3 透明少女
朝がどうしても好きになれない。
というのも理由は簡単なことである。起きたくないのだ。
地球の自転やら公転やらの事情で朝が必ずやってくるというのが道理で、逃れ得ぬことだと分かっていても朝が来なければいいのに……などと毎日朝が来る度に思ってしまう。
そんな僕はけたたましく鳴り響く目覚ましを止め、せめてもの抵抗として
「あー分かった分かった。しかしあと五ふんぐぁう!!」
踏まれた。それも猛烈に。一切手加減……この場合足加減か──など知らないといった強さで。
こんなことをするのは我が家に一人しかいない。
「今すぐ起きるか永遠に眠るか選ばせてあげる」
「どんな起こし方だよ夕暮! お兄ちゃんはあと五分だけ寝たいんぐはっ」
我が妹──夕暮。毎朝こうして甲斐甲斐しく起こしてくれる優しい妹なの……ちょっと待ってつま先刺さってる! 痛い!
「どうなの? 死ぬの? 生きるの?」
「分かりました起きます生きます! だから離して!」
「そう」
感情があまり表情に出ない夕暮だが流石に家族としてここまで長い時間を過ごせばわかる。これは楽しんでいる顔だ、間違いなく。
ようやく妹の足という戒めから抜け出した僕は踏まれていた腹をさすりながらベットから這い出して妹の背後に回り込む。そして手を──
「何?」
「いや、はい。なんでもないよ? なんでも」
妹はこの一家でも最も警戒心が強く、その上それは《時間泥棒》で更に養われているので隙がない。そう、仕返しのいたずらすら許されないのだ。
しばらくジト目で僕を見ていた妹君であるが、呆れたのかふっと溜息を吐くと
「とにかく、遅刻しないように。早く」
そう言って僕の部屋を出てリビングへ。消えた後ろ姿に肩をすくめて、僕も着替えてリビングへと向かうのだった。
まったく、なんだって寝不足の頭でこんなハイテンションコントじみたことをしなくちゃならないんだ。
−−−
僕の年齢で日常といえば、ある一つの場所がその大半だろう。学校である。
『私立蜜三月高校』──それが僕が、ついでに言うなら妹も──が通う高校の名前。
そこそこな面積を持つグラウンドに体育館、そして音楽室に図書室やら──そして机や椅子がずらりと並ぶ教室に至るまでどれを取っても特筆すべきことがない、というまでに普通の私立高校である。
また、蜜三月高校は三学期制であり、今は九月の中盤。つまりは二学期に入ったばかりで夏休みボケから未だ脱却出来ていない僕にとっては憂鬱極まりない時期なのだが、
「おっ、ジック! 今日も元気そうで何よりだ」
元気そうって……。
この睡眠不足と夏休みボケがハイブリッドされた顔のどこを見たらそんなにプラスな解釈が出来るんだよ、と呆れつつもとりあえずは挙げられた手にハイタッチで応じておく。
僕の隣の席に座って何が楽しいのかニコニコしているこいつの名は数騎江。とにかく明るくてクラスのムードメーカー的存在でありながら勉学も優秀で模試では常に上位。顔もそこそこだから案外モテるし──って神様こいつにギフト与えすぎではなかろうか?
そしてジックというのは言わずもがな僕のあだ名だ。不本意なことに。
かっこいいじゃん、とは江の言であるが、どこで呼ばれても恥ずかしいことこの上ない。
「おっすジックぅー!」
そしてそのあだ名はこれまた不本意なことに定着してしまっているのだからやるせない。
そして更にやるせないのが今挨拶してきたこの女子が江の彼女であるということだ。
國冴彩──部活の女子ホッケーでは全国レベルであるらしく、そのスポーツに対するひたむきさに江が惚れたのだという話を以前本人たちから聞かされたが、死ぬほどどうでもいい。
そして忌むべきことにこいつは俺の幼馴染でもあるんだよなぁ。
元気よく挨拶してきた幼馴染を手をひらひら振って「はいはい」と適当にあしらおうとしたら
「お、は、よ、う、でしょ?」
首を後ろから抱えるようにして締めてきやがった。どうしてこう俺の周りの女子は暴力的かね。だから極まってるっての!
