29 望まざる邂逅
──パチン!
突如として乾いた音が広場に響く。
そしてその途端、ナイフを持って迫っていた子供達はピタッと、まるで示し合わせていたかのごとく動きを止める。ナイフの先端は僕の鼻先から三ミリほどだろうか。まさに危機一髪。
しかしそれはただ九死に一生を得ただけであり、状況としてはむしろ最悪と言えた。
「よぉ、我が息子よ」
「親父……っ!」
指を鳴らして子供達の動きを止めた張本人は、そう、僕の親父──刻喰赤口なのだから。
その様子はいつもと違い、アリスの話をした時のように高圧的なものだ。表情は全身を包む革製のマントに隠れてしまっているが、辛うじて口元がニヤついていることだけは分かる。
それだけで親父が『牧場』の支配者である証拠としては十二分だった。
「それにしても案外早かったというか、来るべくしてというか……ともあれひとまずは褒めておこうか」
「そんな前置きはいらない。アリスはどこだ!」
だが親父はそんな僕の怒号を意に介すこともなく、静かに、それでいて怒気を孕んだ口調で、言う。
「時空、父さん言ったよな? アリスちゃんは帰したのか、帰していないなら早々に帰すべきだって。だけれど時空はそれを隠し通して──だからこうするしかなくなったんだよ」
「それは……」
「ま、それはともかくとしてだ。取り敢えずアリスちゃんの身柄は保護している。これから親の元に送り届けてやる予定でいる」
「ちょ、ちょっと待てよ! アリスの親って、だって……」
「あぁ、『農場』だが?」
はっきりと言った。それも表情を全く動かさず、事も無げに、堂々と!
(ふざけんなよ!)
血が沸騰しそうになるのを感じる。目が熱い。体が熱い。
「どういう……ことだよ……親父だって忘れたわけじゃないだろう? 夕暮のことを。それなのに……」
吐き出された声は、まるで自分の口から吐き出されたものと思えないほどに低い。
僕はどうやら、相当にキレているらしい。
「勿論だよ。忘れるわけがないだろう。お父さんを何歳だと思っているんだ?」
「じゃぁ!」
「だが、それがどうした?」
「それがどうしたって……てめぇ……何言ってるのか自分で分かってんのか?」
いつになく口調が乱暴になる。何を言ってるのか分かっているのか分からなくなっているのは案外僕かもしれない。だけれど、口は勝手に動く。
「夕暮が今どんな思いで過ごしてるか、親父なら知ってるはずだろう?」
だが、親父はもう一度さもどうでも良さそうに言い放った。
「だーかーら、それがなんだよ?」
「この野郎っ!!!!」
もう我慢の限界だった。これならいっそ親父は人間ではない何かだと言われた方がまだ納得出来る。こいつは人間じゃない。悪魔だ。本気でそう思って、飛びかかろうとした瞬間──
──ドンッ。
左肩がじんわりと熱い。そして目を遣る。
刺さっていたのはナイフで、刺していたのは子供達の中の一人。
人にナイフを突き刺しているというのに、その表情は変わらず、機械のよう。
「支配者、申し訳ありません。先走ってしまいました」
「あーまーしゃーねーな。これは時空がいきなり動き出したのが悪い」
「ぐっ……痛……」
「と、まぁこうして俺を襲うとその子達に刺されるって状況だ。お前にアリスちゃんは取り返せねぇよ。完全にチェックメイトってやつだ」
「はぁ……はぁ……」
もう、言い返そうにも舌も頭も回らなかった。
こんなに穏当で平和な日本という国に生きていて肩口を刃物に貫かれるという経験はそうないだろう。そんな不慣れな痛みは容易に僕から思考力と精神力を削る。
(痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!)
本気で、そんな馬鹿なことしか考えられない。本当に死ぬわけもないのだろうが、それでも純粋な「痛み」はそれだけで根源的な恐怖に訴えかける。
「まぁ、そうだな、ただこれからも夕暮とお前には普通に接してやるから。っつーか記憶は消させてもらうわけだから、これは夢だったってことで」
「親……父……」
こんなところで終わってしまうのだろうか。未だ霞みがかった頭の中で、アリスの笑顔が弾けて──
「あぁ、そうだ。僕は、これじゃあまた同じじゃないか」
呟く。
「そうだよ、こんなナイフごときに、止められてたまるもんかよ」
呟く。
そして、肩口に峰までずっぷりと刺さっていたナイフを思いっきり引き抜く。
筋繊維が押しのけられ、引き千切れる音。信じられないほどの出血。そして尾をひくようにしてナイフの先端からも紅い糸が引き──しかしもうそれでも怖くはなかった。痛くはあったけれど、左肩は上がらないけれど、それでも前を向けた。
親父は一瞬僕を目を丸くして見たけれど、すぐに仏頂面になる。
その一瞬、まるで案ずるような表情をしていたように思えたのはきっと、今まで形成されてきた親父との信頼関係の残骸のようなものからだろうか。
「馬鹿だな……死にたいのか、お前は」
「好きな子のために死ねるのなら本望かもしれない、そう思っただけだよ」
「なるべくなら殺したくない。無駄な流血は好きじゃないんだ。それも息子のなんて、仕事後のビールが不味くなる」
「案外血を流すのは親父の方かもしれない──ぜっ!」
言葉の最後の裂帛にあらん限りの思いを乗せ、僕は右手でナイフを親父に、不自由な左手でフラッシュグレネードを、出来る限り思い切りよく、痛みを無視して叩き付ける。
暴力的な光の花が咲き、部屋は一瞬にして黄色と白の光が乱舞する。
「きゃあ!」
「うわっ!」
至近距離でその光の洗礼を受けた子供たちは悲鳴を上げて、その場を転がり、「痛い痛い」と言いながら呻く。そして少し離れた親父も決して無関係な訳ではなく、「こんの、ガキ!」と叫びながら両手を見当違いな方に振り回している。どうやらナイフは当たらなかったようだが、フラッシュは届いたらしい。そういう風に作られた特別製である。
そして僕はと言えば──
「うまく……いった……」
これもまた特別製のコンタクトを用いてその激しいフラッシュを防御していたので、もう既に視界は回復していた。とはいえ、やはり完全にとはいかないようで少しばかりチカチカはしているけれど、この程度なら御の字だろう。
フラッシュグレネードもコンタクトレンズもどちらも仕事道具の一つである。本当に今日は仕事道具が大活躍だ。
しかし、その活躍も時間が経てば水泡に帰す。血の痕跡でバレないようにズボンを少しだけ切り、十秒で止血を済ませると、僕はアリスのいる部屋を探しに走り出した。