42 暴虐的結末
『骨削依存』は雨野金音を指し示す二つ名であるのと同時に、彼の得物の名称でもある。
彼の得物──長柄の鑢。
それは特別製であり、粗悪品だった。
鑢という道具の目的が、細かな部分を削り、整えることであるのだが、この『骨削依存』という鑢は「削れ過ぎてしまう」のだ。それはもう整えるとかそういう次元ではなく、それどころか、削れるという規格にすら収まらないほどで、「切断している」と表現してしまっても差し支えのないほどである。削るように切断する道具──それこそが『骨削依存』。
だから武器としては特別性ではあれど、本来の工具として見るならば粗悪品でしかない。
そんな『骨削依存』と金音が出会ったのは、彼が十五歳の頃だった。
鑢としては些か──否、余りにも切断力に傾倒してしまっていたそれは、当然の帰結として廃棄処分されそうになっていた。決して立派とは言い難い町工場の裏に、出されていたゴミ袋、その底に鑢は封印されるように捨てられていた。
そして、金音が丁度その工場を通りがかり、なんとなく工場長に言って貰い受けた──そんな偶然によって二つは出会った、という顛末だ。
金音は家に持ち帰り、早速それを使って手近にあった木片を鑢掛けしてみたのだが、何故だろう、金音に鑢掛けの経験は無かったというのに、その木片はそれだけで芸術品と称しても差し支えのないほどに完成された。
切断されることもなく、ただただ鑢として機能した──それは『骨削依存』の性質を鑑みればあり得ないことだったのだけれど、だからきっとその鑢は雨音の手中に収まったのだろう。
元ある場所に戻るかのごとく──元より一体であったかのように。
そんな事情で、そんな星の回りで、金音は後に『骨削依存』と呼ばれることになる鑢を手にした。
「くひっ! それじゃあそろそろ『骨削依存』の本領発揮ですよぉ。まァ、これだけ血に濡れれば──肉を喰らえば十全といったところでしょう! くひひっ!」
そんな相棒を手にし、金音は下品に笑い声を上げる。
本領発揮──これからが本当の勝負であるのだと、宣言する。
「へー、それは面白そうねー。ならそろそろ私もー、本気、出しちゃおうかなー」
「くひっ! そこまで衰弱しているあなたが出せる力なんて、全力なんて、本気なんてたかが知れているように思えますが──まぁいいでしょう。もう虚勢すら張れないまでに、削り切って差し上げましょう!」
削り。切る。
それが、全て。
瞬間、同体である二つは加速した。
そして、廻の右腕に新しい擦過傷を生む。
それはもう擦過傷だなんて生易しいものではなく、抉り取られたかのような深い傷。血が噴出する。
そのショッキングさに一瞬廻は眉を顰めるが、しかし鮮やかな足運びで、距離を開けようとしていた金音に肉薄すると、掌打を食らわせる。
速度が今までと段違いなその打撃は綺麗に金音の胸に吸い込まれ──弾ける。
砲弾のように打ち出された男の肉体は、体重の軽さも手伝ってか、殊更に大きく吹き飛ぶと、数度バウンドして動かなくなる。
しかし、それで幕引きになる程彼の体は脆弱でない。気持ちの悪い動きで立ち上がると、端から血の流れる口を釣り上げて、言葉を紡ぐ。
「どうやらあなたは本当に本物だったようだ。この私としたことが油断していましたよ。というか、見違えましたよ。まるで先ほどまでのあなたとは別人のようだ。一体全体どうしたというのですか? さっきまでだって全力だったでしょうに。幾ら私でもそれくらい分かりますよ」
「だから言ったじゃないのー。本気を出すってー。つまりは全力を出してるんだってー」
「ほう、あくまでも先ほどまでの戦闘は本気では無かったのだと? 手を抜いていたのだと?」
今まで常に気味の悪い笑みを形作っていた口が、感情の昂りからか、痙攣している。
けれど、そこは刻喰廻──空気を読まない女。
平常にのんびりとした口調で答える。
「そういうわけじゃあ、ないんだけれどねー」
「煮え切らない答えですねぇ。まぁいいでしょう。どのみち殺すだけ、ですから」
言って、得物を構え直す。
今度は警戒を怠らずに。──が、今度はその脇腹に肘がめり込む。
誰のかは言うまでもないだろう。廻のだ。
「めきゃ」という骨が理不尽に、無理やり折られる音──次いで、先ほどの焼き直しのようにまたしても金音の体が大きく吹き飛ぶ。
しかし、そこは仮にも数字憑き。吹き飛ばされる際に、きっちりと廻の右腕、それも先ほど大きく肉を削ったのと同じ場所を、寸分の狂いもなく再度傷付けていた。
数分前の止血も虚しく、血液が噴出する。しかも今回は傷の深度が最悪で、もう右腕は辛うじて腕にくっ付いているだけであるかのように、プラプラと揺れている。
どうやら使い物にならなさそうだ。
流石痛みによる悲鳴を上げそうなものだけれど、廻はただ患部を一瞥しただけで、視線を吹き飛ばした金音の方へと向ける。
