頷くのを待って、続ける。


 「この子は、僕の彼女だ」


 ……


 …………


 ………………


 「え」


 妹の短い驚きの声の後、


 「えええええええええええええええええ!?!?」


 玄関にはアリスの悲鳴が響き渡った。


−−−


 ──ぱさり。ふぁさ、ぱさり。


 狭い部屋に、乾いた音が断続的に響く。

 

 そして、その狭い部屋──脱衣所に響くのはその音だけではなく。


 「あれよあれよと、って感じだったけど……どうしてこうなったのかしら……結局お風呂も借りることになっちゃったし……」


 どこか戸惑いをも感じさせるような呟きを漏らすのは一人の少女。

 ワンピースのファスナーを乱暴に下ろして脱ぎ捨てるかのように洗濯機に放り込むと、少々幼い顔と容姿から周囲に与えるフェミニンな雰囲気に違わぬ、薄ピンク基調のレースが随所にあしらわれた下着が露わになる。

 そしてその格好のまま洗面台に手をつくと、


 「家に泊めてもらうところまでは良かったのよ。でも銭湯に行こうとしたらあいつの妹さんと遭遇して……で、『俺の彼女だ』って……あーもー!」


 ぶつぶつと呟いたかと思えば突然頭をくしゃくしゃとし出す。

 亜麻色の髪に隠れた頬が少し紅くなっているのは、きっと気のせいではないだろう。

 そしてその勢いのまま下着も乱暴に脱いで、ワンピース同様洗濯機に叩き込む。次いで髪の毛を軽く纏めてから、風呂場へ。

 まだ湯気の立っていない風呂場特有の寒さにアリスは思わず身震いすると、急いでシャワーを出す。


 ──ジャージャージャー。


 シャワーで頭からお湯を被ると、今日一日のことが全てお湯とともに流れていく気がするから不思議だ。

 

 「あぁー癒される……」


 そしてひとしきりお湯の温かさを享受すると、タオルで石鹸を泡立て、それを瑞々しい柔肌の上に走らせる。

 こじんまりとした胸に始まり、優雅な曲線を描く腹・腰を経由し、引き締まっていながらもぷりんと張り出している臀部──の順番で手際よく体にふんわりとした泡の衣をまとわせてゆく。

 体に溜まった疲れと汚れがどんどん取れていっているような気がして、最後は鼻歌交じりで泡を洗い落とすと、ようやく湯船へ。


 腹の底からじんわりと広がる温かみに感動にも似た「ほぅ」という吐息を漏らしながら、アリスの頭を占拠していたのはただ一つの感情。


 (ああ……本当にお風呂って気持ちいい……)


 どうやらすっかり今置かれている状況に対する不安は頭から抜け落ちているらしかった。


−−−


 ──アリスが極楽の極みに浸っていたその頃、リビングでは。


 (どうすれば夕暮は納得してくれるんだ……?)

 

 流石にこうしてアリスと妹を遭遇させてしまった以上、そのままなし崩し的にどうにかなるだろうと考えるには状況が些かデリケートな気がする。もし妹が両親にこのことを話してしまった場合、間違いなく「その子を返してきなさい」とアリスを追い出すだろう。そうなってからでは遅いのだから。

 

 「で、あの子とは本当はどういう関係なの?」


 「僕の彼女──じゃないってことくらい、夕暮にはお見通しか……実のところ僕にもよく分からないんだよ」


 まあ元よりアリスがあんな反応をしているのに彼女であると信じてもらうのは些か──どころかかなり無茶な話ではあったので、お見通しも何も自明だったのだが。


 「家に上げたのに?」


 「ま、まあそうなるな。家に帰ってくる途中で偶然出会ったってだけで、後は家出してきてるって彼女は──アリスは言ってるんだが何か事情があるのを隠しているみたいなんだよな」


 そして僕は声のトーンを少し下げて、


 「そして何より不可解なのは、僕が《時間泥棒》だって知ってたってことなんだよ」


 「《時間泥棒》を、知っている……!?」


 無表情を貫いていた夕暮もこればかりは驚かざるを得なかったのだろう、普段より少しばかり目は見開かれ、声も上擦っている。とはいえ「普段より」といっただけで些細な変化であることに変わりはないのだが。


