45 夢想
朝八時。
空は雲ひとつなく、澄み渡り、晴れ渡る快晴で、蒼穹がどこまでも、果たして世界中を覆っているのではなかろうかとまで錯覚できてしまいそうなほどに天気がいい。
皮肉なことだ、と僕は思う。
そして僕らは現在、またしても京都駅に戻ってきていた。
結局一日しかあのアパートは使わなかったわけで、だから申し訳なさというか勿体無さを感ないわけもなく、後ろ髪引かれる思いなのだけれど、それでも遠くない過去にああして襲われている以上、同じ場所に留まっているのは危険だろうという判断だ。
流石の親父でもこの事態は予想外だったのか、あるいはこれから先はその場での交渉でどうにかしようと思っていたのかはわからないが、どうやら住処の用意は二つで打ち止めらしく、もう物件の紙はあれ以外には入っていなかった。
ならばどうするのか、というところだが、それでも親父から渡された現金と通帳にある額は残り二泊ほどのホテル宿泊費を補って余りあるほどなので、そこらへんの心配は全く持って皆無である。
そんな潤沢な資金の中からチケットを購入し、僕ら三人は電車に乗り込む。千葉県を出発して愛知県へ。そして現在地は京都府。ならば今日は中国地方のあたりだろうか。どんどんと南へ南へと進む逃避行。けれど、それはあと二泊すらも待たずして、終わることになる。
いや、終わらせるのだ。僕がこの手で、終わらせる。
「どうしたの、ジック?」
そんなことを考えていると、アリスが心配そうに覗き込んでくる。どうやら内心の諸々が表情に出てしまっていたらしい。
心配されるのは純粋に嬉しいが、しかしここでまさか本当のことを言うわけにもいくまい。
僕は首を軽く横に振る。
「ううん、大丈夫だよ。少し疲れているだけだから」
「そう? ごめんね。私のせいで気苦労掛けちゃって」
「いいや、そんなことないって。っていうかもう僕ら自身も親父たちのせいで追われる立場になっちゃったから、一蓮托生で一心同体だよ」
「そうよ、アリス。一緒に最後まで逃げ切りましょう」
「そうだね、うん」
僕とアリスは無理矢理に笑って、夕暮はいつものように笑わなかった──笑えなかった。
そして暫くは会話もなしに、車窓から外を眺める。折角ここまで遠出して、観光もできていないのだから、せめて景色だけでも味わねばっていうものだろう。たとえそれが現実逃避のようなものでも、その場しのぎにしかならなくても。
古式ゆかしい京都仏閣──現状を忘れて少し感動すら覚えてしまいそうだ。
今度またこんな事態でないときにしっかり見に行きたいな、そう思って、だけれどそれは絶対に叶わない願いなのだと思い出す。
あぁ──結局現実逃避なんて出来るわけもないんだよな。
僕は深く溜息を吐いて頬杖をつく。
なんだか段々と視界がぼやけて、意識が遠のいて、ゆ……く…………。
−−−
「僕は、アリスのことが好きなんだ。何をしていても君のことを考えてしまうほどに。狂おしいほどに、いっそ君のために死ねるくらいに、好きなんだ。だから──僕の一生をアリスのために使わせてくれないか?」
アリスは一瞬驚くように目を見開いて、それでも次の瞬間には綻ぶように笑う。僕の大好きな、笑顔だ。
「あぁ──ああ。こういうのって、本当にあるんだね。本当に。これって、告白、なんだよね?」
「うん。それ以外の何物でもない。僕はアリスが大好きだ。愛している。これで足りないのならこれから毎日君の隣で愛を囁こう。周囲の視線なんて鑑みずに叫ぼう。君がそれを望んでいるのなら」
「あはは……そんなこと、しなくていいよ。でも、それでもたまには好きって言って欲しいかも。ほら、私って心配性だから」
「ってことは、それは肯定ってことでいいのかい、アリス?」
「あ! うっかりしてたね。こういうのはしっかりと声にして言わなくちゃだものね。私も、私の命と、運命と──その全てを余すところなく遍く刻喰時空に捧げることをここに誓います」
そういって彼女は、僕の唇に優しいキスをする。刹那の接触でしかなかっただろうに、僕にはそれが久遠にも渡る永遠に思えた。時間が、そこだけ止まっているようだった。
「────ぷは」
唇を離すと、目を見合わせて、もう一度キスをする。今度は強く。貪るようなキスを。
唇が熱い。体が、熱い。
そして彼女の唇もまた燃え盛るように熱い。
冗談も誇張もなければ掛け値なしにこのまま二人は一つになるのだと、そう思った。
「あぁ……っぐ……うっ……」
なのに。なのに、なのに。なんで僕は涙を流しているのだろう。
なんで僕は、泣いている?
