17 牧場
「ねぇ、『牧場』って知ってる?」
アリスのその言葉に、僕の思考は一瞬停止する。それは彼女が意味のわからない、あるいは文脈に即していない、普段会話の中でぽっと出てくる類の言葉ではない単語を出してきたから──という理由などではない。
むしろその逆だ。
「『牧場』って言っても豚さんとか牛さんとかのじゃなくてだよ?」
牧場──家畜を育成するための施設。
確かに比喩としてその施設を表すのにこれ以上端的で正確な言葉もないだろう。
ただ、この『牧場』の場合その家畜というのが牛でもなければ豚でもなく──人間だというだけで。
実験的実用施設。
閉じられた箱庭。
知と血の執着点。
──だとか。
とかくこの施設には牧場の他にも色々な呼び名は付いているけれど、そのどれもがきな臭い、あるいは血生臭い響きである。そしてその呼び名のどれもが的を射ているのだから、やりきれない。
しかし、この『牧場』、人間を家畜として育てるのだが、目的は食べることにない。
カニバリズムが倫理に反するだとか、そういった理由ではもちろんないのだが──もうこのような施設が実在するだけで、倫理がどうとか言えた話ではないのだし──ともかく目的はそうではないのだ。
その目的を端的に表すと、そうだな。さしずめ「情報収集」といったところか。
こういってしまえば多少なりともまともな雰囲気を──あるいは牧歌的な響きを受けるかもしれない。
だが、どうだろう。その手段を聞けば、やはりその幻想は、妄言は間違いであったのだと悟ることになるだろうが。
さて、ここで一つ示しておかねばならないのは飼育する家畜の条件だろう。家畜とはいえ、いや、家畜だからこそ、それはどんな人間であってもいいということとは直結しない。むしろ、人間全体から考えたなら家畜となり得る人間はほんの一握りなのだ。
いやはや、家畜になれる条件とは──いささか引っかかる表現なのだけれど。
でも、現実として狭き門なのだから、決して通りたくないにしても狭き門なのだからそこは仕方がないし、しょうがない。
ともあれ、その条件というのは《時間泥棒》であることだ。
──では、それは何故なのだろう。
それこそが、この『牧場』の存在意義なのだが。
《時間泥棒》という能力は、二つの能力の複合である。
一つは文字通り時間を泥棒するそれ。そして二つ目は、その副次的効果である、「時間に付随する記憶」を盗み見る能力。
この『農場』が作られた理由はこの二つの能力の後者の方に起因していて、つまりはそれが先ほどの情報収集という言葉に繋がる。
《時間泥棒》に要人の記憶を泥棒させ、それを保存するため。それこそがこの場所の存在している理由──なのだが、それは《時間泥棒》にとって最も過酷な生き方と言えよう。確かに《時間泥棒》にとり、情報、つまりは記憶を抜き出すことは造作もないことで、むしろ《時間泥棒》の際に付随してくるそれは必然的に付いてくるものであって、付きまとうものなのだけれど、しかしその盗んだ情報を知るというのはまた別問題で。
《時間泥棒》によりもたらされる情報はつまり仮死状態のような状態にあって、それを開こうとすれば、途轍もない苦痛が使用者を襲うのだ。
何故か──というのは説明するまでもないだろう。他人の記憶を盗み見るなんていう能力は本来あってはならない、人間の理から逸脱しているものであり、それの使用にはやはりそれなりの対価が必要になるのだから。
さて、しかもそれですら掬える情報はきっかり一週間分しか無く、だからお望み通りの情報が手に入るまでひたすらそれを繰り返すのだろうが、考えるだに恐ろしい。
一度その苦痛を垣間見た──垣間みるだけで怖気付いてしまった僕にはとてもではないが正気の沙汰とは思えない。
正気ではなく、狂気でしかなく──常軌を逸している。
そして、このような記憶を抜き出すパイプとしての《時間泥棒》を育てるべく、『牧場』は身寄りのない子供の《時間泥棒》を攫ってくる。
《時間泥棒》の絶対数の少なさの原因として、最たるものはやはり短命さだろう。更にそれに加えて、《時間泥棒》は同じく《時間泥棒》との間にしか子供をもうけることが出来ない。それは決して掟とかでもなんでもなく、遺伝子的な問題である。
血縁という狭きサークルの中でしか成立しない、呪われた血族。それこそが《時間泥棒》なのだった。
だから、その性質上自ずと身寄りのない《時間泥棒》の子供は、総数から見ると決して小さくない割合で存在していて、唾棄すべきことにその受け皿の一つがこの『牧場』なのだ。
そう、ある意味ではこの受け皿がなければのたれ死んでしまう子供もいるわけで、だから『牧場』は必要なのだと捉えられている節もあるのだが、それはしかしこの施設が在する最も大きい理由からすれば後付け程度なのだろう。
本質はそんな綺麗な物じゃあ、ない。
最大の理由、それは、自分可愛さなんだ。あるいは、一族可愛さ。
さて、ここで、じゃあなんで《時間泥棒》は要人から情報を抜きださなければならないのか、という話。大分遠回りしたけれど、結局そこが全てなのだ。