 ともあれ、


 「そう。これってつまり──どういうことなんだろうな」


 「どういうって……」


 答えられようもないだろう。僕たちは家族以外で《時間泥棒》について知っている人間に遭遇した経験の有無以前に、一族以外にこれを知り得る者が居たこと自体初耳であるのだし。


 「でも、さ。なんか放っておけないんだよ。アリスは多分悪いやつじゃないだろうし」


 「それは分かる、けど」


 危険ではないか──夕暮の繊細に揺れる瞳が雄弁にそう語っていた。

 危険なのかもしれない──最早確信にも近いそれは幾度となく僕の頭をもたげた。

 彼女と出会ってからの数時間、何度も何度も。

 しかし、結局それでも僕はアリスを家に匿うことを決めた。

 どうして《時間泥棒》を知っているのかが気になるから、《時間泥棒》を知り得る者を目の届かないところに置くというのはかえって不安だから──確かにそれもある。

 だが、結局決め手になったのは、出会った時のなんとも言えない郷愁と感慨、そして──


 『両親は心配なんてしないわ。っていうか喧嘩して出てきちゃったんだからそんな簡単に戻れないわ』


 その時のアリスの表情が、脳裏に焼き付いて離れないのだ。さっきまで僕もアリスを家に泊められないと言っていたのに、虫のいい話なのかもしれないけれど。


 「僕はアリスを、家にいさせてあげてもいいと思ってる。だからお願いだ、父さんと母さんにこのことは黙っててくれないか」


 両手を合わせた。

 説明が足りないのは分かっている。そして足りない説明を家族の情、そして夕暮の優しさにつけ込むようにして埋めようとしているのがどれだけ卑怯なことなのかも、理解しているつもりだ。


 「でも……」


 両手を合わせての懇願に、夕暮は一瞬迷いの色を過ぎらせたが、


 「頼む」


 「分かった。私もアリスを虐めた時点で、もう友達だものね」


 僕にしか分からない微笑みを湛え、そう言ってくれたのだった。


−−−


 さて、そんな会話が交わされていたとは露知らず、それから二十分後にアリスは濡れたロングへアーをタオルで拭き取りながらリビングに戻ってきた。

 洋服は夕暮のパジャマを借りさせたのだが、少しだぼついている。主に胸元が……いや、これ以上はやめておこう。


 「お風呂ありがと……じゃないわよ! なんなのよこれ! こいつは、ジックは彼氏なんかじゃないわよ!」


 「ああ、それについては」


 ちゃんと誤解を解いておいたから、と続くはずの僕の言葉を遮ったのは妹。


 「もう既にあだ名で呼んでるってことはつまりそういうことなのね」


 「ちょっ、それは、違くてッ!」


 「大丈夫大丈夫。お兄さん、やっと彼女が出来て嬉しいみたいで、アリスさんがお風呂に入ってる間もずっと魅力を語り続けていたんだから。今夜は赤飯ね、お兄さん」


 「みっ、魅力って」


 頬をぼうんと赤くしたアリスを見て、風呂上がりなのだし、熱くなりすぎて倒れられたら敵わないと思った僕は妹の頭に軽くチョップを入れる。


 「こら、そこまでにしとけ。アリスと俺がそんなんじゃないって説明はちゃんとしたでしょうが」


 「分かってるわ、お兄さん。お兄さんが私以外に愛を向けることなんてないものね」


 「え、そういう関係だったの!?」


 「夕暮ー、一旦口にチャックな。そしてアリスも信じるな」


 「そ、そうよね、分かってたわ」


 まあ夕暮もこんな恥ずかしいことを無表情で言っているものだから、信じてしまう気持ちも分からないでもないが。


 とまあこんな調子で夕暮もアリスも特に意識することなく会話できているようで、僕としては少しばかりホッとする思いだった。


 そしてそんな安心感からか


 ──ぐぅぅ


 音の発信源はといえば、認めたくないことだが自分の腹だ。いくら男であるとはいえ、自分の腹の虫の音を聞かれるというのは案外恥ずかしいもので。


 「いやぁ……昼から何も食ってないから、さ?」


 後頭部を掻きながら二人を見ると、アリスは「えっ、このタイミングで?」とでも言わんばかりの表情で、夕暮は相も変わらずの無表情に少しばかりの呆れを浮かばせて僕を見ていた。

