35 出発
片付けが終わったのは八時。
荷物をやっとのことで黒のミニバンに積み込んで、僕たちも乗り込む。運転席に母さん、助手席に親父、二列目に右から僕、夕暮、アリスという位置取りである。普段は親父が運転しているのだけれど、流石に体が十全に快復していない状態での運転は危険であろう。というわけで今日は母さんが運転手だ。
そうそう、ちなみにダンボールは僕たちの足元に二つ、トランクに五つ収納されている。
このミニバンは四人用にしては一回りほど大きい。その理由は、案外こういう非常事態を想定してのことなのかもしれないと、ふと思う。流石に家具を詰め込むことは不可能にしても、ダンボール七つを積載してもさほど窮屈さを感じないこのミニバンは、なるほど引越しに適した車であると言えよう。
「さて、通帳は持ったよな? 印鑑は持ったよな? 財布も、携帯も、大丈夫だよな? あ、保険証大丈夫か?」
「全く、さっき散々確認したでしょうー? 本当にお父さんは往生際の悪い人なんだからー」
出かける前にあたふたやっている親父と、それを嗜める母さん。いつも通りの光景だった。
「じゃあ、出るか。出発進行!」
「おー!」
思わずいつもの習慣で拳を突き上げてしまってから、気付く。今日はアリスがいるのだ。
オイルの切れたロボットのようなぎこちない動きで首をアリスの方に回すと、あぁ、やっぱりにやにやして微笑ましいものを見たかのような笑みを浮かべているではないか。なんというか……直接馬鹿にされるより死にたくなる羞恥だった。
アリスと僕の間に位置する夕暮も面白がっているような雰囲気を醸し出しているし。なんていうのか、この二人の感性が似てきたのではないだろうか、と現実逃避気味に考えて。
されど、いかに逃避しても現実から逃れることは不可能なので、せめてもの前進としての話題転換を試みようと親父に話を振る。
「親父、そう言えば聞いていなかったけれどこれから何処へ行くんだ?」
「なんだ、時空。恥ずかしさを紛らわせるために話題を変えようとしました、みたいな声して」
鋭い。そして最悪だった。普通そういうのは気付いていても気を利かせて黙っているものだろうに。しかもこれで素なのだからタチが悪い。横にチラリと目を遣るとアリスが含み笑いを、夕暮もまた手を口に当てているが、意図的にスルー。
「いいや、別にそういうわけじゃなくてさ。単純に気になって」
まだ口に手を当てて馬鹿にしてくる夕暮の頭を軽く叩きながら言う。すると、夕暮は非難するような目線を向けてくるけれど、これもまたスルー。
「ふうん。まぁいいか。ああ、今向かってる場所だな? 母さん、そのバックに入れた紙見せてやってくれ」
「はいよー」
母さんから手渡された紙は、部屋の間取り図だった。そこには住所も載っている。
「ここは……あぁ、愛知県か。……ってえぇ!? そこまで行くのかよ!?」
現在地が千葉県で愛知まで。結構な距離である。それも車でとなれば五時間半くらいはかかるのではなかろうか。
「まぁな。言ったろ? あいつらは生半可じゃないって。そんな一時間二時間程度しか離れてないとこなんて雲隠れはおろか、時間稼ぎにすらなりゃしない」
それもそうか。なんだか今朝からの穏やかな調子で平和ボケのような心持ちになっていたけれど、今回の目的は逃げることなのだ。
鬼ごっこ──それも捕まったら殺される、命懸けの。
背筋に冷たい物を感じる。
「とはいえ、愛知に行くって言ったってそれも時間稼ぎでしかない。そんな一回の引越し程度で巻けるなんて思っちゃないさ。だからこれからは色んなところを転々としてく予定だ。軽い日本一周旅行ってところだな、はは」
軽い調子で紡がれる親父の声に同調して笑う者はいない。現実の厳しさってやつに、誰しもが声を出せないでいた。
「だからまぁ、一軒家は勿論無理ってこった。故に今回の旅は基本的にマンション暮らしだ。金はまぁそれなり──ってかかなりあるけど、それでも節約に越したことはない。金使いすぎてあと一週間持ちこたえられないってなったらシャレにならんからな」
「一週間? 親父、何で一週間なんだよ?」
「あ……」
「しまった」とでも言いたげな声音を僕は聞き逃さなかった。
「親父、一週間持ちこたえられれば僕たちは生き残れるのか? 何で一週間なんだ?」
「いや……あの、あれだよ。大体いつもこういう場合一週間で捜索を打ち切ってんだよ」
明らかに嘘だろう。しどろもどろな親父の言葉には不信感すら覚える。もしこれが例えば一週間管理して、その後に僕たちを『牧場』に引き渡す計画を口を滑らせて喋ってしまった、とかなら追求しなければ僕たちの今後に関わる。冗談抜きで生きるか死ぬかの問題なのかもしれないのだ。
だけれど、そこで親父に助け舟が出される。それは、意外な人物からだった。
「確かに、毎回『牧場』は罷免された支配者の捜索を一週間で打ち切っていた気がします」
「ほらほら! アリスちゃんもこう言ってるぞ!」
アリスの発言内容というより、僕はいつの間に親父と仲直りしたのかという問題の方に驚いた。よく見ると震えもないし、瞳に気負いも見えない。
(どういうことだ?)
