32 惰性の中の転機
それから一週間は、怠惰な日々が続いた。
朝起きて、食事をして、何をするでもなく時間を浪費して、また食事して、時間がきたら寝る。そんな生活をしていた。
三人で喋ることもないでもなかったが、状況が状況だけにどうにも不自然な盛り上がり方しか出来ず、次第にその会話量すら減っていく。
学校にも行けない。外出も最低限。そんな生活は僕たちの生きる気力ってやつを明らかに削いでいっていた。
以前の僕であれば空気を良くするために尽力しただろうけれど、今は自分のことで手一杯で──することはないのだけれど、それでも能動的に動く気力など、もう無いに等しかった。
アリスは今でも好きだ。だけれど、今の同居生活とも言える状況に胸を踊らせる余裕なんて、皆無である。
無気力で、自堕落。やらなくてはいけないことすら分からず、ただただ茫漠としていて朦朧とした不安感だけはあるのに、現状に身を窶して生きている。
《時間泥棒》をして、加えて通常に食事もして、命は繋がれているのに、どうにも生の実感がなかった。
『牧場』をどうにかする、そんな目標はあったけれど、それに対して講じる手段どころか、日々を生き抜くことすら不安定なのだから、どうしようもない。何かを助けるという行為は結局のところ余裕がなければ取り得ない行動なのだと、実感する。
−−−
───ピリリリ、ピリリリ、ピリリリ────
そんな褪せた日々の中、唐突に電話が鳴る。
江や彩からは死ぬほど電話が掛かってきているので(とはいえ一回も出てはいないが)電話自体は珍しいものではないのだが、しかし今の時刻は十四時半。まだ授業中である。それに表示されているのは「非通知」の三文字。
どうにも怪しい──と、普段の僕ならば考えていたかもしれないけれど、判断力がほぼないような今の状態である。もういいや、みたいな適当な判断で通話ボタンをプッシュし、電話に出る。
「時空か。刻喰家の前に今すぐ来い」
どこかで聞いたことのあるような声。だが、電話を通した声はくぐもっていて、思い出せそうで思い出せない。それにこの命令口調に集合場所は『牧場』でもある僕の家──否、かつての家だ。
ようやく警戒心が追いつき、思案し始めたところで、
──ップ──ップ──ップ──ップ──
電話は一言しか言わぬまま切れていた。結局誰なのかも分からず終いで、だけれど。
「アリス、夕暮、ちょっと出掛けてくる」
何故だか行かねばならない、そんな気がしていた。
−−−
家の前に到着する。
随分と久しい気はするが、たかだか一週間しか経っていないのか。
ただ、感慨など無く、ただそれだけを思った。それだけしか思わなかった。
あらゆる思い出が詰まっているはずの我が家だというのに、だ。
あるいはそれは感情を押し殺しているだけなのかもしれないのだけど。だが、それすら今や分からない。
しかし、今大事なのはそんなことではないのだ。
急いでこの場所に駆けつけたというのもあるのかもしれないが、僕以外に人一人居やしない。呼び出しておいてすっぽかした……なんていう悪戯といった雰囲気ではなかった気がするのだが。
──と、丁度その時だ。
噂をすれば影、とでも言おうか。向こう側の角を曲がって僕の方に近付いてくる人影が。
「な……んで、どうして……」
近付いてきたのは二人、だった。
一人はいかにものんびりとした風情の淑女。そしてその女性に押された車椅子に乗せられた大男──という奇妙な構図。どうにもちぐはぐな図ではあるけれど、僕が驚いたのはそこではない。
「どうして……」
それしか言葉が出てこない。まるで有り得ないものを──幽霊でも見たかのように僕はただただ馬鹿みたいに繰り返す。「なんで」「どうして」「意味がわからない」そんな単純な言葉ばかりが脳内を占拠する。
だって、だって──
「どうして父さんが……居るんだよ……っ!」
そこに居たのは親父と母さん。
母さんはまだしも、殺したはずの親父が不敵な笑みを浮かべてそこに現れたのだから。