土煙の中から現れた人影は、二度の打撃に軋み、死に際のカマキリを想起させるほどに歪に折れ曲がっているのだが、だけれど、それでもぐりんと大振りな眼は、未だに生気に満ちていた。禍々しく、光る。
それは最早生気ですらなく──怨念のようなものなのかもしれないが。
「くひっ! 流石に予想外ですよ。想定外ですよ。案外にして望外──いやはや、埒外といっても差し支えないほどに、私は今驚いている。そしてやはり考えてしまうのですよ。どうにもこれには裏がある──とね」
ともあれ、意外にも金音の発言は的を射ている。
裏がある──そう、廻が突如として強くなったのにはタネがあるのだ。
「例えば、ドーピング、とか?」
探るように、金音は続ける。
廻は表情を変えない。
当たり前である。もし当たっていたとて、ここで表情を大きく動かしてしまえばただの馬鹿だ。
「そろそろ、いいー?」
廻は焦れたかのような台詞を、のんびりとした口調で言う。
こう言ったのは、これ以上相手の会話に付き合ってられないと感じたが故であるのだけれど、それだけでもない。
つまり──
「治療しているんだか何だか知らないけれどー、流石にこれ以上は待っていられないよー?」
「あら、バレてしまいましたか。これはこれは大した観察眼だ」
「そりゃあー、これだけ見えるようにやられるとねー。目に付くっていうか、むしろ目障りっていうかー?」
「中々に手痛いお言葉ですね。ですがしかし、お待たせしました。準備は万端。細工は流々ってところです。ところで、待っていただいた訳ですから、そのお礼に『骨削依存』の種明かしをさせていただきましょうか──いやいや、そんなに怖い目をしないでくださいよ。別段これは今までと違って時間稼ぎではなく、勿論時間泥棒でもなく、純然たる親切心ですよ」
「なんでそんなことをする必要があるのかなー? それが分からない以上ー、こっちだって待っててやる義理はないんだよー? 時間稼ぎではないっていっても、その言葉の信憑性がまず疑わしいんだからー」
常識的な、あるいは理の通った廻の言葉に、しかし金音は笑う。
せせら笑うかのように、嘲るように──嗤う。
「くひっ! 面白い質問ですねぇ! 何故種明かしをするのかって、そんなこと、決まっているじゃあないですか。勝者の義務だから、ですよ。だからつまり、そんな程度のハンデなんて全く関係なく、そんな程度の負債を踏み倒せるほどに、もう私は完成していて──勝敗は喫している、そういうことです」
廻は沈黙する。
それは恐怖からかもしれないし、あるいはあまりの慢心に対する呆れからかもしれない。
そして金音はその沈黙を了と取って、悦に入ったかのような恍惚とした表情で解説を始める。
「この武器『骨削依存』はどうにも貪欲な子でしてね……とにかく食べないと働いてくれないんですよ。『腹が減っては戦はできぬ』っていう言葉をそのまま体現したような、そんな感じです。そして、こいつにとっての食餌っていうのが、そう、血であり肉であり──骨。こいつはだから、切れば切るほど、削れば削るほど、強くなるんです。しかしですね、こいつの貪欲さはそんなところで止まらない。こいつはね、美食家なんです。こいつは血を選び、肉を選び、骨を選ぶ。だからどんな食餌でも一応は強くなるんですけれど、好みの食餌を食べればやはり効果は倍増するっていう仕組みです。それでその好みの食餌っていうのが──そう、ここまで語ればお分かりでしょうけれど、僕なんですよ。僕の血だったり肉だったり骨を食べると、格段にパフォーマンスが上がる。段違いにね。いや別に私の体が高級食材って言いたいんじゃあないんですけれどね、だからさっきは実は私の肉を、血を、骨をこいつに────」
と、廻がそこで饒舌な語り口に横槍を入れる。
「分かったわー。もう十分。あなたの御託は聞き飽きたわー。本当、お父さんも口数の多い男だけれど、それ以上ってー、あなたー相当なお喋りなのねー。全く──見苦しいったらありゃしない。つまりあなたは説明しなければ落ち着かない臆病者ってことよねー。それだけが分かれば十分よ」
「なんっ、折角人がハンデを与えているっていうのにっ!」
「ハンデー? それならむしろ私があげたいくらいよー。ありがた迷惑もいいところって感じー」
金音はその挑発に、激昂する。
血管が顔中に浮き上がり、今にも爆発しそうなまでに血液を行き渡らせると、唾を飛ばしながら、
「あ、あぁ! 分かりましたよ! どうやらあなたは死ななければ分からないらしい! いいでしょう、見せて差し上げましょう! 私の本物を!」
突貫。
目にも留まらぬスピードで金音は廻の懐にダッシュする。しかし、勢いに任せてとはいえ、怒りに我を忘れてとはいえ、その猛進は考えなしなわけではない。
チェンジオブペース。
廻が金音が丁度攻撃範囲に入るタイミングに合わせて、横に薙ぐような蹴りを繰り出すが、それは空を切る。
