16 裏事情
時は少し遡って、時空が風呂で内心の整理をしている時──もしくは夕暮がアリスと少々の歓談に興じている時。
彼らの父親──時空が言うところの親父である刻喰赤口はベッドに寝そべっていた。
足と腕を大きく広げて、いわゆる大の字で寝ている様はなるほどどうして一家の主人たる父親としての風格を感じさせないでもなかったが、しかしその表情はそれにそぐわないものだった。
「はぁ……どうしたものかねぇ」
赤口の表情を彩るのは、先ほど凄んで見せたときの怜悧で冷徹なものでもなければ、普段の飄としたものでもなく。
そこにあったのは疲れと後悔が入り混じったような複雑な表情でしかない。
視線はぼうっと天井から垂れている淡い暖色の蛍光に向けられている。
「あぁして時空には言ったものの、どうやら上手く伝わっていないようだからなぁ」
再度呟く。
あの時空のリアクションを見る限り、そうとしか思えない。あれは諦めた顔でもなければ投げ出す眼でもなく、
「あいつ、男の顔だったな……」
あれは、意中の女子のためであるならば頑張っちゃおうと思える──思ってしまえる男の顔であり、男の眼なのだと、赤口は確信していた。
「確かに俺にもそういう時期はあったし、父親として成長が嬉しくはあるんだが、なにせ時期が悪すぎる。いや、違うな。こんなのいつ起こったって駄目だ。ならばこれは相手が悪すぎる、が正解か」
そうして寝返りを打って、うつ伏せになる。
「だから今回の件に関しては、どうあっても、例え愛する我が息子に死ぬほど──殺されるほどに恨まれることになっても、邪魔しなくちゃぁな。そうでなければ、時空がどうなることか」
決意するように身を起こして、ベッドの上に正座をした──その数秒後。
────ガガガ、ガ。
本棚が、二つに割れた。まるで横スライド式のドアであるが如く──否、本当にそれは横スライド式の、隠し扉なのだけれど。
決して軽くはない重量が動いたというのにさしたる音も立てずに、本当に僅かな「ガガガ、ガ」というそれだけを残して扉は閉まり、本棚は再度部屋という背景に紛れる。
だからそれだけで、部屋はそれ以前となんら変わりないわけだ──現れた闖入者を除いて。
その格好はおよそ部屋の穏便さとはかけ離れていた。至ってシンプルではあったのだが、それにしても、珍妙な、いっそ異常と評しても差し支えのないほどの不穏当さである。
全身を覆ってもまだ余りあるほどの黒のマント──ビニール地であるので、レインコートと言ったほうが正しいだろうか──その腕の部分に幾つもの髑髏の装飾が施されたブレスレットを付けているという、ただそれだけの、シンプルであるからこそ不気味なファッションだった。
とはいえ、赤口はそんな闖入者に全く驚きもせず、軽く、そして鷹揚に手を上げて
「おかえり」
と。
それもそのはず、隠し扉から現れたのは闖入者でもなければ侵入者でもない、赤口の妻であり時空と夕暮の母親なのだから。
「ん、ただいまー」
ゆったりと間延びするような声で応対してから、不気味の象徴であったブレスレットを外し、レインコートに付着していた汚れをバスタオルで拭ってから、脱いでハンガーに掛ける刻喰家の母──刻喰廻。
「でさー、時空の方はどうだったー?」
「あぁ、ビンゴだったさ。幸か不幸かは置いておいてね」
「確かに、この時点で気付いたっていうのはラッキーだったけど、時空と接触しちゃってる時点で手遅れと言えなくもないもんねー」
「そういうこった」
「それに──時空が『アリス』に恋をしちゃっているっていうなら尚更、でしょー?」
「気付いてたのかよ」
「いやね、女の勘ってやつかなー。その相手が『アリス』だったっていうのはまさかだったけど、でもきっと恋しているんだろう、っていうのは雰囲気で分かるものよー」
むしろ分からなかったの? とでも言いたげに。
「まーでも、結局こうして後手に回っちゃってる時点で全ては終わっちゃってるのかもしれないからねー」
「縁起でもないこと抜かすなよ。一応釘は刺してきたんだぜ」
「で、どうだった?」
肩を竦めるだけの応対に廻は「やっぱりかー」と小声で呟くだけで、その件で赤口を責め立てることはしない。
自分より説得には赤口が適していると思って時空の説得に向かわせたわけだから、それで失敗してしまったのなら仕方ない、そう思ったのだ。
いや、きっと全てを明かした上での説得なら赤口であれば、あるいは説得可能だったのかもしれないけれど、でも、それを明かしてしまえば、別の意味で今度は決定的な失敗になってしまう。
家族としての形を、破壊してしまう──それほどまでの事実なのだから。
だから、そういう意味では廻は今回で説得できるなどとは思っておらず、どちらかといえば警告、あるいは示唆の意味合いの方が大きかったわけだ。
「うん、なるほどー。ごめんねー、嫌な役やらせちゃって」
「いいや、家族のためでありお前のためなら苦じゃないさ」
「もー! 嬉しいこと言ってくれちゃってー! このこのー!」
赤口の頭を廻の掌が蹂躙する──が、赤口は、なされるがまま。気持ち良さそうに眼を細めるだけだった。この男、未だに妻に恋焦がれ続けているのである。
「ふふっ、可愛いー」
それは廻もどうやら同じようで。
──こうしてこの夜の密談は終了し、その後はこの部屋に響くのは二人のいちゃつく声だけになった。
────と。その途中で。
「あぁ、そういえばこのバスタオル、大分傷んじゃったから捨てようかなー」
「そうだな、まだバスタオルのストックもあることだし。いいんじゃないか?」
そのバスタオル──大小の赤い斑点が歪に散りばめられたタオルからは、尋常じゃない程生臭い、鉄の香りがしていた。