48 おしまいおやすみさようなら
アリス──最愛の人。
彼女はしかし、今僕の最後の敵──否、最期の敵として立ちはだかる。
全てが不測の事態だった。遍く不慮の事故だった。十把一絡げに規格外だった。
この現状は、アリスが目を覚まして、泣いているというこの現状は完全に想定していなかった事態で、だからこそ無意識の内に最も避けたいと思っていた事態だった。
起きている対象を相手とする《時間泥棒》は、睡眠状態にある相手に対する《時間泥棒》より格段に難易度は上がる──けれど、それすらも些末な問題であるように思える。
技術ではなく感情。アリスの剥き出しでぶつけられる感情の砲弾こそが、最たる問題なのだ。
「「うぅ……うぅ……」」
痛い。痛い。痛いよう。
彼女が痛いならば僕だって痛い。
それはまるで共感のようで、勝手な請負のような感情だった。
残り時間は早五分。
短い──数字にしてしまえばほんのそれだけのものだというのに、僕にとってまるでそれは永遠のように長い、絶望的な時間だ。
ここまで──アリスが起きてから今まで味わった苦痛をまだ五分も味わうことになるのかと想像すれば、それだけで死にたくなる。比喩を抜きにして、掛け値なく、死にたくなる。
だけれど、どうせ命を落とすのならば彼女のために、愛する彼女のために死にたい、ただそれだけだ。
そう、僕は死を覚悟している。
これ以上ないほどに死を受け入れている。死という名の幸福を抱き留めている。
それでも痛いものは痛い──それだけのこと。それを我慢すればいいだけのこと。
「「あぁ……うぁ……」」
アリスは顔中をぐちゃぐちゃにして泣き続けている。
そしてきっと僕も似たような表情をしていることだろう。
彼女と呼吸を合わせているのだから。彼女と呼吸を──気持ちを共有しているのだから。
アリスは泣き声ですら鈴の鳴るようなそれで美しいけれど、僕のは醜悪で、鬱陶しい。自分の泣き声なんて、気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。吐きそうだ。死にそうだ。やめてしまいたくなる。死にそうで。死にたくなくなる。
けれど。
僕はやめない。僕は泣き止まない。
それも、その気持ち悪さも──受け入れているはずなのに溢れ出る未練も、僕のもの。僕の責任だから。だから。責任は、取らなくちゃ。最後くらいは。最期くらいは。
「「…………」」
残り三分。
残り少ない永遠を前に、アリスはぴたりと目尻から涙を零すことをやめ、当然ながらそれに釣られて──文字通り引っ張られて僕も泣くのをやめる。
果たして彼女はこの現状を受け入れて、抵抗をやめたのであろうか。泣き落としという最終手段(彼女がそこまで考えて行った行動ではないだろうけれど)をやめて、僕が死ぬことを受け入れたのだろうか。
否。
違う。
断じて否だ。
彼女はそんなに諦めのいい女じゃあない。その程度の善良ではない。
そう、彼女は半端ではないのだ。
ならば次に彼女は何をしようとするだろう。
僕はそれを既に知っている。
彼女の呼吸は僕の呼吸。
彼女の言葉は僕の言葉。
彼女の思考は僕の思考。
彼女の思想は僕の思想。
彼女の策謀は僕の策謀。
彼女の作戦は僕の作戦。
まさしく正しく、鏡合わせのような一致。一音すら外さない合致。
だから予め断っておきたいのは、僕は次に起こる事態を未然に防ぐことが出来たということである。
これは負け惜しみではなく、純然たる事実としてだ。それでも僕は受け入れた。甘受して、享受した。
それはおよそ僕にとって不利なアクションであったことは言うまでもないだろう。故に、第三者から見た時、それはとりわけ奇異に、突出した無理解として写ることだろう。だけれど、ここで重要なのは、不合理であろうと、不条理であろうと僕が何の迷いもなくそれを受け入れたという事実。大事なのは道理にもとることではない。条理に準ずることではない。
「「ごめんね、ジック。もう、これしかないんだ……」」
絞り出すような一言。呟きのようなそれが空気に霧散する前に、アリスは行動に出た。
アリスは僕に飛び掛る。まるで恋人同士が抱き合うかのような大胆さで。しかし、恐るべきスピードで。勿論僕は為されるまま、無抵抗に地面に組み敷かれる形になる。
アリスは僕の腰に乗り──いわゆるマウントポジションというやつが成立する。
このような体制になった際の目的は大まかに分けて二つだろう。
一つは性交渉の際の体位。
注釈する必要すらないほどに現在はそんな甘い雰囲気でないことは自明だろうから、まずその可能性は排していい。
ならば、そうでないとするならば──
「「……ふぅぅ……うぅ……」」
暴力的な意味合い。
アリスは、その小さな腕のどこにそれだけの力があったのだろうというほどの力で僕の首を絞める。目一杯締め上げる。まるで万力のようだ。きっと抵抗したところで容易に解けるような拘束ではない──もっとも、抵抗するのならばその前段階で抵抗しているわけで、だから未だ僕はこの状態に至っても為されるがままなのだが。
