23 雨降って地固まる
「女心と秋の空」
そんな言葉にも表されるように、女心というものはとかく移ろいやすく、予測し難いものであるのだから、男である僕には結局のところ完全に彼女の内心を知ることは不可能なのだ。
──否。
それは相手が女子であるからというわけでもなく、人の心を完全に一分の隙もなく理解するということはどうあっても不可能なのだろう。
理解しているつもりでも、それは幻想に過ぎない。
人間にはそれぞれ思想があり、環境があり、理念があり、価値観があり、倫理観があるのだから。
だから僕は彼女のことを理解している──といった傲慢を主張するつもりは全くと言っていいほどないのだが、しかし相手のことを理解したいと欲するのもまた人間で。
無干渉に無関係に生きていくなんてこともまた、人間に出来るはずもない。
そうでなければ人生は感動的になり得ないのだから。
人と人が出会わなければ物語が始まらないように、人と人とが無理解を貫いてしまえば人生は成立しない──のだろう。
閑話休題。
話を本筋に戻そう。
兎にも角にも。
僕は今日、とうとう強引にでもアリスと話をしようと目論んでいる。いかにアリスの内心が窺い知れないとは言っても、実際的にしなければいけない話がというものがあるのだ。
あの日の夜──何度回想したとも知れないあの印象深い夜の最終的な着地点として、僕はアリスに「僕とアリスで『農場』をどうにかしよう」と言ったのだったが、だが、幾ら僕が『農場』に多少なりと知識を得ているとは言ってもそれだけでは『農場』をどうにかするために何をすべきかというところまではどうしようもない。
いや、こんなどうしようもない状態でアリスに「なんとかしよう」と言ってしまったのはその場の雰囲気も手伝ったことだとはいえ汗顔の至りではあるのだけれど、それにいつまでグチグチ言っていたって仕方がなかろう。
だからそろそろその言葉を嘘にしてしまわぬようアリスと今一度意見の擦り合わせをしなくてはと思っての行動な訳だ。……そりゃぁ、そういう口実でアリスと会話をしたいという気持ちもゼロではないけれど。
ともあれ。そういった理由で家に帰ってきてから、僕は是が非でもアリスに話し掛けようと意気込んで帰宅したのだ。
しかし。
家に帰ってもアリスは居なかった。部屋に入ってみて音すらしなかったところでもしや、とは思ったのだけれど、押入れを勢い良く開いてみてもそこにあったのは敷きっぱなしの布団とアリスが持ってきた少ない所持品の入ったリュックサックのみ。
不用心この上ない──が、一応ここは前向きに、僕に対する信頼ととっておこう。
アリスがいつも寝ている布団──興味を全くそそらないわけではないが、いや、興味津々ではあるのだが、ここで匂いでも嗅いでいるところを誰かに見られた場合、確実に死ぬ。
具体的には、アリスに見つかったら初恋が死に、夕暮に見つかれば兄貴としての尊厳が死ぬ。
もっとも、後者は既に無いにも等しいのかもしれないのだけれど。
そんなわけで、決して一筋縄ではない懊悩との葛藤を一瞬してしまってから、僕は呟いた。
「はて、どうしよう」
アリスは大抵いつも家に帰れば部屋でテレビを見ているか、あるいは部屋にある本を適当に読んで出迎えてくれているので、これは実は初めてのケースだったりする。
だからこの場合アリスが何処に居るかなんて皆目見当も付かない。でもだからといって何もせずにここで適当にくつろいで待っいるというのもなんだか能動性に欠ける話だし、何よりアリスはもしかしなくても狙われる立場だろう。
──と、そこまで思い至って。
「……っ! もしかして!」
(もう『牧場』のやつらに嗅ぎつけられて、攫われた!?)
言うが早いか、思考するが早いか。
僕は急いで外へ駆け出した。
だが、それでも気が付くのが遅すぎた。
(どうしてもっと早くこの可能性を考慮していなかった!? これじゃああの時と)
──同じじゃないか!
あの日もそうだった。夕暮が攫われた日。
僕は全く攫われていることにすら気付かず──気付いていたところで結末が変わっていたとは限らないが──それで後悔したってのに! 後悔してるってのに!
しかも今回は更に悪い。
事前にアリスが『農場』から抜け出してきていたことを聞いていて、それで僕を頼ってきていたことを知っていたのに。それでアリスを放ったらかしにして何が「なんとかしよう」だ。反吐が出る。
「くそ! くそ!」
地面を蹴る力を更に強くして、加速。
それはもうヤケクソとすら形容出来てしまうほどの無策な走りで、ものの一分も持たないだろう。
しかし、どうやらそれで十分だった。
町中を虱潰しに走破するまでもなく、アリスは居たのだから。
彼女が居たのは、家から学校へ行く時に通る、最初の交差点。
無作為に走っていたものだから、直線距離としてはそこまでではないにしても、そこに至るまでに五分は要しただろうか。灯台下暗しというやつだ。
アリスはただただそこでぼうっとして、立っていた。緑色のワンピースを残暑による湿気を帯びた熱風がはためかせ、亜麻色の髪もそれに合わせるようにして揺れている──が、だが。アリスは透明だった。
彼女は本当はそこに居ないがごとく色彩を失っている──そういう風に見える。
よく見れば車の通りも普段からは考えられないことに皆無で──少ないのではなく、絶無で。
季節外れの雪、はどうやら降っていないが。
まるでアリスと初めて出会った日の再現のようだった。
ただ、一つ大きく違うところといえば
「やっと……見つけた……」
そのセリフを言ったのが彼女ではなく僕だったということ。あの時のアリスの勝気な元気さには到底及ばない笑顔で僕はそう言った。
幾ら五分とはいえ、ずっと走っていたのだし、最後に至っては全力疾走。そりゃあ疲れもするさ。ただ、それよりも安堵の方が強い。
一方、アリスはと言えば。
「ど、どうしたの!? そんなに息切らして。ほら、ハンカチ。汗拭きなさいよ」
「ああ、ありがとう。いやぁ、アリスが居ないもんだから、焦っちゃって」
「もう、ただ散歩してただけじゃない。どんだけ寂しがりやなんだか」
「いや、アリスがもしかしたら『牧場』に攫われちゃったんじゃないかと思ったらさ」
そこでようやくアリスは自分のとった行動が軽率だったかに気付いたようで、表情を引き締める。
きっと聡いアリスのことだ。僕が妹のことを思い出してこうも必死になっているということに思い至ったのだろう。
硬い表情のまま深い溜息を吐いて、観念するように、あるいは白状するように。
「ごめん……そんなことまで頭が回ってなかった……ここ最近、なんか頭がいっぱいいっぱいで、それでジックとも上手く話せなくて……それで……それで……」
「いや、大丈夫だよ。全く気にしてないよ」
嘘を吐いた。
本当はこれ以上ないほどに混乱して、普段絶対に相談しないやつらに相談するほどだったというのに。
ただまぁ、これは言うなれば男の意地みたいなものだ。あるいは矜持だろうか。
ともあれ、僕はそう強がってから、安心させるためになるべく自然に微笑んだ。
「それにしても、アリスが無事でよかったよ。じゃあ、帰ろっか」
「うん。帰りましょ」
僕たちは二人並んで、それぞれの歩幅で家路に着いた。