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15 決断

 結局、親父の真意は分からぬまま。

 僕は親父が部屋を出て行ってから夕暮が帰ってくるまでの間、ただただ何をするでもなく力なく椅子に凭れ掛かるように座っていたのだった。


 「お兄ちゃん、お風呂」


 「あぁ」


 「お兄ちゃん、お風呂空いた」


 「あぁ──あぁ! ごめんごめん、ぼーっとしてたよ」


 あぁ、全く、覚悟していたはずだったのにこの体たらく。本当に僕はどうしようもない。

 夕暮をきっかけとして自分の中のスイッチを入れるべく、頬をピシャリと両手で打つ。少々乱暴に叩きすぎたせいか、頬は熱を持ってジンジンと存在を主張するが、体たらくで腑抜けた僕にはそれぐらいが丁度いい。

 というか、痛みに囚われる振りをして、そして妹の前で気を張ろうとしなければきっと動き出せないだろうから。

 

 頬を叩いた勢いはそのままに、膝にも一つ叱咤するように平手を打ち付けると、今度こそ立ち上がる。

 まずは風呂に入ろう。そして、状況を整理するのだ。


 「さぁ、じゃあ僕も風呂をいただくとするかな。夕暮はもう寝るの?」


 「うーん、ちょっと本でも読んでから寝ようかなって思ってる。生憎今日は《時間泥棒》の日じゃないしね。あ、もうお父さんは寝ちゃったの?」


 「お父さん」という単語に一瞬心臓の鼓動と血液の流れが脈打ったのを感じたが、それを努めて挙動として出さないよう意識して、


 「うん、さっき寝るって言って部屋に行ったよ」


 「ふーん、今日は早いね──とはいっても仕事から帰ってきてその後夕食まで作ってくれたんだから疲れて当然かもね」


 「……確かにね」


 僕は先ほどのことを夕暮に言うか悩んでいた。

 あまりにも衝撃的な出来事であり、自分でもしっかりとは理解出来ていないのだ──というのはきっと建前に過ぎないのだろう。

 いや、別にそれが嘘だというわけではない。しかし、本当に僕が言いたくなかった理由は、ごくごく私的なもので。


 「あ、そうだ、今からコーヒー淹れるけどお兄ちゃんのも用意しとく?」


 「あー、じゃあお言葉に甘えて」


 「ん。あとアリスは──コーヒー飲めないからオレンジジュースでいいかな」


 「……うん、そうだね。じゃあ、そろそろお風呂いただくよ」


 「いってらっしゃい。ちゃんとお風呂掃除しといてね」


 「分かってるよ」


 きっと僕は、この日常を壊したくないのだ。当たり前に暖かく、無条件に安らぐこの「家」という場所を失いたくない。そのためには夕暮には笑っていて欲しいし、ことここに至っては普段通りに接することが出来るかどうかすら怪しい親父だって、変わらずいて欲しい。

 そのためなら裏で何が起きていようと、ハリボテだろうと、日常を演じていたい──そう、思ってしまうのだ。

 この感情はきっと、アリスを守りたいという気持ちと矛盾しているのだろう。けれど、そうと分かっていても考えずにはいられなかった。

 

 例えそれが、現実逃避めいた夢想なのだとしても。


−−−


 浴室。


 ああしてそそくさとリビングを離れて、半ば逃げ込むようにして入ったのだけれど。

 

 「ふぅぅぅぅ」


 手早くシャワーを浴びて、軽く体を洗ってから浴槽に浸かると、ついつい長い溜息が出る。どんな時でも風呂というのはそれだけで気を抜ける場所であるらしい。

 それにそもそも。親父との一件に気を取られて忘れていたが、今日は朝早くに出かけて遊園地を駆けずり回ったのだ。それも絶叫マシーンメインで。そりゃあ体に疲れが溜まっていたとて不思議ではない。


 「本当今日は疲れ……ぶぶぶぶぶ」


 出来る限りの脱力を試みようと顔の半分まで浴槽に浸かる。そうして息が続く限り泡を生み出し続けて、


 「ぶはっ」


 水面から顔を出すと、今度は後頭部を湯船の縁に乗っける。

 そのまま暫く体を程よく熱い湯の中に投げ出していると、湯に今日の汚れと共に一日の疲労も溶かしこんでいるのでは、と錯覚出来てしまうほどに気持ち良い。というか疲労どころかこのままじゃあ僕自身も溶けて消えてしまいそうだ。