確かに要人の情報を手に入れることが可能ならば、あらゆる利点が発生し、ともすれば冗談抜きに、掛け値なしの世界征服や国家転覆すら目論むことすら可能なのかもしれないのだが、しかし《時間泥棒》はさしてそれに興味を示すことはなく、今もこうしてそんな大事は起こっていない。
「この世界ごとき、いつでもいくらだって俺らの手中に収めることなど造作もない。だが、それじゃあ意味がない。あくまでも俺らが生きているのはこの素晴らしき裏の世界なのだから、何をわざわざ表の世界ごときに執着する必要があるんだい?」
幼少の頃、親戚の集まりで聞いた言葉だ。これは、誰からぬ伯父の言葉ではあったのだが、確かにもっともらしい言葉ではあったのだが、僕はこの言葉に納得しかねていた。
僕には《時間泥棒》であることの誇りも、あるいは《時間泥棒》という能力への気位もなかったものだから、伯父のその発言を半ば他人事のように聞いていたわけで、だからこそ幼いながらも僕は思ったのだ。
(あぁ、《時間泥棒》はきっと世界を手にしないんじゃなくて──手に出来ないんだ。僕たちに世界という重みは重くて重すぎるんだろうなぁ)
いや、幼いながらにここまで具体的な思想は成っていなかっただろうから、思ったというには些か曖昧なのだったろうけれど。しかし直感的に感じてはいたのだろう。だからこそ納得しなかった──出来なかった。
すると、そこで一つの疑問が生じる。
じゃあ何故権力を得、背負うことすらできない一族が危険を冒してまでこのような手段で要人の情報を得ようとするのか──それは世界征服に匹敵するまでもないちっぽけで、切実な、必要に迫られての選択なのだ。
「魔女狩り」という言葉がある。この場合──というかどの場合においても、どの時代でだってそれの持つ意味は変わらず、「異端の排斥」これに尽きるだろう。
人間というのは、延いてはその集合体である社会や世界というのはそのデカイ図体に似合わず、裏腹に臆病なものであるので、自分たちが定義した「普通」という枠組みから漏れ出たものをとにかく嫌い、とりわけ弾圧し、排斥する。
その象徴として「魔女狩り」という言葉があるわけだが、《時間泥棒》に対してもかつて同じことが行われたという話。
今から約三百年前──「魔女狩り」ならぬ「泥棒狩り」は見せしめという大々的なものとしてでなく、ただただ水面下で、しかし大規模に行われ、そしてその結果として全世界で《時間泥棒》は五千人ほど討伐され、討滅されて──全体数の半分ほどとなったわけだ。
そこで《時間泥棒》を知らない者ならば話の腰を折ってでも疑問を口にするのだろう。なぜ時間泥棒の総数がおよそ一万ほど居たのか、と。これはやはり先ほどの表現が招いてしまった混乱なのだろう。
「血縁という狭いサークルの中でしか成立しない、呪われた血族」だなんて先ほど僕は《時間泥棒》を評したけれど、これは間違ってはいないが誇張を含んでいないわけではない、といったところか。
《時間泥棒》というのは確かに遺伝性で後天的には決して発生しない権能だけれど、しかし《時間泥棒》を持つ血族は決して一つではないってだけの話で。だからといってその血族が多くないからこそやはりこのような問題が発生しているのだが。
ともあれ、そうして半数にまで減らされた《時間泥棒》であったが、逆に言えば半分にまでしか減らされていないのである。中途も中途。志半ばにしても早々と言えるであろう塩梅だ。
その理由、そして「泥棒狩り」の顛末こそが『牧場』の出自そのものなのである。
刻々佐々見──その男こそが「泥棒狩り」に終止符を打ち、そして『牧場』を開いた英雄の名である。
その男が取った行動は至ってシンプルなものだった。
曰く──要人を攫い、記憶を盗み、それを交渉の材料に使うというもの。
《時間泥棒》は潜入のプロでなければ生きていけないのだから、要人を夜中に連れ出すのは案外容易にいった。最初佐々見は連れ出したそいつを殺そうか、あるいはその命を盾に和解に持ち込もうとしたのだが、しかしそれでは一時的な凌ぎにしかならない。そこで、佐々見は思うのだ。
「国家機密を握ることで逆に表の世界にも権力を伸ばせれば」
結果その後のことは思うより更にすんなりと進み、今や《時間泥棒》は確かな圧力をもってして、暗黙の了解的な地位を確立している。
《時間泥棒》が例えば不法侵入で起訴されたところで揉み消され、情報操作によって《時間泥棒》という存在が秘匿される──そんな確かな、それでいて不透明な地位を。
それでもやはり世界を完全に牛耳らなかったのはきっと、臆病からなのだろう。かの英雄は、権力を求めるスタンスが邪魔だと見做され──あるいは見放され、つまらない冤罪で殺されてしまったのだし。
だから、かつての英雄は私欲で身を滅ぼし、臆病な周囲に殺された──そう記されている。
歴史というのはとどのつまり史実という名の物語である。それ故にそこには語り手がいて、その思惑というものが存在するわけで。つまりはこの刻々佐々見にまつわる歴史にしたってそういうことなんだろう。
──そんな事情で生まれた『牧場』であったのだが、それは今尚残っている。
《時間泥棒》が表の世界に殺されてしまわないための道具として。
だからある意味『牧場』は必要悪と言えなくもないのだ。生理的に受け付けるかどうかは別にして。