13 合間
ドアを開けると、部屋は無人だった。しかし僕は別段焦ることはない。
何故なら、なんとなくではあるのだが分かっていたからだ。
部屋の奥まで廊下を歩いてきたのと同じようにズンズン大股で進んで、
──バン!
勢い良く押入れを開けると、
「────ッ!」
やっぱり。
大きく目を見開いたアリスが、驚きを体現するように縮こまらせた姿勢のまま固まっていた。
「みーつけた」
僕がいい笑顔で言うと、アリスは手をペタリと後ろに付いて大きな嘆息を漏らして
「あーもう、びっくりした! 私が驚かそうとして押入れでゆっくりジックが押入れを開けてくるのを待ってたらあんなに迷いなくスパーンって開けるんだもの。こっちが驚いちゃった」
後半はスネるように言う。
「そりゃあこの部屋に隠れる場所はそこしかないし、なんとなく気配でそこにいるだろうなーってのは分かったしね」
「はー、まったくもう、敵わないわね」
「それにしても、無事に戻れたようで良かったよ」
「お陰様でね。ちょっと足軽く擦り剥いちゃったけど」
見れば、子どもの頃によく見たような赤く痛々しい生傷が膝小僧にできているではないか。
確かに僕の渡した地図は所謂裏道のようなものだから、危険な場所は割とあった。だが、そのルートでなければ今ここに辿り着くことは不可能であったのだから、仕様の無い怪我ではある。しかし、
「ごめん、危ないところを歩かせちゃって」
「ううん、ジックは嫌がらせで私を怪我させようとしてあの地図を渡したわけじゃないんだから、だから後は私の不注意とちょっとの運のせいなのよ」
「それでもさ、怪我をさせちゃったのは事実だからさ。ちょっと見せてみ」
部屋の隅に置かれていた救急箱を持ってきて、アリスを椅子に座らせる。
「ちょっと沁みるかもだけど、我慢してね」
「うん……んっ」
消毒液が沁みたガーゼを膝に当てると、アリスは思わず、といったような押し殺した声を出す。
しかし声はそれっきりで、その後は「痛い」ともなんとも言わず従順に治療を受けていた。
やがて、
「はい、これでOK!」
バンドエイドではなく、念入りに包帯を巻いて仕舞いにパチンとアリスの膝を叩いて元気を注入。
すると、アリスは治療の間は上げることのなかった「痛っ!」という小さな悲鳴を上げると、恨みがましい視線で僕を見てくる。
「最後のいらないと思うんだけど……」
「僕の家では代々怪我の治療の後はこうして元気を注入するんだよ」
「なんだか嫌な風習ね……。まぁいいわ。ありがとね」
そうこうしている内に、部屋にはリビングから流れてきたハンバーグの芳しい香りと、食欲をそそるパチパチという音が流れてくる。
どうやら夕飯が完成に近いらしく、リビングから「時空を呼んできてくれ」「はーい」という父娘の遣り取りが微かに聞こえて、その数秒後に夕暮が部屋のドアをノックも無しに開け放つ。
「お兄さん、ご飯できたって……って、アリスも戻ってたのね」
「そうなの、ジックに家の裏ルートを教えてもらって」
「私以外には教えたことのないあの裏ルートをアリスに!? あぁ、私というものがありながら……」
いや確かにこのルートは僕と夕暮しか知らないのだけれど。しかしこの言い方だと誤解を生みかねない。
しかもアリスはどんな時でも感情を表情に出さない鉄仮面。それだけに冗談を言っているのだと知っていても僕以外の人間が見ればそうと理解されない場合も多々あるのだ。
果たして僕はそれで何度被害を被ったことか。
そんな過去達に一つ身震いをして、弁明のために口を開こうとしたのだが、
「もう、本当に夕暮はそういう冗談が好きね。恥ずかしいからやめてよ、もう。口の端がニヤついてるし! からかう気満々だったでしょ!」
どうやらアリスはこの一週間の短い付き合いで夕暮の些細な表情の変化を読み取ることが出来るようになっているらしかった。頬を染めながら軽く怒りながらもどこか楽しそうに夕暮に突っ込む。
「ちぇ……バレてしまったならしょうがない……って感じかしら。と、それはともかく。ハンバーグ出来たらしいからそろそろリビングに集合だそうよ」
そこで夕暮はアリスのことに思い至ったのだろう。「あ」と呟いてから「アリス……」と漏らすもその先が続かない。
なんとなく親父とアリスをここで引き合わせてはいけないのだと察したのだろう。僕に「どうしよう」とでも言いたげな微かに揺れる視線を送ってくる。
確かにこれまでは両親ともに仕事が遅くまであるために夕食時に帰宅していることなどなかったので、今日は珍しく、というかなんというか。普段ならば素直に喜ぶべき事態なのだが、今は望まぬ形でのイレギュラーに他ならなかった。
それもあんな遣り取りがあった後では特に。
僕は少し思案してから、
「ごめん、アリス。今日は親父が早く帰ってきちゃったから一緒に夕食ってのは無理そうなんだ。かといってあのルートをもう一度通って買い物に行くっていうのもまた怪我させちゃうと……って考えるとあまり勧めたくない。だから本当に申し訳ないんだけど、少し待っててくれない? 何かしら食べれそうなものを親父の隙を見て持ってくるから」
「まぁ……しょうがないわね。これ以上心配かけたくもないしね。その代わり」
そこでアリスは起伏に富んだ……とはお世辞にも言えない胸を反らせて言う。
「出来るだけ早く持ってくること! お腹ぺこぺこなんだから急いでよね! 約束よ!」
出会ったあの日のように勝気に、力強く。
「分かった、約束するよ」
そのまま指切りをして、僕と夕暮は立ち上がる。
「いってらしゃい」
「ごめんね、アリス」
「いいのよ、誰も悪くなんてないんだから。それを言うなら家に転がり込んでこうやって家族の団欒を邪魔しちゃってる私の方が」
「アリス」
目を伏せるアリスの言葉を遮ったのは、感情の色が薄い、しかしよく通る夕暮の声。
「それは言わない約束でしょ? だって私達、もう友達──いえ、家族なんだから」
「ユウ……」
それはアリスが家に一緒に暮らし始めたばかりの頃の再現のようで。
だからこそアリスは憑き物が落ちたような笑顔を浮かべる。
「うん、そうだったね。ありがとう、ユウ」
──と、そこで空気を読まない横槍が。
「おーい、夕暮、時空! ハンバーグ冷めちゃうぞ。早くー!」
親父の声に少し震えを蘇らせたアリスの手を夕暮は軽く握って。
「じゃあ、そろそろ行くわね」
「うん、引き止めちゃう感じになっちゃってごめんね」
無言で夕暮は首を振り、僕たち二人はリビングから未だ続いている親父の呼びかけに急かされるようにして食卓に向かったのだった。