27 トラウマ
親父と母さんの寝室は家の中でいわば絶対領域というか、不可侵な部屋とされていたきらいがある。
引っ越してきた時から僕も夕暮も寝室には入るなと言い含められており、だからそれに従って実は一度も立ち入ったことがなかったりする。
両親は常に働きに出ているため、知的好奇心やら悪戯心から部屋に入る──というようなことが起きても不思議ではなかったのではあるが、それでもそのようなことが一回も起きていないのは、もしかするとこうなることをどこか予見してのことだったのかもしれないし、ただ単に偶然の産物なのかもしれないが、どちらにせよ奇跡的な確率なのかもしれない。
あるいは──不自然、とも。
しかし、夕暮を引き連れて入ったその部屋は別段おかしなところなど何一つとしてなく、平凡でありふれたものだった。
大きなベッド、本棚、ランプ、机……落ち着いた風情を損なわない程度の装飾はあれど、個性のない、そんな部屋。
でも、ただ一つ驚くべきことがあった。有り得ないことが、あった。
どう考えても、GPS機能で表示される部屋より、現実の部屋は狭いのだ。それは誤差の範疇だと流せるほどのものではなく、無論、この状況に至ってそれを疑わない道理もない。それに、アリスのケータイの反応があるのはその所謂「有り得ない空間」の中なのだから。
よもや壁の中にケータイが埋まっているなんてこともあるまいし。
不可思議であり、不審。
平凡さの中に満ちる異常が、なんというか……有り体に表現するなら気持ち悪い。
「どういうことなんだよ」
忌々しげに呟くと、夕暮も僕の手元にあるケータイに表示された地図を見て理解したようだ。
そして不審そうな雰囲気を醸し出しはしたものの、茶化すように
「漫画とか小説だったらこういう時って隠し扉とかがあるものだよね。例えばほら、本を押し込んでみたりすると本棚が二つに割れて開くとかさ」
「こんなふうに」と言いながら適当に一冊の本を軽く押すと、
──ガガガ、ガ。
本当に空いたんだけど……。
空いたスペースの先は一見ただの暗闇なのだけれど、よく目を凝らすとどうやら階段のようだ。
石造りの無骨な階段が、下へ続いていた。さながら、僕たちを地獄へ誘うかのごとく。
隠し扉に──隠し階段。
それこそまるで漫画のようで、現実感を損なった光景である。
「嘘……だろ……」
あまりにあんまりな現状に間が抜けたことにあんぐりと口を開いて夕暮を見ると、夕暮もまさか本当に開くとは、みたいな風情で口に手を当てている。
他の本も試しに押してみるが、一ミリたりと奥に押し込むことは出来ない。
膨大な本の中から唯一スイッチを見つけ出す才覚……我が妹ながら末恐ろしい。
ともあれ、そうして見つかったならば是非も無い。
一つ咳払いをして、もう一度夕暮と顔を見合わせて僕たちは暗闇へと。
「にしても暗いな」
「うん、ケータイのライトを消したなら完全に真っ暗よね」
「あぁ……って面白がってライト消したりしないよね、夕暮さん?」
「はぁ……ライト持ってるの兄さんじゃない。流石の私でも持っていないケータイのライトを消すなんて出来ないわよ。まさか……ねぇ?」
「何その意味深で邪悪な笑み!?」
到底状況に沿った会話とは言えないけれど、緊張してはち切れそうな心をどうにか保つためには無理にでも明るい会話を続けている必要があった。
そうして下らない会話を続けていると、ようやく暗闇に光が差し込んできた。
僕はライトをそっと消して、流石に妹も口を閉ざす。
実は階段を下る度に感じてはいたのだが──匂いが、濃くなっている。
紛れもない《時間泥棒》の匂い──『牧場』の、匂い。
最後の一段。
今まで感じたことのない程の濃さのその匂いは否応なしに僕の胃を締め上げる。
不快すぎて、吐きそうだった。ふと、《時間泥棒》による記憶の暴走の片鱗を垣間見た時を思い出す。
「よし、行くか」
「うん」
ようやく決心をつけて、僕と夕暮は最後の一段を降りた。
「眩し……」
「んん……」
激しい光に一瞬目が眩み、一瞬視界が真っ白に閉ざされる。
が、しかしそれはそうやら今までの階段が暗すぎてこのフロアの光が眩しく見えただけのようで、十秒もして目が慣れるとそれほどの光でもなかったのだと気が付く。
そして光に目が慣れるということは、『牧場』の景色にようやく意識が行くということで。