 あぁ──、


 「このままこうしてずっとだらーっと過ごしていたいんだけどなぁ……」


 しかし、そういうわけにもいかない。そうは問屋が卸さない。

 分からないことが山の如くあるのだ。そして考えなくてはいけないことも、また。

 なんやかんやで、流されるようにしてここに至ってしまったものだから、しっかり考える時間をこの一人の時に作っておかなくては。


 「────よし」


 未だ体をだらしなく伸ばしたままだけれど、せめて頭だけは動かさなくてはなるまいと、僕は一つ一つ今日あった出来事を整理する。


 遊園地──は、まぁ。ただただ楽しかったからいいとして。その帰り、と風呂に入る前の親父との会話。そこに全ては集約されてくるだろう。

 

 親父の態度が急変したのは、確かアリスを視認した時。突然穏当な雰囲気は消え失せ、空気が凍る感覚。あれは今まで味わった親父のに叱られた時・不機嫌だった時の全てと照合してみたところで一致せず、だからこそ恐ろしかった。

 しばらく忘れることの出来ないであろう感覚に一瞬身震いして。

 

 「そういえば」


 今まで見たことのない表情──といえばアリスもそうか。

 時折不安そうな、儚げな表情を覗かせる彼女ではあったが、あそこまで露骨に怯えていたのはこれが初めてだろう。結局、ことの直後に決定的な言葉を出せていなかったことが尾を引いて、そのことについて部屋で二人になってからも、ましてや夕暮と三人の時にも触れていない。


 ──と、それは一旦置いておくとして。後でもう一度考え直すとして。

 

 確かそのアリスの名前を聞いた時、確か親父はこう言わなかっただろうか。


 『アリス──ほう、やはりか』


 と。

 それは言外に、アリスを完全に知っていたかは別として、「アリス」という存在と、名前には心当たりがあるのだと言っているようなもので。

 数秒唸ってはみたが、どうやら考えても良い解答が思い浮かぶ類の疑問ではない。


 「これもまた棚上げして、思考を先に進めるのが得策かな」


 この先がやはり、一番整理すべき事柄ではないだろうか。

 ──リビングでの会話。それこそが最も直接的で、なおかつとりわけ謎を孕んでいるのだから。


 親父はあの時、わざわざ一度流れたあの場面をもう一度やり直すような、焼き直すような真似をした。

 それは不自然であり、強引とも言える流れではあったが、しかし逆にこういうことでもあったのだろう。

 曰く──そうまでするに足る理由があったのだと。


 親父はこう聞いてきた。


 『アリスちゃんとはどこで出会った?』


 『本当にアリスちゃんを家に送り届けたんだろうね?』


 『帰していないのならば、早々に家に帰すべきだ』


 『憑詠有栖──彼女は危険だ。くれぐれも、選択を誤るなよ』


 最早それは質問という体を成していなかったように思えるのだが。というか、尋ねるの域を逸脱して、「分かっているのだから白状しろ」と、皮肉なことに父親らしく脅していたようにも思える。

 それに対する僕の感想というのもまた、再三に渡り──芸のないことこの上ないが、


 「どうしてこうも親父はアリスに執着するんだろうか」


 という、本当にそれしかない。

 ここまでくると、ただ存在を知っていたから、というだけでは到底足りない偏執っぷりではある。

 ただ、その異常なまでのそれの理由は、と問われればやはり僕に思い当たることなど何もないわけで。


 じゃあ仮説を立ててみよう。

 

 例えばアリスが実はとてつもない悪女で、親父の知り合いが詐欺に遭ったから息子には気をつけろと──


 「いや、ないだろ」


 では、実はアリスはとてつもない武力の持ち主で、誰かが襲われたのを又聞きしたとか──


 「それだったらもっと直接的に言うだろうしなぁ」


 だとか。

 そんなわけで暫く考えてはみたけれど、やはり真実に至りそうな可能性は見当たらず。

 

