37 新居
昼過ぎ。
車内は空調で実に快適な気候(?)になっていて、ともすれば忘れてしまいそうそうになるけれど外は残暑が猛威を振るっているであろう時節。
そうこうして──そんな六文字で割愛するには長すぎる時間が経過していたのだけれど、まあそれはそれとして。
とにもかくにも、そうこうして、僕たちは目的地へと到着した。
車を降りると、案の定むわっとした熱風のような空気が気持ち悪く肌にまとわりつく。
そこは、思っていた物件よりも二つほど輪をかけてボロいマンションだった。
全体的に灰色がかった外壁には、所々原因を推察することすら困難なよくわからない傷が多々見受けられていて、また、窓もどこかくすんだような色をしている。
勿論僕の今まで住んでいた家などとは比べ物にならないほどに、貧素なマンションだった。
「親父、これからここに住むんだよな?」
「あぁ、そういうことだ。何か疑問でもあるのか?」
「いやね、疑問ってほどでもないんだけれど………そのさ、もう少しいい感じの所かと思っていたもんだからさ」
「そうか? 俺は案外味があっていいところだと思うけどなー」
気楽そうに親父は言い、マンションの管理人のところへ挨拶と、諸々の手続きをするために中へ入って行ってしまった。さほど距離はないので、一人で車椅子を運転している。
僕は溜息を吐いて、他の三人にも同様の話題を振る。
「なぁ、ここ、実際どう思う?」
するとアリスは微妙な表情で遠慮がちに、
「私は匿ってもらっている立場だから贅沢は言えないわ。けれど、なんていうかその、エキセントリックな所よね!」
遠慮がちに切り出した割には正直なアリスだった。そもそもエキセントリックってマンションに使うような形容詞ではなかったような気がするんだが……。
「ぶっちゃけると、住みたいと思える場所ではないよね。ま、山小屋といい勝負だと思うけど」
それに続くように今度は夕暮のストレートな言葉。妹は感情をオブラートに包んで話すという心得がないらしい。
だけれど、山小屋といい勝負、という点に同意してしまっている自分もいるのだから、案外僕も人のことは言えないのかもしれない。
そして最後に満を持して母さん。
だけれど、母さんの意見は他の女性陣とは異なるもので、
「でも正直なところー、一つの場所にどれだけ止まれるか分からないっていう状況で、グレードが高いところに住んでも無駄になっちゃうだけだしねー。だから節約節約、だよー。そういう意味じゃお父さんはそんな中でもまだまともな部屋を選んでくれているんだと思うよー」
なるほど確かに、合点のいく話だ。
刻喰家の武力&家事担当──とはいえ、伊達に長年親父の伴侶をやっているわけではない。
その口ぶりから察するに母さんはその決定には噛んでいないらしいが、(というか、刻喰家は今は割と少数派である親父主導の家庭なので、基本的に親父が全権を握っている)それでも親父の考えは伝わっている、ということだろう。
と、そんな風に話をしている内に、親父は部屋の鍵を持って戻って来た。
「じゃあ、入るか」
−−−
「部屋の中は案外まともなのね」
無感情に夕暮が言った通り、廃れた外装ほど、室内は酷い有様ではなかった。
殺風景ではあるものの、洋服タンスやカラーボックスといった最低限の収納と、あとちょっとしたソファーは、かつての家主が置いていったのだろうか、堂々と部屋の壁に沿うようにして鎮座している。逆に言えば、テレビや冷蔵庫といったその他の家具は一切として無いということだけれど、それ以上を求めるというのは流石に贅沢というものだろう。
「まあな。一応それなりに暮らせそうな物件を選んだからな。んん……あぁー! そーれにしても疲れた疲れた」
母さんの手を借りてソファーに腰を下ろすと、親父は欠伸と共にそう吐き出す。
流石に朝からぶっ続けで移動というのは体に堪える。それに僕たちは時たま寝てしまっていたけれど、助手席というポジションに位置する親父は母さんを支えるために起きていなければならなかったのだ。
そして、そういう意味では、運転手である母さんの心労こそが最も大きいだろう。
母さんも親父をソファーに座らせると、そのまま力尽きるようにして床に寝転がる。母さんは武術のいわば申し子なので、体力に関して言えばそうそう尽きることなどないのだが、ただ、運転に使う体力と運動に使う体力は違うらしい。完全に疲れ切っている様子だった。
本来ならば、部屋に着いたなら必要なものを買いに行く予定だったのだが、到底二人とも動き出せる状態ではない。
ならば、
「じゃあ、僕が買い出し行ってこようか?」
「あーマジ? いいの? ならおっさんとばぁさんは部屋でまったりしてようかなぁ……げふっ!」
ばぁさんと評された母さんが全力で親父の腹をぶん殴って、親父の体はくの字に折れ曲がる。一応怪我人だってのになんて扱いだ。
そしてその母さんは自分が殴ったってのに「大丈夫ー?」なんて本気で心配して、親父の腹を撫でる。すると親父も「痛いよう」なんて言いながら楽しそうな笑みを浮かべて。だけれど流石に撃たれた場所の近くを殴られたダメージは大きいのだろう。脂汗が滲んでいる。
全く、何してんだよ……。
「ふふふ……母さん、ここも痛いんだ……撫でてくれ……っと、そうだったな、時空が買い出しに行ってくれるって話の途中だったな。その提案自体は有難いんだけどな、しかし現実問題一人で持てるほど軽い買い物って訳でもないだろう。やっぱ俺らも行くよ」
「いやでも、親父は病み上がりだし、母さんもずっと運転してたからちょっとぐらい休んでいた方がいいよ」
そこで唐突に、一つ、手が挙がる。
「は、はい! 私でよければジックのお買い物に付いて行く……ます!」
僕と喋る時と、親父たちと喋る時のどちらに合わせればいいのか迷っているのだろうか、常態と敬体が混ぜこぜになりながらも、アリスが元気に名乗り出た。
その食い気味の挙手に、一瞬誰もが無言になったが、
「そうか……なるほど、ジックと二人で買い出しに行きたい、ねぇ……。分かった、そういうことなら俺らがお供しようってのも野暮な話だよな。分かった! 行ってこい!」
「いや、二人でとかそういうことじゃなくてですね、ただ──」
「大丈夫よ、アリス。皆分かってるから。私も家で待ってるから二人で楽しんできてね」
「ゆ、ユウまで! そういうことじゃないんだったらー!!」
新居の狭い部屋にアリスの悲鳴はいつもよりよく響き、ともあれ僕は、望外にもアリスと久々に二人きりになる機会を得たのだった。