それも、嬉し涙じゃない。純度百パーセントの悲しみで、その涙は出来ていた。
幸せなのに、幸せなはずなのに──そうでなければ、いけないのに。
「どうしたの? ジック?」
「いや、なんでもない。なんでもないんだよ」
アリスは僕にしなだれかかるように体を預け、そして笑む。
それは僕の好きなあの笑顔ではなく。させたくなかった、どこか痛みを堪えるような────。
アリスは、ふんわりと、それでいて困ったように、言う。
「ごめんね、私のせいで」
−−−
「ジック! ジック!」
「兄さん、乗り換えだよ」
どうやらいつの間にやら僕は寝入っていたらしい。
頭はガンガンと重いし、どうやら寝違えまでしているようだ。最悪の目覚めである。
何やら夢を見ていたことは覚えているのだが。うーん、どうにも曖昧模糊として判然としない。
「あぁ……降りなぎゃ……な」
答えて、気付く。
僕は、泣いていた。どころか鼻水まで。
「大丈夫? どうしたの?」
心配そうに、アリスが見上げてくる。
なんだか、デジャブだった。いや、いつの出来事だったか思い出せないから、ジャメヴの方が正確なのか。至極どうでもいいけれど。
「いや、なんでもない。なんでもないんだよ」
説得力に欠ける台詞だな、と我ながら思うが、そう言ってアリスから視線を外して隠れるようにしてティッシュで鼻水をどうにかしようと反対を向く。
しかし、そこには夕暮の顔が。
本当に嫌がらせとからかいをさせたら右に出る者はいないな、と最早感心にも似た気持ちになってしまう。
が、どうやら今回はそういうことではないらしい。
「お兄さん、本当に大丈夫なの? 今日は朝からなんか変だし。もし何か心配事があるなら言って。私達、家族なんだし……その、『牧場』の時に兄さん励ましてくれたし……」
前言撤回。
本当にいい妹を持ったものだ。ああ、畜生! これじゃあまた泣いちゃうじゃねぇかよ。
ただ、それでも、こればっかりは──『心配事』の中身は言うわけにはいかないんだ。
「大丈夫、本当に大丈夫なんだ。もし何かあったら絶対二人には言うから」
嘘を吐く。
そして鋭い、我が自慢の賢妹ならばそれが嘘だと見抜いているだろう。
なのに、「分かった。信じてるね」そう言ってくれる。
胸が痛む。心臓が張り裂けそうだ。
その痛みを誤魔化すように、
「あ、そうそう乗り換え乗り換え────」
言ったところで丁度列車の扉が閉まる。
その瞬間、僕は場違いにもホッとしてしまったんだ。
まだ、まだこの時間を味わっていたい──それがただの引き伸ばしに過ぎないのだと知っていても、そう思わずにはいられなかった。
−−−
姫路で乗り換えて、スーパーはくと三号に揺られること更に二時間弱。
ようやく鳥取県に到着する。
勿論鳥取県に訪れるのは初めての経験で、正直に言って、僕は鳥取県という土地は一面砂漠の砂丘地帯であるのだろうと信じて疑っていなかった。だが、どうやらそうではないらしい。いっそ清々しいほどに目の前に広がる光景は僕の想像とかすってすらいなかった。
鳥取駅を出てみたところ、東京ほどではないにせよビルや店が立ち並んでいて、大都市と言われている名古屋ともそう大して変わらないように思える。
全く、僕の想像力の底の浅さを実感するばかりだ。
