28 油断
再度訪れた『牧場』は、先刻となんら変わらぬ状態で僕を迎える。
もう時間としては九時を回った頃。随分とここに来るまでに時間をかけてしまったが、果たしてアリスはまだ居るのだろうか。
もしこれで既にアリスがどこかに更に移送されていたとしたら先ほどの夕暮に対する失敗よりも取り返しがつかないわけで、自然心臓の鼓動は早くなる。今更ながらに時間のロスを感じるが、もうそれは過去のことで、どれだけ言ったところでどうしようもなく、栓無きことではあるのだが、それでも逸る気持ちを抑える術など有りようもなく。
ただ、とりあえず確認してみなければ始まらない──と、いうわけで。僕は「メモリースティック」が収容される升目上のスペースに囲まれるようにして「おもちゃ箱」へと伸びている一本の道を歩き出す。
虚空を見つめる少年少女に囲まれるというのは、相手がいかな境遇に置かれているのだと知っていても、生理的に決して心地よいものではなく、自然肌が粟立つのを感じるが、今はそんなことで歩みを止めている場合ではない。意図して意識から少年少女を切り離して、無心で歩を進める。
はてさて、その道は二百メートル程で、少し歩くともう「おもちゃ箱」の入り口の目の前だ。
扉は所々埋め込まれているランプが赤や青、緑、黄色に明滅しており、非常にメカメカしい作りになっていて、まるでゲームに出てくる研究室のようだ。場違いにも感心してしまうほどに、作り込まれている。
鉄鋼の、傷一つないその扉の横にはインターフォンと電子キーがあるわけだが、まさか電子キーなどを持っているべくもない。ましてやだからと言ってインターフォンを鳴らして入れてもらうなど論外だろう。だから、ここはまぁ僕の非合法な手口(詳細は割愛させていただこう)に依った訳だ。
こうして音もなくして扉を開くことが出来、中に入ると、室内は外装と打って変わってファンシーなものである。可愛らしい動物のカーベット、チューリップの壁紙、絵本、フラフープ、バランスボール、組み立て式の小さなプラスチックジャングルジム、滑り台……巨万とでも言えてしまいそうなスペースに、子供向けのおもちゃ諸々が程よく配置されている。
例えるならば保育園のアップグレード版、といったところか。
ただ、部屋に漂うなんとも言えない緊張感が、その前面に押し出された楽しさをなんとも不自然にしているのが印象的だ。今のこの状態も相まってそう感じてしまっているのかもしれない、と思わなくもないが、それにしたってどうにもきな臭い。
ただ、総じて、この世界が全てならばあるいは違和感なく育つことが出来るのだろうな、と僕はアリスに関してそう思う。物心付く頃からここに居たなら緊張感はありふれたものだろうし、それを差し引いてしまえばここはただの広い遊び場といった風情なのだから。
そしてアリスがそうであるのだということは、きっとここで遊んでいる子供達もそうなのだろう。
「あはは、見てよ! 俺バランスボール座れるんだぜ!」
「ねぇねぇ、折り紙しようよ」
「もう! クレヨン返して!」
部屋中に溢れる歓声は、まるでここで何が起きているのかなんてまるで知らないかのようで──否、現実に知らないのだろう。拉致されてきた、という現実に反するように楽しそうなものだ。そこは、僕が決心をして、しかも音に気を配って侵入してきたのが馬鹿馬鹿しくなるほどに活気に満ちていて、気が抜けてしまいそうになる。
やがて、僕の侵入に一人の少年──というにも幼い、男の子が気付いたようで、声をかけてくる。
「あれ? お客さん? 新しいお友達?」
興味津々、といったような男の子に続くようにして次々と子供達は集まり、ちょっとした人だかりが出来る。注目に慣れない僕にとっては居心地の悪いことこの上ないのだが、だがここで逃げ出してはそれこそ怪しまれよう。
「うん、まぁ、そんなところかな」
「そうなの!? じゃあ私たちと遊ぼうよ!」
今度は男の子の隣に居る女の子。勝気な瞳がアリスと少し似ているような気がする。
ともあれ、僕の今日の目的は子供達と遊んでやることではなく、またここで時間をかけ過ぎてしまえば侵入がバレてしまう可能性も自ずと上がるわけで。だから、子供達には悪いが、少し話の展開を急がせてもらおう。
「ごめん、今日はお兄ちゃん遊びに来たんじゃないんだ。実は女の子を迎えに来たんだけど……」
と、その瞬間、子供達の目つきが変わる。
──ぞくっ。
その目つきには先ほどまでの無邪気さは感じられず、鳥肌が立つ。
まるで、「メモリースティック」に囲まれた道を歩いた時のように。
「それって、アリスのことかな?」
「そう……だけど……」
「そうか、それじゃあ……僕たちと──遊んでからね!」
話し掛けてきた男の子が僕に向かってナイフを振るう──いや、ナイフを振るっているのはその男の子だけではなく、集まっていた二十人弱の子供達のその全て!
「しまっ────」
僕は気付いた。
農場に居る子供達が全て被害者なのだというのは、ただの思い込みでしかなかったのだと。
いや、それは少し違うか。
被害者が必ずしも加害者になり得ないわけではない、むしろ被害者は不安定な分加害者にもなりやすいのだという事実。これを僕は理解していなかったのだ。
そして子供という生き物は無邪気さと残酷さを兼ね備えているものなのだということも。
ただ、気付いたのが遅すぎたとしか言いようがない。
ナイフはもう既に眼前。
迫り来る危機を前に、次第に時間の流れはスローモーションになり────
──音が、響く。