そういった意味では幽霊でも見たかのような、という表現は正鵠を射ているというか、的を射ているというか、皮肉の効いた冗談みたいだというか……。
だが、いつまでも狐につままれたかのような現実味のなさを味わっているわけにもいかないだろう。相手は実の両親である以前に『牧場』の支配者なのだから。
そして僕の呟きに対して親父は──支配者は同じく呟きで応じる。
大抵こういう重要な会話は親父が切り出す。というか、母さんは参加しないことの方が多い。
それはゆったりな喋り方がこういったことに向いていないということと、説明というか言葉の駆け引きが得意ではないが故の適材適所だ。
「近頃の医学ってのはスゲェもんだなぁ。たった一週間でもうこうして会話出来るっつーんだからよ」
「な……」
銃弾が撃ち込まれたのは胸の辺りだった気がするけれど、それでも車椅子に乗っているというのは、それだけダメージが大きく歩くと患部に響くということなのだろう。けれど、それでもこうしてたった一週間でニヤニヤ笑いを浮かべて僕の前に現れることが出来るまでに快復するだなんて、最早医学の進歩だけで説明がつく領域ではないだろうに。なんてしぶといんだ、親父は。
「何の用だよ?」
「性急だねぇ、せっかちだねぇ。もっと体の心配とかしてくれてもいいとは思うんだがなぁ……。他ならぬお前さんがしでかした結果だ。知りたくないってわけでもないだろう?」
「……」
「まぁそう睨むなって。悪かった悪かった。そんなに眉間にシワ寄せてっと早死に、するぜ?」
「早死に」の部分をわざと強調してくるあたり全く悪いと思っていないのだということだけは伝わって来る。が、そこで声を荒げようものならそれこそ親父のペースだ。
舌打ちをしたくなる衝動を抑えて、再度尋ねる。
「だから、もう一度言うけど、何の用だよ。僕は人を殺せるんだ。それが例え肉親だって同じことだ。それは親父が身をもって体験──もとい体感したことだろう?」
「なんだよ、一丁前に脅しか? 随分と生意気になったもんだ──っと、まぁいい。なぁに、一つ提案をしてやろうかと思ってね」
「提案……?」
「あぁ、提案だ。実はな、俺たちはアリスちゃんを追うのをやめたんだよ」
「アリスを追うのを……やめたってどういうことだよ! だって、あんなに」
「あんなに」何なのだろう。結局のところ、僕は何一つとして親父があんな行動を取っていた訳を理解していなかった。いや、確かに『農場』から脱走を図ったアリスを捉えるのは重要な職務なのかもしれないけれど、それでも何故だか釈然としていない。それはあくまでも『牧場』の意思であり、親父の意思ではない、そんな気すらしていた。それは最早願望の類なのかもしれないが。
しかし、親父はその考えを肯定するようなことを言う。
「確かに『牧場』という組織はアリスという少女に固執していた。だが、俺は──俺と母さんはそうでもないってことだ。興味はなくはないが、それだけ、だな」
「興味?」
「ああ、興味だ。時に時空、アリスちゃんからなんでこうなってるかって聞いたのか?」
「うん。簡単にではあるけど。機密を盗んできたから、情報の管理に執着する『牧場』は私を放置しておかない、みたいなことを」
親父はそんな僕の説明に一瞬驚いたかのような表情をする。だが、それも一瞬で深く頷いたので、何か勘違いでもしていただけだろう。親父も当事者ではあれど、アリスほど情報を得ていないのかもしれない。
「なるほど、まぁ概ねそんなところか。で、本題に戻るとだな……あ、でもこの場合これ先に言っておいたほうがいいな、うん」
後半はほぼ独り言のようになっていた。そして、親父はさらっととんでもないことを口にする。
「俺たちは『牧場』から見切られたんだよ」
「え!? それって」
「あぁ、クビっていうか、まぁ、そんなところだな。ついでに言うとあと二日あたりでこの家には新しいやつが来て、そいつがこの『牧場』を管理するから家も引き払わなきゃいけないらしい」
