30 第二の覚悟
いくら止血をしたとは言ったって痛みが引くわけではない。あくまでもそれは応急処置に過ぎないのだ。さっきはアドレナリンによって幾らか麻痺していた痛覚も時間を経るごとに戻るわけで。現状を説明するなら、「超痛い」その一言に尽きる。
奇襲的作戦が功を奏し、ほうほうの体で万事休すな状態から脱却した訳であるが、逆に言えばそれだけでしかなく、状況は最悪とは言わないまでも決していいとは言えない。左腕は痛みと損傷でまともに動かないし、それに加えてアリスが幽閉されているのがどこなのかも分からないのだ。
だから今はこれからどうするかを考えつつ階段の下の死角になるであろうスペースに腰を下ろしているのだが、まぁ見つかるのも時間の問題だろう。『農場』探しの際の疲労も未だ足に残っているものの、そろそろ動き出さねばなるまい。
「うーん、困った」
虱潰しに『農場』を探すには僕一人だとあまりにも時間がかかりすぎる。その間にも親父が戻って逃げ出さないと限らないとも限らないわけだし。
しかしまぁ、心当たりがないわけではない。親父の性格を考えれば、恐らくアリスは最も奥の部屋に隠されているのだと思う。
そんな単純なことだろうか、一番隠さなければならないものを一番奥に隠すなんてそんなの子供でもあるまいし──とも考えるがしかし、親父はいつもそうだった。基本的に分かりやすいのだ。
そのせいで隠していたあらかたのものは母さんに没収されて嘆いていたんだっけ……いいや、今はそんな思い出に浸っている場合ではない。もうそんな日々が訪れることは永遠にないのだろうから、だからこそ立ち止まってはいけない。
はてさて。
今は母さんもついているだろうからそんなに簡単にはいかないかもしれないけれど、それでも全く情報がないのならばひとつ指針を定めて突き進むことも重要だろう。元より選択肢はあってないようなものなのだから。
「さて、行こう」
−−−
そこは、まるで子供部屋のような一室だった。
床にはカラフルなマットが敷かれており、大きなおもちゃ箱が置かれていいて、窓からは穏やかな日差しが(人工灯による光なので厳密には日差しではないのだが)。
それだけであれば入り口すぐの子供達が遊んでいた部屋だってそうだろうけれど、だがこの部屋はそことは一線を画す。
匂いが、違うのだ。
血の匂いがする。噎せ返る程の鉄の匂いが、充満していた。それはここ数日だとかそういった浅い匂いではなく、数年──あるいは数十年に渡って染み付いてきた血液が煮凝ったような、そんな匂いだった。
きっとこここそが『農場』の本質たる《時間泥棒》をさせるための部屋なのだろう。
最奥に物々しい鉄製の椅子がある。それはこの部屋では明らかに異質であり、浮いている。腕掛けの部分と脚には鉄製の固定器具が付いていて、きっとこれで子供達を固定するのだろう。
そしてその椅子の上にはヘッドギアのようなものが天井からぶら下がっていて、ここから情報を抜き取るのだろうと想像出来る。
恐らくこの椅子に座るのを拒否する子供に対し、おもちゃ箱に溢れる拷問器具を使って「しつけ」を行い、無理やりに《時間泥棒》をさせているのだろう──だからこそのこの匂い、である。
(本当に、腐っていやがる)
目を逸らしたくなるほどに負の歴史を感じる部屋だった。
だけれど、今は目を逸らすわけにはいかないのだ。その鉄製の椅子に座っているのがアリスという少女なのだから。どうやら眠らされているようで、普段の活発さは窺えないけれど、その程度で見紛うはずもなかった。
そして、アリスを守るような位置に立ち塞がるは我が母。
「母さん、アリスを、取り返しにきた」
「ふぅーん、お父さんはー?」
こんな時にものんびりで的外れな回答──というか答えにすらなっていない。母さんも夕暮とは違うけれど言葉や表情に感情が感じられない人なのだ。僕としてはむしろ夕暮のほうが感情を読み取れるくらいである。
「倒してきた、って言ったら?」
「それはないわよー。だって時空今嘘ついてるでしょー?」
「どうしてそう言えるんだ?」
「お母さんの勘。例え誰の目を誤魔化せても母さんの目は誤魔化せないよー」
こっちは相手が分からないのに相手には分かられているという現状──とてつもなくやりにくい。
「まぁ、それは置いておいて。お母さん、アリスを大人しく渡してくれないかな?」
「それではいどうぞ、って渡しちゃうんだったら、こうはなってないよねー」
