2 時間の泥棒
「昨日があの部屋だったから今日はここかっ、と」
午前三時とはいえ科学が発達してきた現代では真っ暗闇ということはない。防犯用であろう電灯が等間隔に並ぶことで夜道をそれなりに明るく照らしている。
風は凪いでいて、もしかすると肌寒いかもというくらいの気温に少しばかり秋の足音を感じて。
(そろそろ長ズボンにシフトする頃かな?)
場違いにもそんなことを考えながら、
「はぁ──ふぅ」
夜の空気を咀嚼するように口中に行き渡らせてから吐き出す僕は、今現在仁王立ちをしている。
どこにかって?
──マンションの五階。とはいえ足を着けているのは床ではなく壁、それも外壁だ。勿論命綱はある。僕は能力を持っているだけで別に皆が思い浮かべるような超能力者ではないのだから。
今日も今日とて《時間泥棒》をしなくてはならないがためにこうしてここまで屋根を渡り壁を伝って遠路はるばる──とまで大げさな話ではないにせよやって来たわけで、しかしもう幾度とも知れぬこのルーティーンは慣れたもの。ものの五秒足らずで窓の鍵を外から開けて部屋の住民が在宅であり、また寝ていることを気配で察知したなら靴を脱いで素早く侵入。
暗闇に目が順応するのを待ってから、物音はおろか呼吸にすら気を払って家の主の眠る布団まで歩を進める。とは言ってもマンションの一室にすぎないこの部屋は当たり前に狭いのでそれほど大した距離はないのだが。
「さてと」
僕にとって生命維持のための、いわば食事のようなものである《時間泥棒》にも、楽しみというものがある。そう、人間が食事に娯楽を見出すのと同じように。
まあ楽しみでも見つけなければやってられないというのが正しいのかもしれないけれど。
ともあれ。その楽しみはといえば──そう、寝顔拝見だ。
「……」
家主である大体二十歳くらいの女性の寝顔を無言で見つめる。
「なるほど……」
別に僕は寝顔フェチではないし、ましてや夜這いをするほどの甲斐性なんて当然のごとくにない。僕も年頃だから女性の方が嬉しいという感情は否定し切れないわけではあるが。それはひとまず置いておくとして。
ただ、寝ている人間の顔というものはなかなかに面白く──美しい。
寝ている時というのはもちろん意識がないわけだから、その時の人の顔はその人の素が出ているような──感情やら思考やら理性やらを差っ引いた何かが見られるような気がして。
そんなような理由で僕はバレる可能性を上げてまでこうして寝顔を拝見しているというわけだ。
しかしいつまでもこうしているわけにもいかない。これは楽しみではあるものの、目的ではないのだし。
「さて、それじゃあそろそろ始めようかな──時間の、泥棒を」
名残惜しさに蓋をするようにそう呟くと、瞑目する。
しかし、特に《時間泥棒》に特別な技も派手派手しい演出もない。『一時間対象と呼吸を合わせて過ごす』というひたすらに地味な一工程、それだけだ。
しかしこれが案外難しい。相手が合わせようとしてくれるならまだしも完全にこっちで合わせなくてはならないというこれを、しかも一時間。相当な技術と精神力を要するかは言わずもがなだろう。だからあんまこれ、好きじゃないんだよなぁ、疲れるし。
──そうして一時間後。
見た目に変化はないけれど《時間泥棒》は完了した。
体に寿命がさながら血液のように巡っていく感覚と、そして一週間分の膨大な情報がメモリに焼き付けられる際の不快感が僕にそれを伝える。
本当に地味な能力だ。もっとも派手なエフェクトが出てそれでバレてしまえば一発で牢屋行きなので文句の言いようもないのだが。
「よっこいしょ、と」
《時間泥棒》による疲労で重い腰をなんとか上げると、いつまでもこの部屋に居るわけにもいかないので最後にもう一度寝顔を確認して、そしてそそくさと命綱を再度腰にくくりつけて窓から外へ出る。
ようやく屋上に腰を落ち着けて腕時計を見てみれば時刻は四時十五分。学校の始業が八時半なので三時間くらいは眠れるだろうか。
そんなことを考えながら僕は屋上から屋内へ。一旦中に入ればマンションは中を移動出来るわけで、侵入に比べたら脱出は非常に楽で助かる。エレベーターで一階まで降りてもこの時間じゃ管理人は居ないので特に問題はないだろう。監視カメラはあるけれどそんなもの事件がなければ注目などされないだろうし。僕の《時間泥棒》は言うなれば窃盗だが、寿命が盗まれたことを確認する術はないだろうし、何より寿命を盗む・盗まれるだなんて概念は通常に生きていれば馴染みがあるわけないのだ。そう──僕みたいな生き方でもしていない限り。
−−−
そんな風にして十分くらい建物を飛び移って移動すればもう家に到着。奇異な異能を植え付けられた一族でも家は普通。本当にごく普通の一軒家だ。
「ただいま」
「あら、おかえり」
一足先に《時間泥棒》を終えたらしい母親から当然のように返事がある。耳を澄ませるまでもなく「トントントントン……」という音が聞こえるところから察するに明日の朝食か弁当を作っているのだろう。
まぁ取り立てて積もる話もないわけで。
「じゃ、少し寝てくるわ」
「りょうかーい。寝坊するんじゃないわよー」
「僕が寝坊したことが一度だってあった?」
のんびりとした母親の言葉に軽口を叩きつつ、にやりと笑って見せて僕は自分の部屋に戻り、ベットに潜り込む。隣の部屋から聞こえる煩わしい親父のイビキに一つ舌打ちをしてみたけれど、それで眠れなくなったわけでもない。
気が付くと僕は夢の世界へと堕ちていた。