49 手にしたもの
人間が一人死ぬということは、つまりは一つの物語が終焉を迎えるということになる。
その人間を主役として紡がれてきた物語は、主人公の死を以ってして明確に、あるいは単純に「終わる」のだ。
だけれど、当然なことに、世界は終わらない。
世界という壮大な舞台の上で紡がれる、悲劇とも喜劇ともつかない物語は、たかだか人間一人の死如きで終わってしまったりはしないのだ。
だから、これもまた順当な流れとして、刻喰時空を主人公とした哀れな《時間泥棒》のストーリーにも続きというものが──後日談、あるいは後日譚とでも呼ぼうか(まだ後日ですらないけれど)──ある。
というわけで、ことの顛末を、順を追って。
「うううううううううううううううううううああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
物語でいうところのヒロインに当たる彼女──アリスは、泣いていた。号泣していた。
いや、それでも表現としては生易し過ぎるだろうか。最早それは泣いているというよりは叫んでいると表したほうが事実に近しいだろう。
そんなわけで、彼女は、主人公の落命に、あらん限りの悲しみを発露させていた。
確かに時空の落命のその瞬間、彼女は笑みを見せた。普段の彼女のような笑みを。彼が愛した笑みを。
しかし、それは彼女が本当に安心したからでも、ましてや彼の死を受け入れたが故のものではない。
それこそ、つまりは共感の結果だった。
時空の思考に則るならば──
彼女の呼吸は僕の呼吸。
彼女の言葉は僕の言葉。
彼女の思考は僕の思考。
彼女の思想は僕の思想。
彼女の策謀は僕の策謀。
彼女の作戦は僕の作戦。
それはまた逆も然りであった、そういうことである。
呼吸を「合わせた」のは時空であったのだけれど、しかし呼吸を共有しているという点においてはアリスも同様なのだから。
だから、そういうわけで──号泣、もとい発狂、である。
「うううううううううううううううう、ううううううううううううううううううううう」
十分後、未だ涙の止まらないアリスの元に、ある一人の人間が現れた。
夕暮。刻喰夕暮。
時空の妹、である。
「…………」
彼女は無言のままアリスに近付き、そして、ぽん、とその小さな、震えている肩に手を置く。
アリスはそれまで接近する夕暮に気付いていなかったので、ひどく驚き、一際大きく肩を跳ねさせる。
そして──涙を引っ込めた。
「ユウ……」
「うん」
「あ…………」
そのまま、言葉を失い、硬直する。
それはそうだろう。言いにくい、言いやすいとかの問題ですらない。
刻喰時空は憑詠有栖の為に死んだ──その事実をすぐに口に出せなかったアリスを責めるというのは、酷な話だろう。
「あ……ユウ……あのね……ごめ……ごめんなさい……」
その何に対するものなのかも分からないような謝罪を前にして、夕暮はゆるゆると首を振る。
兄さんはどこ? とも聞かず。何があったの? とも聞かず。
「あのね、実は兄さんからメールがあったの」
「え……」
それはアリスにとってかなり予想外な事実だった。
しかし、それでもあり得る話ではある。アリスは残り時間十五分にして奇跡的に起きたとはいえ、それ以前の四十五分間はいわば空白の時間なのだから。
いくら時空が《時間泥棒》に意識を割いていたとは言っても、それでもメールを打つことぐらい造作もないことなのだから。確かに《時間泥棒》は多大なる集中力を要する技術だ。しかしそれでも時空はそれを対象が起きている状態で、また首を絞められている状態でも完遂したのである。
いつもならいざ知らず、この最期の《時間泥棒》に限ってなら、時空はきっと何をしながらでも《時間泥棒》を成し遂げて見せただろう。それほどまでに、彼は覚醒していた。
「メールにはこう書かれていたの。『僕はどうやらここで《時間泥棒》をして死ぬらしい。それでもそれと引き換えに夕暮とアリスの自由は保障しよう。詳しいことを書いている時間はないから割愛させてもらうけれど、それでも一つ明らかにしておきたいのは、僕の決断が揺るぎなく、また後悔しないものだということ。本当に自分勝手だけれど、僕は幸せですらあるんだ。だから──」
そこで夕暮は嘆息するように一呼吸入れて、
「アリスを恨むな。自分を恨むな。恨むなら刻喰時空──僕こそを恨め』ってさ」
アリスは息を詰める。
よもやあの男は自分にだけでなく、自分を取り巻く環境にすら後の策を講じていたのか、と、そう思った。