なんにせよ、それならば是非もない──といったところで、丁度時間も時間だったので駅の近くのショッピングモールのフードコートで昼食を済ませる。
僕はお好み焼き、夕暮はパスタ、アリスはハンバーガーだった。
味は、うん、普通に美味しかった。鳥取県に関係のないものを食べているのだから、当然「いつもの味」でしかなかったけれど。
と、いうかそもそも鳥取県特有のグルメってなんなのだろう。そんなの鳥取全土が鳥取砂丘だと信じて疑わなかった僕には知る由もないことだったが。
そして、昼食を終えると、僕たちは三十分ほど駅の周りを散策してみることにした。
丁度バスが出てしまったばかりでいい感じに時間が浮いてしまったのだ。よくよく考えれば、この逃避行の中で初の観光になるのだろう。
「へー、こんなところに定食屋さん! あ、本屋さんもあるよ!」
「ほー。駅出た瞬間は日本は端までこうして栄えていたのか……もう都会じゃないところってあるのかな? とまで思っていたけれど、こうして少し歩くと案外ローカルな感じなんだね」
「うん」
キョロキョロと視線を四方に散らすアリスと、窺うように周囲を見渡す夕暮。
そしてその間に挟まれている僕は、はたから見たら両手に花状態なのだろう。さっきからちょくちょく視線を感じる。まぁ──悪い気はしないけれど。
そんな感じで内心浮かれていると、左隣りの夕暮れが呟く。
「それにしても……遠くまで来ちゃったね」
「ああ、全くだ。まさか一週間前にはこんなところまで来るなんて夢にも思っていなかっただろうし、それに、こんなことになるだなんて……」
と、そこまで言ってしまってから僕は首を振る。
そして努めて明るく言う。
「いや、やめよう。折角の楽しい時間なんだから。今は、今だけでも楽しもうぜ」
「ははっ、それもそうね! ジックの言う通り。さ、行きましょ行きましょ! そんなに時間があるわけでもないんだし!」
アリスも明るく同調してくれた──が、どうしても僕は考えてしまうのだ。
アリスにとって死ぬのは怖くないのだろうか、と。
彼女はこれから数日の内に死のうと覚悟を決めているのだ。それなのにこうやって明るく振る舞えていること、それは一体全体どういう心持ちなのだろうか。
「ま、それこそ考えても栓無きことだし、それに何よりそうならないために僕が動くんだもんな」
その呟きに耳聡くアリスは振り向く。
「ん? ジックどうしたの?」
けれど、僕は偽りの笑みを浮かべる。
「いや、何でもない。それよりほら、あの梨ソフトっての食べてみない?」
「ん、兄さんにしてはいい提案」
「兄さんにしては、ってなんだよ! いつも僕は最良の選択をしているっていうのに!」
「…………」
「そこで無言になってんじゃねぇ!」
「ふふっ、面白い」
「そうだアリス、お兄さんをおもちゃにして遊ばない?」
「そのさも当然のような提案はなんなんだよ、妹よ……」
そんなこんなで、僕らは三人で並んでソフトクリームを食べた。
梨ソフト──控えめな甘さと、そして下に触れる果肉がしっかりと主張をしてきて、一言で言うならば美味。
これならば相応しいと思うような味だった。
何に相応しいのか──それは僕をしても分からないけれど。
とにかく、そうしてこうして、僕たちはきっちり観光して、バスに乗り込んだのだった。