 「っていうか、親父もこうまでアリスに対して忠告するならもう少し具体的に説明して欲しいものだよ」


 しかし、それは無い物ねだりというか、そもそも有り得ない前提条件というか。

 それが出来ないからこそこうやって迂遠な方法を取っているのだろうし、また、僕を心配しているからこそ、こんな方法──仄めかすような行動を取っているのだろうから。

 あぁ、そうだ。きっと心配を、してくれているのだろう。でも、


 「余計なお世話だよ」


 もう子供ではないのだ。自分のことぐらい自分で守れるさ──と握り締めた拳はしかし頼りなくて、結局何一つ僕は分かっていないのだと自ずと分からされたような気持ちにはなる。

 しかし、それでも僕は親父には頼らない。アリスを見捨てるという選択肢は、押入れに匿うことを決めた時にとうに捨てている。

 

 選択を誤るな? あぁ、上等だ。僕はハナからそのつもりだ。


 何一つ分からなかったけれど、でも覚悟は決まった。いや、元から決まっていたのを改めて確認しただけだ。これは、その程度でしかない。


 僕は立ち上がった。


 その際に湯船から少なからずお湯が流れ出たが、どうせ僕が最後だ、構うものか。そして「よし」と前置きをして


 「じゃあ差し当たって、出来ることから始めようか。まずはそうだな────」


−−−

 

 風呂場から部屋に戻ると、そこに居たのはアリスだけだった。

 夕暮はどうやら退散した後のようで、アリスは舌先だけで、まるで猫のようにオレンジジュースを味わっていた。今朝の喫茶店でアリスがミックスジュースを飲んでいた時のことが浮かぶ。


 (あぁ、あの時はこれから始まる一日に想いを馳せていて──少なくともこんなに憂鬱な気分ではなかったなぁ)


 やめよう。そんなことを考えていても自体が好転するわけもないのだし。

 

 「あ、ジックおかえり! ユウがそこにコーヒー置いていってくれたよ」


 「お、ありがとう」


 アリスが指差す先には未だ湯気の立ち上るコーヒーが。リビングではなくここに置いてあるというところが、僕の思考を先読みされているようで、もうここまでくると流石としか言いようがない。

 僕は風呂上がりだからといって特別に冷たい飲み物に固執するわけでもないので、いつものごとくコーヒーを一口、口の中で転がして。


 「ふぅ、にしても今日は疲れたね」


 「本当にね。でも、すごく楽しくて充実してたから、無問題(モーマンタイ)!」


 ──それは遊園地の話であって、その後は問題だらけだったのだけれど。


 と、アリスの言葉に脳内で補足するように呟いてから。


 「うん。今日は本当に楽しかった。──だからこそ」


 そこで一旦言葉を区切って深呼吸してから、僕は言う。


 「話し合うべきじゃないかな、楽しくなかったことも含めて、全て。それが出来て初めて僕たちは何の気負いもなく、なんの遠慮もなく、後ろ髪を引かれるような思いをすることなく、今日を楽しかったねっていういい思い出として語れるんだ。そうしないと、始まらないよ」


 僕が決意した「出来ることから」の出来ること──それはこれだ。まずはアリスとちゃんと話をする。

 今まで話せなかったことも、今日のことも、全部。全て。遍く。


 「だから、あの話の続きをしたいんだけれど、いいかな?」


 奇しくも親父と同じような台詞で切り出したこと気付き、なんとも言えない気持ちになるが、今気持ちを向けるのはそこではない。

 アリスを見る。


 「なるほど……ね。そうだよね。そろそろ、だよね。分かった。いいよ。もう夢を見ている場合では──ないんだものね」


 あの話──僕はそう言って明言していなかったのだけれど、どうやらしっかりと意図するところは伝わったらしい。

 だからこの反応は──痛みを耐えるような表情は、ある意味では予想済みだ。

 しかしそれでも、決して見たかった表情ではなかった。させたくなかった表情だった。

 それこそが今まで僕が踏み込んだ話をしなかった理由なのだから。

 

 アリスは諦念を浮かべた表情で、


  「元々そういう約束だったんだもの。話すわ──私がどうしてここに居るのか。私がどうして家を出たのか。その、理由を」


 やはり彼女はそう言って微笑んだのだった。

 いつものように──儚げに。

 またしても──苦しそうに。

 

 「ねぇ、『牧場』って知ってる?」

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