為されるがまま、されるがまま──だけれど、呼吸を合わせ続ける。
気管を致命的に塞がれているこの状態においてでも僕は呼吸を合わせる。
喉を塞がれているこの状況において、未だに《時間泥棒》が継続されているというのは看過しがたい不可思議のようだけれど、しかしこの場合、そのタネは《時間泥棒》の能力での「呼吸」の定義の問題だ。
《時間泥棒》での呼吸を合わせるということはつまり、肺から生み出される空気の圧と量を同量に調整するということである。だから、究極的には声として、あるいは呼気として外界に発さなくても成立するということ──肺から気管の間の呼吸が、対象と同一であれば構わないということ、なのだ。
言ってしまえば反則のように聞こえるかもしれないけれど、だけれど、これは言うほど簡単なことでも、ましてや楽なことでもない。
息が出来ない窒息状態でその行為に及ぶというのは、ただ呼吸を封じられることよりもよっぽど苦しく、そして集中力を要するのだ。
だから決してこれは取りたい手段ではない。最後の手段にすらしたくない奥の手。
僕にとっては禁忌であり、禁断なのだ。
それでも、僕はそれすらも甘んじて受ける。
それがアリスのとる行動ならば、僕は全てを受け入れる──その覚悟はとうに固めている。
「ふううう! うううう!」
絞り出すような声はアリスのものだけ。
だけれど僕も体の中で同じ声を上げる。
苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。
アリスの指が僕の首に強く食い込んでいる。それはきっと痛いはずなのに、それすらも麻痺するほどに苦しい。頭の中も霞がかっている。意識が……飛んでしまいそうだ。
だが、アリスの顔を見れば、その苦しみすら我慢しようと思える。
アリスは顔を真っ赤にしながら、堪えるように、だけど堪えきれずに泣いていた。
(ごめんね、アリス。そんなこと、したくないんだよな。それなのに、ごめん)
もうその言葉が僕の心の中に収まっているのか、それとも外に言葉として飛び出しているのかすら分からない。夢と現実が、外と中が、曖昧だ。
でも、この血液に段々となにかが込み上げてくる感覚──《時間泥棒》の終焉の接近を知らせるその感覚だけは確かだ。まだ続いている。まだ続けられている。
どくどくと、ばくばくと、みゃくみゃくと。
彼女の何かが雪崩れ込んでくる感覚。そして、今までの人生のあらゆるシーンが頭を駆け巡る──ああ、これが走馬灯ってやつか。
流れ──雪崩れ──収束。
全ての記憶が流れきり、アリスの笑顔を頭に描いた瞬間、まるで泡沫のように映像は弾ける。
そして僕は理解する。
あぁ、やりきったんだ、僕は。
未だしがみ付いているアリスの指を自分の首から一本ずつ剥がす。
アリスはもう抵抗しなかった。きっと理解したのだろう。全てが終わったことを。終わってしまったのだろうと。
アリスが体の中に満ちる──たった一週間の寿命を盗み取っただけで、この感覚か。
僕は場違いにも幸せを感じていた。
満ち足りたような感覚。満たされたような感慨──しかしながら、それを味わい尽くす時間も、もう無いと見える。
不思議な、本当に不思議なことが起こった。
アリスの時間が僕の時間として完全に定着したその瞬間、僕の肉体は急激に時間を進められたのだ。
身長が伸び、髪も伸び──あらゆる部位が成長を見せる。
確かに僕は成長期真っ盛りではあるものの、そんな言葉で説明がつかないほどの理不尽かつ暴力的な成長。
しかし。
それも大体二分ほどの出来事でしかない。
成長の果て。
その後に待つのは、ただただ残酷な老化のみ。
伸びた背丈は、やがて背骨がそれを支えられなくなることで前屈みになるとともに縮んで。伸び放題になった髪の毛やら髭だとかは総じて白く染まる。それは鮮やかな白ではない。決してそんな美しいものでなく、燻んだようなそれだ。
「うぅ……おぉ……」
あまりの急転直下に漏れ出る声も若々しさなど、瑞々しさなど皆無。
嗄れたような、乾いたような、そんな声──もっとも、それはアリスに首を絞められた弊害なのかもしれないけれど。
やがて、自力で直立することすら不可能になり、僕は地に伏す。
その際の効果音ですら「どさっ」というような重量を感じるものではなく、「ぽすっ」っというような軽い、呆気ないものなのだから味気ないというか、情けないというか。
ともあれ、どうやら僕はこんなにも醜い姿で──老ぼれとして死に行くことになるらしい。
それはある意味では天寿を全うしたと言って言えなくもないので、幸せなのかもしれないが、しかし、年齢に質量が伴っていないのだから、なんだかちぐはぐだ、というような感想しか抱きようがない。
それでも一つこの現象にこじつけめいた理屈を付けるならば、「《時間泥棒》は時間に逆らったが故に時間に殺された。因果応報地獄に堕ちろ」ってところか?