「全く、バカな兄貴だよね。本当に……。そんなんで簡単に気持ちの整理がつくわけ、無いっていうのに。っていうか私はそもそも全部……ううん」
無表情のまま、抑揚の乏しい声で。
だけれど、だからこそ夕暮が本当に悲しんでいることを、戸惑っていることを、アリスはありありと感じていた。
「…………ユ──」
「やめて。ごめん。本当にごめん。だけれど、まだ私はアリスが許せる状態じゃない。恨まないだなんて、無理だよ」
「…………」
「ごめん。多分ね、これは醜い嫉妬なんだと思う。兄さんはきっと私のことも考えてこういう結末を選んだんだろうけれど、それでもきっとほとんどはアリスの為なんだよ。だからさ……嫉妬、しちゃったんだ。しちゃってるんだ。きっと兄さんは私のことを考えてはいても想ってはなかった、そういうことなんだよね」
「それは違う!」
「ううん。そういうことだよ。兄さんの気持ちに気付いていなかったわけでは無いでしょう?」
「…………」
「ごめん、こんなつもりじゃ、無かったのに。こんなつもりじゃ……」
「大丈夫、ユウは悪くない」
「あはは、アリスは優しいね。きっとだからアリスは兄さんに選ばれたんだね」
恋心とは違うけれど、特別視されたかった──そんな気持ちは果たして幼いと断ぜられるべきなのだろうか。
────そんな少女たちの複雑な感情のぶつけ合いの最中、二つの影が割り込む。
「くひひ! どうやら間に合ったらしいですねぇ。一人ばかり役者が足りないようですが──まぁ、そんなの些事ですか。何せ、『アリス』さえ連れ帰れればこちらとしては十全なのですから!」
「…………」
「…………」
雨野金音──骨削依存。
しかし、いかに『牧場』より数字を憑けられた彼とはいえど流石に無言の少女二人の視線に何か感じるところがあったのか、少しばかり押し黙る。
その隙間のような数秒に、アリスは言葉を挟む。
「私はもう『アリス』じゃあないわ。ただの凡百たる人間でしかない」
「はっ! 何を言い出すかと思えば、今更ですね。貴女は紛れもない特別製ですよ」
「それは例えば誰かに《時間泥棒》されても同じなのかしら? だとしたらそのあなたの深い愛に感服を示すところだけれど」
そこでようやく金音は状況を理解したのか表情をさっと引き締める。
そして、先程までの金属音のような耳に触る高音からは考えられないような低い声で、
「じゃあもしかするとあの小僧が居なくなったのもそういう訳で?」
「……そういうことになるわね」
すると、金音は傍にまるで樹木のように直立していた少女──巨人の内臓喰らい・憂憂波留の耳元で囁くように──
「『モード・マニュアル』」
その瞬間、憂波留の体はビクン、と痙攣するように大きく跳ねて、そして次の瞬間には包帯が一瞬にして解けて一糸纏わぬ肢体を晒す。まるでそれは作り物めいていて、性的興奮とは縁遠い感想を抱かせるものだった。
金音は勿論それに特別興奮することも、ましてや驚くこともなく、冷たい声で命令を下す。
「憂波留、本当に彼女が『アリス』でないのか、確認なさい」
「イエス・マスター」
瞬間、憂波留の両胸の丁度真ん中の位置が唐突に割れ、中から黄色い瞳が覗く。
やがてそれはあらんばかりに見開かれ、アリスを舐め回すように観察すると、
「彼女に『アリス』の反応はありません」
「なるほど。ご苦労。『モード・オートマティック』」
またしても憂波留の体が一跳ねし、まるで先ほどの逆再生かのごとくに包帯が巻かれてゆく。
そうしてしばらくは揺蕩うような表情を浮かべていた彼女ではあったが、数秒すると驚いたかのように目を覚ます──もっとも、先ほどの「モード・マニュアル」と何方が覚醒状態なのかは非常に判断に困るところではあるのだが。
なんにせよ、その想像の埒外のような光景にアリスと夕暮の二人は身じろぎ一つ出来ずにいた。
驚いていたのか──あるいは魅せられていたのか。
つまりそういうわけで、二人がやっとリアクションを取れたのは憂波留による「検査」が全て完了した後だった。
「で、これから私達をどうするつもりなの?」
恐れるように後ずさるアリスに対し、しかし夕暮は堂々としたものである。
もっとも、それはあの黄色い瞳の視線に晒されたか否か、という問題も少なからず影響しているのだろうけれど。
悪魔の瞳。
悪意の眼。
「どう、と言われましてもねぇ……どうします、憂波留?」
どうやら金音はまた道化を再開したらしい。軽薄な調子で、微笑みすら浮かべながら傍の少女に話を振る──先ほどまで道具のような使い方をしていた相手に気軽に話を振る気持ちは、およそ理解の範疇を超えている。