「けほ、けほ」
タップしてようやく開放してもらい、酸素の恩恵を受けながら彩を睨みつけるも、やつは謝るどころか
「ねえ、江〜、ジックが睨んでくるぅ〜」
「それは怖かっただろう。大丈夫か?」
「うん! やっぱ江は優しいね」
「……」
いつの間にやら二人の世界に入って行ってしまった馬鹿どもに嘆息すると、丁度チャイムが鳴る。
その時を待っていたとばかりに教室に入ってくる数学教師の山本の姿を確認すると、それまで騒々しかったクラスの喧騒は次第に収まり、やがてばらばらと自らの席に各々戻って行く。
「起立、気をつけ──礼」
決して揃っているとは言い難い「お願いします」という唱和と、それに連なるような椅子を引くガラガラとした音、そして暫しの喧騒を挟み、教室にはようやく静寂が訪れる。
「さて、今日は三角関数についてだ。三角関数というのは──」
山本の見た目の割に細い声によって紡がれるつまらない授業をBGMとし、僕は机の上で組んだ腕に顔を埋めると、もう既に混濁し始めた意識の中で自分だけに聴こえるように呟いた。
「おやすみなさい」
−−−
──体感三十分。六限の終了のチャイムが授業の終了を告げる。
どうやら僕はついぞ起きることなく、終業の時刻を迎えてしまったらしい。
とはいえ別段感慨らしきものは無い──というのも《時間泥棒》をした翌日は大抵「こんなもの」だからだ。
そりゃあ眠い盛りの高校生が夜更かししようものなら翌日学校で睡眠をとるのは当然の帰結さ──だなんて開き直っている僕とは違い、どうやら妹はしっかりと授業を受けているらしいのだが。
閑話休題。
こうして授業を終えた僕は誰かと共に帰ることもなく、例によって何時ものごとく一人で下校路を歩いていた。
本当に何の気なしに。決まり切ったレールの上を走る列車がごとくいつも通りに。
しかし僕は結果として、非日常との邂逅を果たしてしまったのだ。
最初の異変は────
家に至るまでの最後の交差点。
「────ッ!」
そこに差し掛かった瞬間、僕は猛烈な頭痛に襲われる。
刹那的だけれど、その刹那で遍く脳の全てをシャッフルするかのような猛烈な頭痛に思わず立ちくらみ、膝を突く。
「あぅ……あぁ……痛ぅ──へ?」
しかし、顔を上げたその眼前に広がっていた光景はその痛みの余韻すら吹き飛ばすほどの衝撃を与えるものだった。
雪──無色透明な、雪。
今の季節は夏真っ盛り。それは携帯を開いて日付を確認してみても明らかで、そして感じている気温も真夏のそれだ。それだというのに目の前には降りしきる雪。
それも純白ですらない。無色透明な、雪。
「どういう……こと?」
状況が飲み込めないまま馬鹿みたいに視線を右へ左へ遣ると、もう一つ大きな異変に気付いた。
普段は夥しいほどの交通量を誇るその交差点。しかし不自然なことに車は一台も走っていないのだ。どころか人っ子ひとり────
そこで僕は一人の少女を見つける。
そして、
「────」
目が──合った。
稀薄な、少女だった。
何が? いや、何もかもがだ。
その少女の纏う気配から存在に及び、指の先までどこを取っても無色透明。
実際にはそんなことはない。風にたなびく髪の色は亜麻色で、ほっそりとした手足は日焼けからかほんのりと朱が刺した肌色。少女らしい華奢な身体を包む薄手のワンピースは淡いグリーンだ。
だが僕の目にはその少女がどこまでも色彩を欠いているように映った。まるで、少女が存在するその空間だけ、ぽっかりと穴が空いているかのごとくに。
空っぽだった。がらんどうだった。
怖気を感じるほどに。
しかし、そして──なぜこんなにも懐かしく思うのだろうか?
初めて見かけたはずの少女を前にして、何をされたわけでもないのに心臓は恐ろしいくらいに早鐘を打ち、それと対照するかのように口は動かず、僕はただただ絶句して棒立ちしていた。
およそ言語化できないような複雑な感情と、絶え間ない不安に急き立てられる。
やがて。
「────!」
少女は何事かを呟くようにし口を開閉させ、にっこりと笑った。
「え、何て?」
すると、無色透明の少女は苛立ったのか肩をいからせて大股でずんずんと僕の方に歩いてきて、そして
「やっと会えたわね、って言ったの! あなたに頼み事があるのよ!」
──色彩が戻ったそこに存在していたのは、決して儚さとは無縁な勝気な瞳だった。
いつの間にやら降りしきる雪も消え失せ、辺りに広がるのはいつもと変わらぬ光景。
僕はただ阿呆のように呆然と立ち尽くし、緩慢な仕草で自らの頬をつねってこれが現実であるのだと確認すると、
「説明が……欲しいです」