22 好意と罪悪感
僕の内心に多少の変化が感じられるようになったのと同様に(あそこまでいじられては流石に翌日から挨拶はしなくなったのだが)、アリスも少し変わったような気がする。
具体的には少しよそよそしくなったような……あれ?
確か僕たちはあの日確実に内心を晒し合って距離が縮まったはずなのだが。信頼関係がより強固なものになったはずなのだが!
例えば昨日の夜──水曜日のことだ。
「アリス、まだ親父たち帰ってきてないし今のうちに風呂入って来なよ」
「え……え、あぁ、そそうね。じゃあいただくとするわ」
そして風呂を上がって、いつもならば寝る前に少し取り留めのない会話をするというのが恒例になっていたのだけれど、
「ごめんね、今日もちょっと疲れちゃっててもう寝かせてもらうわ」
「あ、うん……わかった。最近毎日疲れちゃってみたいなこと言ってるけど大丈夫? 風邪薬とか飲む?」
「いや、全然全然そんなんじゃないの。体調が悪いって言っても寝不足だけみたいなものだし」
(十時に寝てて寝不足か……)
と、思わなくもなかったけれど何かを言おうとした時にはもう既に押入れの扉は締め切られていて、さながら明確な拒絶の意思のようだった。
そう、ここ三日まともに会話が交わせていないのだ。
話しかけてもどこか慌てたようにしてどもってしまうだけだし、しかもそもそも話す機会そのものを設けることを避けれられている。月曜日の時点では昨日泣き顔見られたのが恥ずかしかったのかな、とか体調が悪いのかなとも考えたものだったが、どうやらそのどちらでもなさそうだ。まぁ明確な根拠がないから断定は出来ないところではあるのだが。
ともあれ、なんらかの理由をもってして避けられているのだろうが、その理由に皆目見当が付かないというのが現状である。
そんなこんなで学業に身が入るわけもなく(元々ゼロに等しい集中力が完全にゼロになったような意味合いで)、いつにも増してぼうっと過ごしていると、いつものように絡んでくるのはけたたましい声。
「ジックーよーす! 今日も授業終わったなー……ってなんか元気なさそうだけど大丈夫かよ。具体的にはいつもの二割り増しくらい」
「いつも元気ないからあんま変わらない気も……いや、冗談よ? 本当に大丈夫?」
本当に物好きな奴らだと思う。なんだってこんな暗い雰囲気を纏ってるやつに話し掛けてきてくれるんだか。以前は鬱陶しいばかりだったけれど、最近は少し感謝ではないけれど見上げるものがあるとは思う。
だからかもしれない。僕は月曜日に不覚にも挨拶をしてしまったように、またしても気まぐれを起こしたのだった。
「あのさ……漫画でよくある異性との距離が近付いたと思ったら翌日から冷たくされるっていう描写ってあるじゃん? あれってさ、現実だとどういう意味なんだろうな。いや、別に僕がどうとかじゃなくて、漫画を読んでいてふと思っただけなんだけど」
どれだけ嘘吐くの苦手なんだよ、と自分でも思ってしまう程のどもり方と捲し立てるような早口に、二人は呆気にとられたように顔を見合わせて、しかしそれでも真剣に考えてくれるようだ。普段おちゃらけているように見えて要所要所はきっちりと押さえている──それこそが二人が周囲に奇人と見做されつつも、軽蔑されるどころかむしろ尊敬される立ち位置である所以なのかな、と益体もなく考えてしまう。考えたところでどうにもならないものが人間関係というものではあるのだとしても。
江は人差し指と親指で顎を挟むようなポージング──通称「考える人ポーズ」でしばし唸ってから、
「それってただの照れ隠しなんじゃないのか? いや俺はさほど漫画とかを嗜むクチではないから創造物の上でどう描かれているのかというのに関してはまるっきり門外漢ではあるんだけどよ」
それに彩も同調するように、
