43 爆心地に降り立つ透明/罪悪に濡れる腕
「うわぁ!」
「アリス、大丈夫か?」
「うん、大丈夫……ちょっと擦りむいちゃったけど」
逃走の途中。
どうやら僕は、あまりの恐怖から相当な速度で走っていたらしく、とうとうそのスピードに着いてこられなくなったアリスが転倒してしまった。結構な量の血が滲んでいる。風呂に入るとかなり沁みるタイプの擦り傷だ。
焦っていると周りが見えなくなるのは僕の悪癖だ。急ぎ過ぎるあまり二人のスピードを考えていなかった。
アリスはそこそこ派手にすっ転んでいて、運の悪いことに鞄の中身も転んだ衝撃でほとんど飛び出して、アスファルトに散乱してしまっている。
本来ならば、アリスの治療をいの一番にしなければいけないのだろうけれど、そうしている間に自転車でも通りかかって荷物が踏まれてしまってもいけないだろうということで、僕と夕暮はひとまず手早く散らばった荷物を掻き集める。
「ごめんね……急がなくちゃいけないっていうのに」
「大丈夫。それにこの程度のロスで追いつかれるようじゃどの道逃げ切れなかったってことだからね」
「そうよ、アリス」
それは一部本気だけれど、ほとんどは慰めのための口上でしかない。
実際時間は差し迫っていて、惜しいのだ。だけれど、それをそのまま言うわけにもいくまい。きっとアリスは現状を理解しているだろうけれど、それでも、事実を全て口に出せばいいっていうわけでもないのだから。
そんなことを益体もなく考えながら、僕は開いた状態で落ちているアリスの、可愛らしいキャラクター物の手帳を拾おうと手を伸ばす────
「あ、それは大丈夫!」
だが、それはアリスによって遮られる。
言ってからものの二秒。物凄い速度で、膝の擦り傷をも忘れたような素早さでアリスは手帳を回収して、
「あ、いや、別に見られたらいけないってことでもないのよ? でもほら、こ、個人情報だから!」
取り繕った感バリバリの言い訳と共に、手帳を鞄に仕舞い直す。
その表情は、様子は、それこそ鬼気迫るといった感じで、なんていうのか、反応に困る。
《時間泥棒》という単語がチラリと見えたから、もしかするとその手帳に調べた情報を纏めているのかもしれない。だとしても、隠すことないと思うんだけど……。
まぁ、自分の文字を見られるのが恥ずかしい人間もいる以上、これ以上の詮索はよろしくないだろう。
それに、そんなことより今は傷の手当が先決だ。
──と、思ったらもう既に夕暮が治療を始めるどころか終えていた。
なんと出来た妹だろうか。
「……よし。アリス、足、動く? もしダメだったら兄さんに背負わせるけど」
「ううん。大丈夫」
「肩貸そうか?」ではなく、「兄さんに背負わせる」と言うところがなんとも夕暮らしい。
出来た妹だけれど、夕暮は一体全体兄貴をなんだと思っているのだろうか……。
それを言葉にして尋ねたところで、「え? タクシーでしょ?」と無表情で返されるのが関の山なので黙っておこう。
ともあれ、そんなにのんびりとしていられる状態でもないだろう。
アリスが強がりでも歩けるというのならば、もう再出発しなければ。どれだけの猶予があるのかも、わからないのだし。
「よし、それじゃ、行くか」
今度はゆっくりと、アリスのペースに合わせて加速する。
それにしても──
(親父と母さん、どうなっただろう)
さっきからずっとそればかりが気になってしまってならない。
それはまるで予感のような。
「いいや、今は逃げることに集中だよな」
呟いて、僕は意識を現実に引き戻す。
今はとりあえず、電車に乗るべく名古屋駅まで行かなければならないのだ。
しかしそれでも、忘れてはいけないものを忘れたままにしてきてしまったような気持ちの悪さは、無くなるどころか、薄まるどころか────。
−−−
一方、戦場。
否、それは最早戦場ですらない。
「戦場だった場所」でしかなく、既にそこはこれ以上ないほどに終わった場所だった。
破壊。
粉砕。
暴虐。
蹂躙。
虐殺。
とにかく、余すところなく、壊れていて。壊されていた。
アスファルトは捲れるどころか遍く剥がされ。その下の土は掘り起こされ。木々は薙ぎ倒され。随所に血液が飛び散り。脳漿が飛び散り。腕だとか足だとか、内臓だとか、そういった「元は人間だったモノ」が凄絶に散っていた。
濃密な血の匂い──絶望的なまでの死の匂い。
赤口の戦闘技法──「死の範囲」。そのおどろおどろしい二つ名すらこの情景の前では形無しだった。
もう既にその名を冠する赤口は喪われているのだけれど。
その爆心地で、一人の男がむくりと起き上がる。
