19 綺羅めく夕暮
妹の──刻喰夕暮の、話をしよう。
まず最初に、僕と夕暮は血が繋がった兄妹ではないというところからか。
いや、別にそれで恋愛感情を持っているだとか近親相姦が可能であるとか、結婚が出来るだとかそんな話がしたいのではない。勿論僕にそんなつもりはない。妹はあくまでも妹として可愛いのであってそういった対象として見られるのは創作物の中だけなのだ。実際に妹か姉をお持ちの方なら分かってくれることだろうが。
脱線してしまったので話を戻そうか。
これからの話の方筋というのはつまり、どのように僕たちが兄妹になり、彼女が刻喰夕暮となったかという話である。
−−−
刻喰家は二度の引越しをしている。
一度は僕が生まれる直前、そして二度目は僕が中学三年生、つまり十四歳の頃。
一度目はどうやら親父が、母さんの妊娠が嬉しすぎたあまりに先走って一軒家を買ってしまったからだそうだが、二度目はある意味仕方なく、というかそうせざるを得なかったという側面の方が強い。
三年前、事件は起きたのだった。
僕と夕暮が初めて出会ったのは三年前──の更に四年前、つまりは僕が十歳で夕暮が八歳の頃だった。最早懐かしさすら感じるほど昔に感じてしまう。時の流れというのはかくも残酷なものだ、なんてまだ齢十七のガキが言っても戯言のようだけれど。
ともあれ、三年前の四年前──つまり七年前に夕暮は隣の家に越してきたのだった。
「あたしね! 亥巳綺羅っていうの! お兄ちゃんはなんていう名前なのなの? じくー? 面白い名前だね! 苗字は? とくはみ? へー、珍しいね! よろしくのしくだよ!」
亥巳綺羅──その当時はまだ刻喰家ではなかった妹だからこのような別の名前を名乗っていたのだが、なんというか、もう……べらぼうに明るかった。少し騒がしいほどに。そしてwith smile。それはもうはち切れんばかりだ。
今だったら正直付き合い切れるかどうか微妙なのだが、しかしその当時は僕もまだフレッシュな少年であったものだから、それこそ同じようなテンションで仲良くしていた……はず。どうもそこら辺記憶が曖昧だ。
ただ、確かに記憶に残っているのは──あるいは記録に残っているのは、その頃の妹には確かに母親が居たということ。刻喰廻ではなく、本当に血の繋がった直系の母親が。(ちなみに妹の父はもう既に他界していた)
じゃあ何故その記憶だけは鮮明なのかと言えば、現金なこと極まりないのだけれど「優しくされたから」ということになるだろう。
妹が──その頃はまだ妹ではないのだから綺羅としておこうか──綺羅が越してきてからというもの、僕と綺羅はお互いの家をよく行き来していた。
僕の父と母は言わずもがな、綺羅の母も極めて大らかな性格であったものだから、もうそれは最早習慣のようになってしまって、どちらがどちらの家の子なのかすら分からなくなるほどだった。いや、まあそれは冗談として。
それにしても、それほどまでに綺羅の家は居心地が良かったことを覚えている。
でも、それほどまでに入り浸っていたものだから、綺羅のお母さんがある日突然死んでしまった時には枯れるほど泣いたものだった。
その時綺羅は十歳で、それこそ《時間泥棒》が発現したばかりで、不安だったろうに、しかしその瞳には涙が浮かんでいなかったのが印象的だった。
齢十にして天涯孤独──その事実が重すぎて感情が追いついていなかっただけなのかもしれないけれど。
綺羅はただ、
「またか」
とだけ言って、次の瞬間には微笑すら浮かべていた。
幸い、綺羅のお母さんは死期をある程度悟っていたのか、多額のお金だけは用意していたようで、だからまだしばらくはあの広い一軒家に一人で住み続けることは出来たのだが、しかしそれはあくまでも不幸中の幸いでしかなく、そして幸いは本当にそれだけ。ただ一つで唯一でしかない。
不幸は、連鎖する──何かのキャッチコピーのようだけれど、だがその当時の綺羅を正確に表す言葉にこれ以上の言葉はないだろう。
不幸は、まだ終わっちゃあいなかったのだ。
──三年前の平凡なある日の夜。
僕は綺羅の母親が死んだからといって僕は家に通うことをやめず、むしろ彼女の悲しみを少しでも和らげてあげたいという気持ちから、より意気込んでいた節がある。
だから、その日も同じように、例のごとく、例に漏れず、日常のほんのワンアクションとして、僕は綺羅の家に遊びに行った──いや、正確には行こうとしたけれど不可能だった。
「おーい、来たぞー!」
チャイムを鳴らしてこう言えば、決まって元気な声とけたたましい音とともに入り口の扉が開くのだが、何故だろう。今日に限って物音一つしない。
「おーい! 開けろって!」
再度の呼びかけにも反応は無し。
(友達と遊びに行ってるとか……?)