幾らあの時の彼女に記憶と意識が無かったとはいえ。
「私に聞くな」
「あらあら、これはまた冷たい。そうですね……もう、いいですか」
その投げやりとも取れる発言に、アリスは眉を顰める。
「もう、いい、って?」
「そのままですよ。貴女が『アリス』でないというのならば我々に貴女を追う意味はないということです。それにあの……格闘女の娘さん? ですよね? ──についても、『アリス』の喪失で『牧場』はてんてこ舞いでしょうから、逃してしまっても大丈夫でしょう」
「そんな都合のいい話が、あるっていうの? 信じろって言うの?」
あまりの都合のいい展開に、何か裏があるのではないかと勘繰ってしまうのはこの場合仕方がない。というか、敵を前にしての態度としては当然である。
当然であり、正しい。
「まぁそうですね……結局、私の匙加減一つなんですよ。生かすも殺すも自由。正しく貴女方の生殺与奪の権を握っている。だから──」
「────っ!?」
瞬間、金音は──『牧場』の数字憑きが一人、『骨削依存』はアリスの後ろに回りこんで、同じ銘を持つ長柄の鑢をその細い首に押し当てる。
削るように切れる鑢──削り切れる鑢。
切れすぎる鑢。
しかしアリスの首からは一切の出血は見られない。
夕暮は今更息を詰めるが、出来ることは限られている──どころか無いに等しい。
如何に《時間泥棒》として身体を鍛えているとはいえど、あくまで普通の範疇。アスリートと同等程度なのだから。
その程度では隣でアリスを拘束する異端を排することなど出来ようもない。
──けれど。
金音はふ、と息を吐きアリスの拘束を解く。
「ま、いいでしょう。今回は見逃して差し上げましょう。あの格闘家の真っ直ぐな拳、否、脚に免じて。それに、男が命を投げ出してまで一人の少女を助けたという事実、それは尊重してあげても構わないような気がしないでもないですから」
「ですから」痩せぎすの犯罪者のような紳士は邪悪に微笑んで、
「私が貴女方を殺してしまわぬうちに、お逃げなさい」
まるで「もりのくまさん」だ、そんな風に二人は思った──かもしれない。
−−−
想定外──というか物語の筋を考えれば道理なのだけれど、二人にとっては予想外の闖入者から逃げるようにして、アリスと夕暮はホテルに戻ってきた。
「…………」
「…………」
数字憑きの二人の乱入により中断される前、二人は割合気まずい雰囲気で話をしていたわけで、一波乱のおかげでそれが戻るということもなく、むしろ勢いを削がれた分より気まずさが強調されるような形になる。
「…………」
「…………」
沈黙。
余りにも気まずい、沈黙。
…………先に折れたのは、夕暮だった──と、いうか元よりこの話を始めたのは夕暮なのだから話を戻すのは彼女の役目である。
「あの時ごめん、って謝ったでしょ? でも……そのさ、全部、偽らざる本音だから」
「うん、分かってる」
「私はアリスに嫉妬している──それは確かに恥ずべき行いで、凄く醜い感情なんだと思う。だけど、だけどね。それでもアリスには知っていて欲しかった。聞いて欲しかった。隠しちゃ、駄目だと思った」
「…………」
「これだけ散々恨み言を吐いておいて身勝手極まりないのは分かってるんだけどね、それでも、それが友達に対する──ううん、家族に対する誠実なのかな、って思ったから」
「…………なるほど、うん、そっか。ちょっと怖かったけれど、もう私には味方なんかいないのかなって凄く不安になったけれど、でも、夕暮は、夕暮だった。それが分かって、良かった」
夕暮は息を詰める。そして実感する。
(ああ、あるほど、だからか。だから叶わないんだ)
勿論表情には出さないけれど──出せないけれど。
そして言葉にもしない。
それは心の中で兄の彼女に敗北宣言をした妹の、ささやかなる矜持なのだから。
だから。
その代わりに、最後くらいはいい言葉を言いたいな、そう思う。
「今はアリスを許せない、それは『かも』とか『だろう』とかじゃなくて、確信として。でも、それでも少しして、許せるようになったら──」
アリスを、許せるようになったら。自分を、許せるようになったら。
「また、家族として一緒に暮らさない?」
アリスは驚いたように目を瞠り、花のように綻んだ笑みを浮かべる。
「うん!」
それは時空が守りたかった笑顔だった。
かくして、この一連の騒動は本当の意味で終わったのだった。
一人の少年の命と引き換えに、一人の少女の笑顔を生んで。
まるでありふれた英雄譚のようなそれは、決して広く喧伝されることはなく、ただのホテルの一室で閉じられた。