「私はそれこそ少女漫画とか割と好きな方だけど、そっちの世界ではやっぱり江の言う解釈が一般的だよね。だから私もそれに概ね同意ってところかな。まぁでも、現実っていうのはやっぱり例外が付き物だから、それこそその現場を見ていないで判断するのは難しいところではあるんだけど。その上でもう一つ可能性として一つ示唆するとしたら、後ろめたいこととか隠し事があるっていうのもワンチャンあるとは思うよ」
「照れ隠しに罪悪感、か」
「そうそう。まあとどのつまり直前にあった何らかが影響しているってのは創作物にしろ現実にしろ同じことだとはおもうけどね」
ふうむ、思い当たる節と言えば、確かにあの日の夜のことなのだろうけれど。
しかしそれでアリスが自分に惚れたのだと単純に考えてしまうのはいささか牽強付会──とまでは言わないにしてもご都合主義の自分本位な思考ではなかろうか。いや、確かに思考の中でその解釈が出たのは一度では無かったのだけれど、でも男というのは悲しい生き物であり、それで勘違いしてしまって呆気なく振られるというのはよく聞く話だ。
だからこうして客観的な第三者の意見を聞いてみようと、珍しく思った訳である。
しかしそこでもう一つ提示された可能性──罪悪感。
あの夜僕ら二人は胸襟を開いて、腹を割って話合ったのだからその中に嘘はないはずで──というか嘘があっただなんて思いたくないじゃないか。それこそ信頼関係だ。
だから隠し事という線は意図的に排除することにして、でも確かに後ろめたさというのはあるのかもしれない。
彼女にとって内心を吐露するという行為はそれこそ初めての経験だろうし、もしかすると自分の荷物を他人に押し付けてしまったと考えてしまったというのは想定し得る範囲内だ。依存に対する罪悪感──とでも言おうか。それももっともらしく合点出来そうな可能性ではある。
「むう……成る程ね」
「で、時に時空君よ。聞きたいことがあるんだが。というか本来なら真っ先に聞いておくべきだろうことを俺らはまだ済ませていないんだよ」
「うん? なんだい」
「だからさ、その『異性』とやらは具体的に誰なんだよ? ええ? 案外お前も隅に置けないところがあるじゃあないか」
「いや、だから最初にも言ったけど」
「漫画の中での話だ、って? いいや、お前のあの真剣な悩みようはそんな様子じゃなかった。それにこの話をしてから憑き物が取れたような顔になってやがるんだからこんなに分かりやすいこともあるまいよ」
そんなに僕の表情は読み取りやすかっただろうか? いやはやまあ確かに二人に心配される程度には、江の言に則るなら二割増しでいつもより暗かったのだろうが、しかし憑き物が取れたようにってそんなに僕はこのことを気に病んでいたのか。
妙なところで僕の心の中のアリスが占める割合の大きさを実感してしまった。
かといって認めてしまえばそれこそ弄る絶好の材料となってしまう訳だから否定せざるを得ないのだけれど。
「いやいや、それは穿った目で僕を見過ぎだって」
「そんなことはないと、私も思うけどなー」
「だろ?」
こいつらに相談してしまったのは間違いだったか、と我ながら薄情に前言撤回ならぬ前考撤回をしてみたりして。
「ま、ジックがそう言うならそう──ってことにしとくかな。ま、ともあれ恋をするってのは素敵なことだし応援してるよ」
「うんうん、まだまだ青いねぇ」
こいつらだって付き合い始めてまだ一年とちょっとだろうに、と声高に主張したいところではあったのだが、ここでそんなことをしたってなんの利も生まれない。生まれるとしたら害だけだ。
それに有意義なアドバイスを貰えたことは確かなのだし。
それにしたって。
(理由に見当が付いたとはいえ、これからどうしたものか……)
果たして、どうすれば以前のように自然に会話ができるのだろうということに関しては全く目星がついていないのだ。
それも二人に聞いておけば、とも思ったがここで聞くのもそれこそ弄るきっかけを増やしてしまうような気はしたし、甘え過ぎな気もする。
これもまた依存に対する罪悪感──なのだろうか。
まぁ──レトリックにしか過ぎない戯言なのだろうけれど。