「それはごもっともだね……」
言いながら、僕は頭を回転させる。
アリスの座る椅子までは大体十メートルといったところだろう。全力で瞬発力を発揮すればものの二秒も掛かるかどうかといったくらいか。だが、そこまでに妨害が入れば話は別である。母さんはまず妨害してくるだろう。それを掻い潜りアリスを救出して戻って来る……中々に不可能めいている。
ポーチの中には先ほど左肩から引き抜いたナイフに、フラッシュグレネードが一つ。母さんにナイフで襲いかかるというのはあまり取りたい手段ではないから、またフラッシュグレネードに頼るしかないだろう。先ほどは逃げるだけだったから成功したのだが、しかし今回は固定されたアリスを引き剥がし、取り戻す時間も考慮しなくてはならないのだ。難易度は格段に上がる。
(くそ……でもやるしかないか)
「じゃあ仕方ないけど、力尽くで取り返すことにする──」
「よ」に合わせて取り出そうとフラッシュグレネードに手を掛けたその時──
「おい、父さんに続いて母さんにも手を上げようとはずいぶんとまぁ非行少年になったもんじゃねぇか」
「親父!?」
最悪のタイミングだった。
いや、フラッシュグレネードを無駄にせずに済んだという意味ではまだ良かったのだろうか──否、よく見れば親父も特別製のコンタクトを既に着用している。どちらにせよもうフラッシュグレネードは打てない手になってしまった。
「あらー父さん。早かったのねー」
「母さん、案外危なかったんだぜ。恐らくそいつフラッシュグレネード使うつもりだったろうし」
「そうなのー、時空?」
「……」
もうそんな会話を平静を装って続けられる精神状況じゃなかった。
仕方のないことだとはいえ、フラッシュグレネードはもう少し温存しておくべきだったのだろう。こうして親父に対策を打つ時間を与えてしまった。
もう……取り得る手段はナイフでの戦闘と、あと──
「しょうがないな……シッ!!!!」
僕は母さんの方へナイフを手中に収めながら特攻する。
もうこうなればそれしか可能性はない。
(一瞬で母さんを人質にとり、そしてアリスを連れ帰る──!!)
だが、それも一瞬で挫かれる。
「ちょっと痛いかもねー」
母さんは一瞬で反応し、そして僕より数段勢いの乗ったステップで肉薄すると、僕の腹をぶん殴る。
辛うじて視認こそ出来たものの、到底回避が追いつくスピードではない。
だから僕は無防備に攻撃を受けるしかない。無抵抗に吹き飛ばされる他ない。
「かはっ」
肺の中の空気を無理やり押し出されるような猛烈な圧迫感──次いで鈍痛。
僕はなす術なく、格好悪く地面に転がされる──いや、これでは表現が流石に優しすぎるというか、見栄を張りすぎている。僕は母さんの掌打によって床ならぬ壁に叩きつけられた。
正しく砲弾のように、物理法則など無視されたのだと言わんばかりに。
「母さんの武術の才覚はお前だって知らないわけじゃなかろうに……」
痛みから生じる涙に滲む視界に親父がやれやれといった風情で溜息を吐くのが辛うじて映り込む。
僕だって分かっていた。しかしそれでもこれしか方法がなかった。万が一に賭けるしかないほど盤面は最悪で、そしてその賭けはこうして失敗してしまった。
(あぁ、とうとう来てしまったか)
内心で呟く。
けれど、それは終わりを受け入れる準備ではなく、そして絶望からでもない。
僕はようやく踏ん切りがついたのだ。まださっきですら決まっていなかった覚悟を決めたのだ。
さっき決めたのは、自分の命を賭ける覚悟。
そして今決めたのは────
──ぱぁん。
乾いた音。
それは親父が指を鳴らした音では勿論ない。
「え?」
というかその親父はまるであり得ないものを目にした時のような表情をして、膝から崩れ落ち、そして沈んだ。
どこに?
血溜まりに。
どさ。
ぴちゃり。
単純な二つの音が響き、そして親父の体は動かなくなった。
驚くほど呆気ない、形勢逆転で、落命だった。
「あぁ──あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
次いで響くのは母さんの悲鳴。
もしかすると母さんのこんな大きな声を聞いたのは初めてかもしれないな、と僕は他人事のように思った。
張本人なのに、だ。
僕の手には無骨な拳銃が握られていて、その先端からは白煙が漏れ出ている。
つまりは僕が決めた覚悟は、彼女のために人を──親をも殺す覚悟だった。