あらゆる事象を統合してそう内心で呟く。
だが、この場に限って言えば『牧場』の実情を知らない僕が否定できる立場にないので、ひとまずこの問題は保留にする。もしかすると親父は予期せぬ質問に焦っていただけなのかもしれないし。
一応夕暮にもアイコンタクトで尋ねてみたけれど、夕暮もそこまで内部事情には詳しくないらしく、小さく首を傾げただけだった。
そうこうしている内に、親父は場を仕切り直すように一つ咳払いをして、
「まぁそんなところで今後の大雑把な確認は出来た訳だが、『これから』について話したからには、更に話さなきゃいけないことがある。そう、『これまで』について──どうして俺と母さんが『牧場』の支配者になったかってことを、話さないってのは不誠実だろうからな。ま、『これから』の後に『これまで』を話すってのは時系列的にあべこべな気もするが」
ある意味では、最も聞きたかった質問で、最も聞かなければならない質問である。ただ、それと同量くらいに聞いてはいけない質問なのではないか、何かのバランスを崩してしまう行為なのではないかと躊躇っていたことでもある。
それをまさか、親父が切り出してくるとは。
驚いて、僕はロクに反応出来なかったのだが、それを先を促しているのだと了承したのか、親父は前方の景色を見据えながら、
「まず話す前に一つ言っておかねばならないことってのがあるんだ」
そう言って親父は「ふう」と一つ息を小さく吐き出す。
「夕暮、この話はお前がこの家に来るきっかけとなったあの事件について触れなくちゃどうしようもない。だから……心の準備をしておいてくれ。夕暮の心の整理がついたタイミングで話す。もしどうしても辛いってんなら話さない」
「……」
夕暮は俯いて沈黙している。
僕は一週間前、『牧場』に立ち入ったところでパニックを起こして涙をポロポロと零していた夕暮の姿を思い浮かべていた。
あの時夕暮は癒えようもない心の傷に触れ、どうしようもなく心を乱していたのだ。そしてまだそれから一週間しか経過していない。時間は心の問題なんぞ解決してくれようはずもない、だなんて言うつもりはないが、それでも夕暮の過去はたかだか一週間程度で乗り越えられるものではないのだと、僕は思っている。それは主観的な悲観的観点からではなく、客観的事実として。
「夕暮、無理しなくても──」
しかし、その僕の台詞は、夕暮に遮られる。
夕暮は勢い良く顔を上げた。その目には確かな覚悟。表情には一見変化はないけれど、それでも心なしか引き締まった笑みの形を結んでいるようだった。
「大丈夫、兄さん。話して、父さん」
「でも、夕暮……」
「大丈夫。心配してくれて嬉しいけれど、でも、ここで逃げちゃったら私、ずっとああだから」
「ああ」とはきっと、『牧場』でのフラッシュバックのことだろう。
夕暮はそれを忘れている訳ではない。むしろそれを覚えているからこそ、覚悟を決めたのだ。私はこのままじゃいけない──どうやら、僕の妹は僕が思うよりずっと、僕なんかよりずっと強いらしい。
(全く、誇らしいやら不甲斐ないやら)
「そうか、分かった。でも無理するなよ?」
「うん」
兄妹の遣り取りがが終わるのを待っていてくれたらしい。(こういうところで気を遣えるのなら、もう少し普段から空気を読んでくれてもいいものだが)親父はもう一度軽く息を吐いてから、
「それじゃあ、話すぞ」