地面に敷く詰められた緑──どうやら本物の芝生のようで、青々と生命を周囲に見せつけるかのようにしている。しかしてそこに突き立つのは木製の柵。その柵は広大な緑の空間を碁盤の目のように区切っており、それだけを見たなら『牧場』というのが比喩ではなくそのものなのだ。
が。そこに圧倒的な違和感とともに屹立するのは、大きな鉄の塊。
ウエスタンスタイルの小屋と比べるべくもないほど巨大で特異なその鉄塊──一般に「おもちゃ箱」と呼ばれる研究室が、堂々と最奥に座していた。その大きさはドーム一個分は優にあるだろうか。アリスは最近自分の生まれ育った場所が『農場』だと気付いたというのだから、きっとこの中で暮らしていたのだろうと予想する。
更に言うなら、これは大変に『牧場』らしいと言えばそうなのかもしれないが、碁盤の目のように区切られた四畳ほどのスペースにはそれぞれ目が虚ろに虚空を見つめている、『メモリースティック』と呼ばれる少年少女達がそれぞれ二人ずつ入れられている。ほんの少しだが夕暮と似た雰囲気を感じるのは果たして僕の思い違いだろうか。
人権も何もあったものではない──見ただけで泣いてしまいそうになるほどにそれは凄惨な光景に思えた。
そして右隣からは実際に啜り泣く声が──
「夕暮!?」
ここで僕は自らが如何に愚かであるかを悟る。
僕ですらここまで衝撃を受けた光景だ。そこで暮らしていた夕暮はその内部を知っているのだし、見てしまえばトラウマがフラッシュバックしてしまうだろうということは、少し考えれば分かることだろうに。
夕暮は、無表情のまま泣いていた。
目は虚ろに、虚空を見つめ──そう、まるで『メモリースティック』の少年少女と同じように。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい────」
「夕……暮……」
「許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して────」
夕暮が如何な扱いを受けていたか、トラウマを抱いていたかが痛いほどに伝わる、それは必死な懇願だった。
否、分かった気になっては、いけないのだろう。
分かっていなかったから、僕はこうして夕暮を傷付けてしまったのだから。
アリスのことで頭が一杯だったという言い訳で逃れられないほどにそれは取り返しのつかない失敗だった。
僕はきっと心のどこかで夕暮はもう克服したのだと、乗り越えたのだと勘違いしていたのかもしれない。
夕暮が綺羅だった時だって母親が死んで涙一つ見せなかった。そして『農場』から救出された時だって泣くことはなかった。
だから強いんだって、夕暮は取り乱さないだって?
あぁ、本当に僕は大馬鹿ものだ。
夕暮は無表情であっても無感情ではなく、無感動でもない──そう理解していたのに、それを軽んじた、その結果がこれだ。
ならばきっとこれは起こるべくして起きた失敗なのだろう。
「助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて──」
「一回、帰ろう」
──パシッ。
尚も哀願し続ける夕暮に、手を差し伸べてそう言うと、その手は強く振り払われる。
「帰ろう」
──パシッ。
もう一度──同じ結果。
もう一度──同じ結果。
虚ろなようでいて、その力はおよそ薄弱なそれではなく。
さながら、愚かしい僕への罰のようだった。
十回ほどそれを繰り返した後には僕の右手は赤く腫れ上がっていて、最早痛み以外の感覚は無くなっていた。
兄貴失格の烙印を、刻み込まれたような、そんな気がした。
「ごめん、ごめんな、夕暮……」
溢れた涙は、痛みからか、あるいは不甲斐なさからか。
だけれど、ここでまさか夕暮を諦めて、放置して先に進む訳にもいくまい。それこそ最低で、兄貴失格どころか、人間失格だ。
僕は抵抗する夕暮を仕事道具の一つたるロープで背中に固定して、元来た道を、暗い階段を引き返す。
「待ってろ、今お兄ちゃんが助けてやるから」
「嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ──やめて!!!!」
抵抗して、何故だか『農場』の方に手を伸ばす夕暮。
それを無視して僕は階段を駆け上がった。
その途中何度夕暮は僕の首筋を引っ掻き、何本髪の毛を引き千切ったのか。それは数え切れないほど、と言う他なく、両親の寝室に戻る頃には、僕の首筋と夕暮の掌は紅く濡れていた。