そんなこと今まで一度もなかったのだし、ましてや時刻は夜の八時。十一歳の女子が出歩く時間としては非常識の範疇である。
そんなこと考えれば分かりそうなものであるが、幼き日の僕はそんな適当な理由で自分を納得させて引き上げてきてしまったのだ。取り返しのつかないことに。
翌日の朝になってもう一度家を訪ねたのだけれど、綺羅は居なかった。
ようやく此の期に及んで僕は何かがおかしいと確信にも似た何かを感じたのだが、昨日何一つ行動行動を起こしていない時点で手遅れだった感は否めない。
親父は仕事に出かけていたので母さんに言って家に突入してみると、部屋はもぬけの殻だった──荒らされたような、あるいは争ったかのような形跡を残して。
どうしたって尋常でないその状況を警察に連絡はしたものの、何故だろう、一週間経っても一ヶ月経っても綺羅は見つからなかった。待てど暮らせど、ヒントすら出てきやしない。
しまいには、「捜索を打ち切る」の一言を叩きつけるようにして置いていったのだった。
その間僕はといえば自分の愚鈍を、そして楽観を呪い、ただただ取り乱すばかりで。
まず一週間は学校に行けなくなり、学校へ行けるようになってからも以前のようにはしゃぐということはなくなった──はしゃぐ気分になどなれるべくもない。慣れるべくもない。
しかし、まあ。学校へ行けているというのはつまり状況の好転、つまりは立ち直りを意味しているわけで、そうして立ち直ってしまいかける自分にうんざりしたものだ──自分のせいで綺羅はいなくなったのに僕はのうのうと学校生活を送っているだなんて、と。
そんな状態だったものだから周囲とはどこか壁を作りがちになってしまっていて、だからといってそんな面倒臭い個人を構ってくれるほど世界も優しくはないし、緩やかではない。僕とは違って世界は立ち止まっちゃくれないのだから。
だから、今こうして友達作りが苦手になってしまっているのはそこで立ち止まってしまったが故なのだろうとは思う。だからどうしたという話ではあるのだが。
ともあれ、そんな僕のどうでもいい話は置いておいて。
本筋であるところの綺羅の誘拐事件が動きを見せたのは、あの忌まわしき日から一年も経とうかという頃だった。
「支度しろ、この家を出ていかなくちゃならん」
「どういうこと?」
「いいから、早く」
その日の夜、親父はいつもより早い時刻に家に帰ってきたと思えば、ただいまも何もなくそう言った。
勿論そんな簡単──というのすらおこがましいほどの杜撰な説明で理解できるべくもなく、僕と母さんは幾つか質問を投げかけたものだったが、返ってくるのは
「ついてこい。そうすれば分かる」
の一点張り。
訝しみながらではあったものの、普段見せない親父の有無を言わせない圧力に押されるようにして僕たちは外へ。
そろそろ冬という時節だったものだから外は肌寒く、上着を一枚羽織ってこなかったことに少し後悔はしたけれど、しかし親父が促した場所は案外近く、というか家のガレージに停められたボックスカーであったのでほっと胸を撫で下ろす。
ともあれ、そんな小さな安心なんてその後の衝撃に余すところなく根こそぎ持って行かれることになるのだけれど。
────ピピッ。
軽快な電子音と共にドアの施錠が解除され、親父がそれを手ずから開けると、その中にいたのは失踪していたはずの綺羅だったのだから。
「こん……にちは……綺羅……です。お久し……ぶりです」
綺羅が発見されて、目の前にいる──確かにその事実は仰天するほどの驚きで、心臓を鷲掴みにされたかのごとき胸の高鳴りを感じた。
が、それよりも、それに加えて僕を驚かせたのは綺羅の様子だった。
明らかに、元気がない。
声もさながら消え入るようだった。
それだけならば、いやはや確かに救出されたばかりだと合点できるはずなのだが、そういうことではないのだと僕は直感的に察知したのだ。
(元気というか覇気が──オーラがない。気配が違う。あの底抜けな明るさを奪われたかのような、あるいは無機質な黒で塗りつぶされたようだ)
と、そう感じた。
しかし状況はどうやら差し迫っているらしく、そんな思考に沈んでいる暇などないようで。
「追っ手が来る可能性がある、荷物をまとめて逃げるぞ」
僕と母は今度こそ頷いて、そしてその日、刻喰家の二度目の引越しは夜逃げのような形で行われた。
こうして居を移した先で綺羅を夕暮という形で刻喰家に迎え入れることとなり、僕は兄に、綺羅は夕暮に──更には僕の妹になった。
──これが夕暮にまつわる一連の事件の経緯。
ここまで語ればもう容易に想像がつくだろうが、あの時綺羅を誘拐したのが『農場』で、だから僕は『牧場』をよく知っているし、少なからずという言葉では緩いほどに『牧場』を憎んでいるというわけだ。
きっと僕は妹の心を、殺した──殺し尽くした『牧場』を生涯許すことはないのだろう。