随分とまぁ、皮肉が効いている。
──やがて、乾いた目にアリスが映る。
どうだろう、ここまで変わり果てた僕の姿に、彼女はどう反応するだろうか──いや、そんなの口に出さずとも考えるだけですら愚かしい話か。
「ジック!」
彼女は驚きのあまり硬直していたけれど、それでも一通りの老化を終えたのを見て取るや否や、普段僕に対して見せる雰囲気のまま、先ほどまでと同じ辛さを堪えるような表情で僕を抱きとめる。
分かってはいたものの、こうして老いても愛してもらえているのだという事実は、この救われない一連の事件に添える花としては悪くない──だなんて気取った表現をしてみたりして。
「ごめんね……ごめんね……私のせいで……私のせいで……!」
未だ老化は止まらず、どんどん体は重くなり、痛くなる。けれど、それでも彼女が悲しんで僕を送り出すのだけは避けねばなるまい。彼女が笑って暮らせる未来──いつになるかは分からないけれど、それでも僕はそのために戦ったのだから。だから、禍根を残してはなるまい。僕の死を、楔にしてはなるまい。
「そんなことは……ないよ」
声が掠れる。上手く声帯が震えない。
それなのに、関係無い手は夥しいくらいに震えている。
「僕は……幸せだった。君が……幸せにしてくれた。だから──」
「ジック! 無理しないで! もう大丈夫だから! 死んじゃうって。死んじゃうから!」
何もしなくても死んでしまうのに──なんて内心で穏やかにくすりと笑ってしまえるのはきっと、もう既に死を悟り、受け入れているからなんだろう。
けれど、目の前の少女はそうでない。ならば、伝えなくては。僕がどれだけ幸せだったのか。アリスという存在が、どれだけの救いであり、生きている価値のある人間なのかを。
「アリス、君は、僕にたくさんの物をくれた。たくさんの、思いをくれた。それは掛け替えのない──僕なんかとは違って代替の利かないものばかりだった」
「やめてよ! ジックだって代わりはいないよ!」
僕はゆるゆると首を横に振る。
「僕は……僕じゃなくても出来たことをしていたに過ぎないんだよ。これ以上ないほどにありふれた存在さ」
「そんなこと! そんなこと!」
僕は微笑む。自然と、顔が綻ぶ。
体の中が死でいっぱいなのに。痛みで溢れているのに。
「──けれど、それでも僕が特別だったのだとするのなら、きっとそれはアリスが特別にしてくれたんだよ。特別なアリスが僕を魅せてくれた。特別なアリスが僕を魅てくれた──きっと、それが故だったんだよ」
「やめて! やめてよ! 特別扱いは──嫌なのに! 普通で居たかった──普通に痛かった、それだけなのに!」
「それでもアリスは特別さ。それは理論の問題でも希望の問題でもないんだ──っと、もうそろそろお別れの時間だね。僕はもうどうやら死ぬらしい。これでも大分粘った方だけれど、それでもこの辺で限界だよ」
「待って! 待ってよう!」
アリスはまるで少女のように──普遍的な少女のように泣き喚く。
それでも、その姿はどうしようもなく、特別だった。
だから僕はそんな特別な少女に、何かを残してやらねばならない。遺してやりたいと、そう思った。
もうここまできて渡せるものなど限られているけれど。
既に命も捧げ、心も捧げているのだから。
だから、最後に捧げるべきは、最期に捧げるべきは──それこそ、祈り、くらいだろうか。
「アリス、ごめんな。僕の身勝手な献身は、いくらでも恨んでいい。だけれど、どうか自分を恨まないでくれ。これからは自分を愛していいんだ。なぁに、簡単なことだ。こんなロクでもない僕ですらアリスを愛せたんだ。それほどまでに君は魅力的だ。そして──」
僕は言う。
「これからの君の旅路に、最大限の、幸福を」
アリスは泣くのだろう──泣き続けるのだろう、そう思った。
結局僕の言葉ではどこまでいっても足りない、そう実感していた。
しかし、予想に反して。
アリスは笑ったのだった。
僕の大好きな笑顔。僕の大好きなアリス。
あぁ──やっぱりアリスはこうでなくっちゃ。
──ありがとう、アリス。愛してる。
頭の中で何度目とも知れない感謝と愛を囁いて。
僕の意識は完全に闇に溶けた。