信じられないほど痛い。だけれど、夕暮に与えてしまった痛みよりは遥かに楽だろう。
ロープを解き、傷の手当てをする頃には夕暮は落ち着きを取り戻したようで、
「ごめん……なさい」
落ち込んでいる、ようだ。
「『農場』を見た途端急に目の前が真っ白になって、それで……そこから記憶がないの。分からない。気が付いたら階段をおぶられて登っていて、それでお兄ちゃんは血で真っ赤だし、私の手も血でビショビショだし……。分からない……分からないよ……だって私は克服したはずなのに……なのにこれじゃあ、これじゃあ」
「私がまるで可哀想な子じゃない」と、そう呟いた。
「『牧場』に負けたみたいじゃない」とも。
そしてまた「ごめんなさい、ごめんなさい」と呟き始める。呟き続ける。今度は虚ろではなく、痛いほどに感情を乗せて。悪いのは、夕暮ではないのに。
「いや、悪いのは僕だよ。配慮が足りなかったと言う他ない。そりゃ誰だってそれだけのことをされたら心に深く傷を負って当然だっていうのに」
「僕はそれを軽んじた」そう言葉を繋ぐ前に、夕暮は静かに僕の言葉を遮って。またしても、言う。
「それじゃだめなの。それじゃ……だめなの。気遣われちゃったら、私、可哀想になっちゃう」
平坦なその声は、しかし不思議なほどによく通った。
それは激情そのものだった。
夕暮は無表情ではあれど、無感情でなく、無感動でもない。むしろ、表情と声にそれを表せない分、より一層内面では感情が荒ぶっていて──だけれど。それを弱音として吐き出さないことが彼女の矜持なのだ。それは表情を失う前の、綺羅ですら同じことで、彼女は明るく振舞って幸福を体現しているようだったけれど、だからこそ負の感情を自分一人で背負いこんでいた。
僕はそれに今まで気付いてやれなかった。
それはもう取り返すことの出来ないものであるし、帳消しにしてはならないのだと思う。
じゃあ、今出来ることはなんだ。僕に、今出来ること。今しか出来ないこと。兄貴としてしてやれることは何があるのだろう。
「可哀想なんかじゃ……ないよ。夕暮は可哀想なんかじゃない。夕暮は誰より頑張ってて、誰より気遣ってて、優しくて、強いんだ。誇っていい。それは、僕が保証する」
今まで夕暮はきっと自分を責め続けていたのだろう。自分が周りに迷惑をかけているのだと思い込んで、否定していたのだろう。
ならば、僕は肯定してやらなければならない。
だけれど、そこで僕は終わらせない。僕がしてやらなければならないのは、無責任な肯定ではないのだから。
「だけれどね、夕暮。そんなに気遣わなくてもいいんだ。そんなに優しくなくていいんだ。そんなに強くなくていいんだ。そりゃあ夕暮がいつも僕のことを慮って強くあろうと、迷惑をかけまいとしていることは分かってるさ──いや、ごめん、それは少し見栄を張った。ようやく分かったんだ、この愚鈍な兄貴は。けれどね、そんなに思い詰めなくたっていい。そんなに傷付かなくたっていい。夕暮は頑張って来たんだから。だから、今度からはその苦しみを僕にくれよ。重い荷物があるのならば僕が全部背負ってやる。預けてくれ。だってさ、家族なんだ。頼っていいんだよ」
僕は言った。
無責任で、無遠慮で、無配慮で夕暮を傷つけた僕は言った。
本来ならば、というかアニメとかならば「一緒に背負ってやる」とでも言うのだろうけれど、僕が言ったのは全てを引き受けること。請け負うこと。
そうでもしなければ夕暮は僕に甘え切れないだろうから。
そして、僕も償いきれない。
安心すら当然とするほどの、耽溺してしまうほどの甘やかし。
それは兄貴の特権だろう──良くも悪くも。
「でも……」
「大丈夫、お兄ちゃんに全部任せておけって。全部が全部、遍く僕が解決してきてやる。だから夕暮は安心して部屋で待っててくれ」
しばらく呆然としていた夕暮ではあったが、畳み掛けるような僕の口調に押されるようにしてではあったものの、こくん、と。確かに頷いた。
多分、これが初めてだ。夕暮が僕に甘えてくれたのが。
だからこそ、それに応えなければならない。兄貴なのだから。
夕暮を部屋に送り届ける。
「頑張って」
そう言う夕暮はきっと表情があったなら微笑んでいたに違いない。
僕は深呼吸をして、もう一度仕事道具を持って、そして最後に重い鉄の塊を一つポーチに入れると、再度あの階段を下る。
兄貴としての責務を果たすべく。
そしてアリスを救うべく。