 そんななんとも言えない沈黙に耐えられるわけもなく、


 「す、すまん……」


 「しょうがないわね、お兄さんは。分かったわ、じゃあ夕飯を作るから待ってて」


 「あ、流石に夕飯までお世話になるのは悪いから私は外で済ませてくるわ」


 しかし、おずおずと遠慮がちなアリスの言葉は、夕暮の言葉に拒否される。


 「駄目。まだお父さんもお母さんも帰ってこないはずだし、そして何より、今日の夕飯はアリスさんの歓迎会でもあるんだから」


 「で、でも……寝泊りする場所を借りてご飯もだなんて……」


 「遠慮するなって。家に上がりこんだ時の図々しさはどこ行ったんだよ。それに、夕暮はこれでも喜んでるんだって。表には出さないだけでな」


 「お兄さん、一言余計」


 「ほいほい」


 「じゃ、じゃあお言葉に甘えよう……かな」


 そしてアリスは夕暮に向き直って、にっこりと笑ってこう言ったのだった。


 「夕暮ちゃん、でいいのかな? ありがとう。あと、私のことはさん付けしないでアリスでいいからね」


 「分かった、アリス。私は、ユウでいい」


 「それじゃあこれからよろしく、ユウ」


 「こちらこそ」


 笑顔のままのアリスとそうして握手を交わす夕暮がとても嬉しそうだったのを、俺が見逃すはずはなかった。


−−−


 「いやーまさか夕暮のやつ本当に夕飯に赤飯出してくるなんてな……」


 「私の歓迎会って言ってくれたし、多分そのお祝いってことよ! いい妹さんじゃない!」


 その割に赤飯を出してきた時やけに僕の方を見つめて、心なしかニヤニヤしていた気がするのだが……。まあそれは僕の心の中だけに留めておこう。アリスの喜び様に水を差すのも野暮というものだろうし。


 ──というように夕暮曰く「アリスの歓迎会」たる夕飯を終えてからずっとこんな調子でアリスはご機嫌だった。

  はしゃいぎ回っている、という表現が過言にならないほどの機嫌の良さは両親から隠れるべく僕の部屋に戻ってきてからも変わることなく。

 

 「まあ、そうだね。にしてもアリス、嬉しそうだな」


 「そりゃ嬉しいわよ。こんなこと、初めてだもの。生まれて、初めて……」


 そうして充足と哀切をないまぜにしたような表情で呟くアリスはなんというのか、話し掛けるのが躊躇われるほどに魅力的だった。

 だが、僕はそれを壊すべくアリスに言葉を投げ掛けなければならないのだ。


 「あの、さ」


 「分かってるわよ。どうして家出なんてしたのか──そしてなんでジックを探していたのか、でしょ?」


 アリスは魅力的な表情のまま、僕のセリフを先んじて言う。そして、悪戯がバレた子どものように破顔すると、


 「ごめんね、今はまだ言えない。あのね、私今、最高に幸せなの。一生この瞬間が続けばいいって思っちゃうくらい。だから、今は──今だけは夢を見させて」


 何を言っているのか、僕には勿論分かりようもなく。ともすればそれはとても我儘な言葉で。しかしだからこそ切実で、どうしようもなく諦念に彩らていた。

 僕はただ、その台詞が持つ不思議な重みに思い知らされたのだった。

 ──少女はどうあっても自らが抱えている『それ』を明かすことは無いのだろうと。

 ──そして、『それ』は僕なんかが想像もつかないほどのものなのだろうと。


 だから、僕は暫し瞑目して、こう答える他なかった。


 「分かった、アリスが話せるようになるまで、待つよ」


 それが僕に出来る唯一だと思ったから。最良であるのだと、信じたから。

 どうだろう、その選択が果たして正解であったのか、それとも失策であったのか。それが分かるのはもう少し後の話になる。

 

 この時はただ、それが後の話ではなく、後の祭りにならないよう願うばかりだった。



 


 

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