「あぁ、どうやら助かったのですかね。くひっ! 痛い! ……笑えない、物理的に笑えない状況ですね、これは。あの女、無遠慮に、無制御に蹴ってきましたからそれでもやむかた無し、といったところでしょう。まぁ、生きているだけでも儲け物ってところでしょうか」
ひとしきり呟いて、そして、一拍置いたのちにやや声のボリュームを上げて、
「ともあれ、ありがとうございます、憂波留」
すると、男の側でただぼうっと立っていた包帯少女、もとい憂波留が答える。掠れた声で。
「いや、助けていない。私は、助けていない。気が付いたら、こうなっていた」
淡々としたような口調ではあれど、しかしその声には戸惑いのようなものが多分に含まれていた。
「あぁ、そうでしたね。そうでした。そういう風になっていて、そういう風に作られているんでしたね。私としたことが失念していました」
「…………」
なんとも言えない沈黙が、約一分。
金音は、得物たる長柄の鑢──『骨削依存』を杖にして立ち上がる。
「……それにしても、今回は一本取られたと言うしかなさそうですね。ほうら、私はこの通り自力での歩行もままならないほどの重態で、憂波留は──まぁ大丈夫だとしても。にしたって、もうかなりの時間が経ってしまいましたからね」
「……そうね」
「大したものですよ、あの二人は。子供達の為に命を張って、それで実際に逃がすことが出来た──これは、賞賛に値しますよ。私には到底真似できない」
「全く、バカらしくて真似する気すら起こりませんけれど」と笑い、金音は元々二人だったモノを眺める。蔑むように、あるいはさもどうでもよさそうに。
脳漿を。臓物を。肉体を。
そして、それらを『骨削依存』で拭き取る──舐め取る。
死んだ人間を食餌としてしか捉えていない金音は、どうしようもなく異常で、異端で、欠落していた。
それを何の感慨もなく見つめている憂波留も、また。
「とりあえずは、戻りますか。二人の愚かしい人間に免じて。敬意を──蔑意を払って。それでなくともこの体じゃそう無理はできませんしね。まぁ、戻ってから考えましょう。なぁに、まだリミットまで三日あります」
「…………」
「よいしょ」と呟いて、金音は立ち上がろうとするも、相当に損傷して磨耗しているのだろう。よろけて、転んでしまう。
それを見た憂波留は肩を貸すことなく、スタスタと歩いていく。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ! 仲間でしょう!?」
「私に仲間など、いない」
そう言いつつも、赤口が乗っていた車椅子(勿論血塗れである)を持ってきて、それに金音を座らせて、車輪が回らないので担いで『農場』まで運んで帰ったあたり、憂波留は案外感情表現が苦手なだけで優しい人格の持ち主なのかもしれない。
ただ。
それでも。
だからと言って。
彼女が人を二人も殺したという事実は変わらない。
彼女が二つの命を屠ったという罪悪は覆らない。
それにもっともらしい説明を、こじつけめいた形で施すのだとしたら、優しい人間が殺人行為を犯さない訳ではない、といったところだろうか。
殺人行為というのは禁忌ではあれど、とどのつまり、どこまでいったって人殺行為は道徳だとか倫理やら禁忌に反した行動というだけでしかない。
だから、それと人間の心根の良し悪しは別なのだ。
矛盾しているようだけれど、殺人を犯す善人というものは確かに存在する。
もっとも、憂波留がそうであるのかはまだ判断に困るところではあるけれど。
だって憂波留は、倫理もなく、道徳もなく、規定すらもなく、何の疑いすらも持たずに人を殺したのだから。
それは憂波留が非情だからとかそういう理由ではなく、もっと根本的にして原始的な問題だった。
憂波留は、殺人が悪いことだという知識すらない。
知識がなく、意識すらない。
ついでに言うならば、殺していた時の記憶がないのだから当然のことながら自覚もない。
「私は、なんなのだろう」
憂波留は呟く。
抱えていた金音は既に寝てしまっていて、だから反応を期待しての問いではなかったのだけれど、しかし金音は目を瞑ったまま答えた。
「あなたは何者でもなく、何者でもあるのですよ」
気障ったらしい、歯の浮いたような台詞ではあったものの、その言葉は憂波留にとっては納得のできる解に思えた。
何者でもなく、何者でもある──無色にして、有色。
有にして──無。
「…………」
納得は出来ても、理解は出来なかったようで、憂波留は首を傾げる。
けれど、それはまぁ追い追い考えてゆくべき命題で、今はまだ理解していなくてもいい、そんな風にも思った。
だって、彼女はまだ産まれたばかりなのだから。
憂憂波留。巨人の内臓喰らい。人工生命体。人為兵器。生まれついての兵器。生まれる前からの凶器。無意識なる狂気。
だけれど、彼女はまだそれを知らない。