金音は、静止していた。
蹴りを鼻先を掠めるような位置で冷静に眺め、完全に空振ったタイミングで最高速度の刺突を繰り出す。勿論、得物たる『骨削依存』を以て。それこそ骨まで削る勢いで。
どうやら金音の先ほどの言はハッタリの類ではなく、そのスピードは目にも留まらぬ速さ──反応はおろか、視認すら不可能な速度。
鑢が廻の胸に吸い込まれ、心臓部まで一直線に肉を断つ──と、そうなるはずだった。
「ぐがっ!!」
しかし、実際に呻き声を上げて地に伏したのは金音だった。
金音の人間を逸脱した速度の攻撃を、更に上回る速度で、廻が振り抜いた脚を引き戻し、後ろ回し蹴りを食らわせたのである。
二度あることは三度ある──再三にも渡り、金音はその細長い体躯を大きく吹き飛ばされる。
それに合わせて幾度か起こる、爆発音にも似たバウンド音と、そして最後に地面を滑る、それこそ肌を鑢掛けするする音。
それが収まると、やがて戦場は静寂に包まれる。
お喋りな道化師の「くひっ!」という哄笑もいくら待ったところで響いてこない。
確認のために廻は金音を見に行ったけれど、どうやら完全に意識が飛んでいるらしく、白目を剥いて、泡を吐いて伸びていた。主観的に見ても客観的に見ても気持ち悪い絵面はあるものの、安心できる結果だろう。
「はー、疲れ……あれっ」
だが、廻は勝利の余韻に浸る間もなく、倒れ込んでしまう。
無理からぬことだ。廻は代償を支払って、人間を超越した速度と力を一瞬手に入れていたのだから。
刻喰廻の強さのタネ──それは、人間が無意識に体に掛けているリミッターを無理矢理に解除すること。
人間は普段、無意識に己の体にリミッターを掛け、その力を二割ほどしか発揮していないのだけれど、廻はそれを無視して十割の力を十全に引き出すことが出来るのだ。
それは最早理想というか、空想の範疇のような技術である。だけれど、そんな強力で巨大で途方もない能力を何の対価もなく利用出来るわけがない。
何故リミッターが存在するのか──それは、あまりの力の大きさに自壊してしまわぬため。であるから、それを外すということは、つまり、自壊するということ。簡単な論法であろう。
だから、今やもう廻の体は──筋肉は繊維までボロボロで、最早自力で立っていることすら出来ないのだ。
「へへへー、でも、一応倒せたよー……」
それでも、猛烈な痛みの中、廻は微笑む。
命を賭して逃した子供達を想って。また、すぐそばで戦っている夫を想って──と、そこで気付く。
「あれー? 何で、音がしないのー?」
金音を吹き飛ばした時にもそうだった。静寂が訪れた。静寂が訪れている。静寂が? 何故? それほど離れた場所でもう一つの戦闘が行われていた訳ではないのに。
そこまで思考して──そこで、彼女の思考は途絶えることとなる。
「かふっ」
廻の体に、衝撃。
重くて、だけれど何故だか軽くなったような──そんな感覚。
熱い。熱い。熱い。
熱くて──冷たい。
冷える。冷える。
有り得ないほどに体が冷え始めるのを感じて。
そして、その発生源である胸に視線を落とす、と。
「え?」
信じられない、といったような呟き。
そしてその後に、
「あがああああああああああああああああああああああああああああああああいだあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
絶叫。咆哮。
彼女の背中に、黒い柱が突き刺さっていた──否、それは柱ではない。
翼。
黒翼。
どこまでも深い漆黒の翼が、廻の背中に大きな穴を穿っていた。それはむしろ生き残っているのが不思議なくらいに絶望的な負傷だった。
痛みというのは知覚に付随するように襲いかかるもので、だからその瞬間は痛みを我慢するまでもなかった、というか気付いてすらいなかったのだが、しかし、気付いてしまえば話は別であろう。
思考が弾ける。頭が痛みでいっぱいになる。
真っ白。赤。真紅。黄色。紫。青。緋! 朱! 赫!
あらゆる色のスパークが弾けては消えを繰り返す。
だけれど、彼女は最早本能で辛うじて首を後ろに、自分にこんなことをした相手を振り向く。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す────」
少女。無機質な少女だった。
名は憂憂波留。だけれど、その容貌は、身に纏う妖気は、つい数十分前とはまるで別人だ。
というか最早人なのかすら怪しい。
異形。
怪物。
魑魅魍魎。
まさしく正しく、化け物だった。
やがて、少女の胸の中央にある瞳が、気味の悪い音とともに大きく開く。
「あああああああああああああああああああああああ────」
断線──暗転。ブラックアウト。
──その光景を最後に、刻喰廻は命を落とした。
これ以上ないほどに凄絶に。
有り得ないほどに残酷に。
比肩し得るものがないほど暴虐に。