飄々とした喋り方をしているが、それは意図してというか、努めて感情を表に出さないようにしているという印象を受ける喋り方だった。流石にこの現状には思うところがあるのだろう。軽く頬が引きつっている。
「どうやら俺の後釜を決める会議が長引いてるみたいだけど……、とそんなことはいいんだ。ともかく二日後にそうなるらしいんだが、このままだと多分、俺と母さん殺されるんだよな」
「はぁ!?」
「いやさ、ちょっと考えてみろよ。機密を持ち出したアリスちゃんがあんなに追われてんだぜ? 元とはいえ管理者なんてそれこそ暗部を知り過ぎちまってんだよ」
まぁ確かに理は通っている。『牧場』の性質を考えればありそうな話でもある。
「そこで、だよ。提案だ。俺らと手を組まないか?」
「────っ」
「どの口が!」と危うく叫びそうになるのを、すんでのところで下唇をキツく噛みしめることで、強引に思い留まる。ついこの間まで家族だったとはいえ、他でもない元『牧場』管理者だぞ? ありえない。盗人猛々しいにも程があるだろう。それに、僕は親父を撃ったんだ。それなのに、そんな僕と手を組もうだなんて……怪しい──以前に話にならない。
「住む家とか、困ってんじゃないのか?」
「家は……ある」
「金は大丈夫なのか?」
感情論ではどうあっても僕の心は強情になるだけ。それを見越して物質的な困窮を揺さぶってくる。厭らしい。だけれど、突っぱねることもできないのが辛いところだ。僕だけならいい。だが、僕には守るべき者が二人もいるのだから。
綺麗事では生きていけない、この世の道理だ。
「手を組むって、具体的にはどうするんだよ?」
僕は呻くように問うた。
「なぁに、簡単なことさ。また家族四人で引っ越して暮らそう、ってことだ。あぁ、今回はアリスちゃんも入れて五人か」
「ふざけんなよ……今更どういうつもりで……」
声は怒りに震え、沸騰した鼓膜には僕の声がヒビ割れて響く。
けれど、その怒りに反するように、親父の声は冷静なものだ──と、いうより真剣なものになっていく。
「ふざけてなんかない。俺は本気だ。この提案だって本来ならしなくたっていいんだ。俺と母さんがその気になれば二人で雲隠れなんて造作もないことさ。だがそれにお前らを連れて行こうとすれば難易度は上がるんだ。人数の増加はリスクの増加ってな。でもそれでもこうして提案って形でお前らと一緒に行こうって言ってんのは」
そこで親父は区切って、屈託のない笑顔で言う。
「家族だからだよ」
その笑みは親父がよく見せていたもので、この後に及んで「家族だから」なんてそれこそよく言えたものだって感じだけれど、それでも不思議と不快ではない。
僕がしばらく無言でいると、親父は、
「ま、今すぐに返事が欲しい訳じゃない。夕暮とアリスちゃんにも相談しなきゃならないだろうから、そうだな──この提案に乗る気があるんなら、明日の朝七時に支度して、またここに来てくれ。もし来なかったらそれは否定と取るからそれならそれでいい。ただな、乗らないにせよこの街から離れた方がいい。あいつらがここら辺に来るってことは、そう生半可なことじゃあない」
それを聞いても僕は何も言えなかった。あまりにも急な展開に頭がパンクしかけているというのもあるけれど、それよりも、親父が分からない。僕の味方なのか敵なのか……。完全にしっちゃかめっちゃかだった。
「っつーわけで、俺はこれからここの後始末というか後処理が残ってるから。じゃあな」
そして、母さんに車椅子を押されて親父は家の中へと。その際に母さんも「じゃあねー」とまるで気遣うように声を掛けてきた。だが、もう僕にはどの表情が、どの言葉が真なのか、分からなかった。今まで過ごしてきた日々がなんだったのだろうと思うほどに、母さんも親父も別の個体でしかなかったのだと突きつけられたかのようだった。
「とりあえず、帰って相談、か」
僕は呟き、小屋へと歩いていく。まるで問題を先延ばしにするように、ゆっくり、ゆっくりと。