11 暗転
「らん、らん、らら──らん♪」
観覧車を降り、遊園地を出た後もアリスはずっと上機嫌だった。
こんな感じで調子っぱずれの鼻歌を歌っていたかと思えば、唐突に、そして何度も「今日は楽しかったわね!」と言ってくる。
正直言って上機嫌なアリスはいつにも増してとても可愛い。
まぁ、正直に言えるわけもないのだが──今朝のように口を滑らせでもしない限りは。
全く、企画者冥利に尽きる。
そんな感じに浮かれて帰ってきた僕たちだから、失念していたのだ。
「おう、時空。今日は帰りが遅かったんだな」
デート中に気まずいことランキング第一位に輝くであろうアクシデント、「親との遭遇」の可能性を。
「あ、うん、まあね」
どうやら話しかけてきた時点では父親はアリスの存在に気付いていなかったのだろう。
僕の隣にいるアリスを見るけると、表情が変わる。
しかしその変化は全く予想外。
陽気な父親が息子とその彼女をからかうためににやりとした──などという変化ではなく。
値踏みするように冷たい視線でアリスの爪先から頭までを睨め回すと、目を細めて怖気を感じるほど冷たい声音で、
「────へぇ」
その声や表情には、普段の飄としていつつもどこか温かみのある親父を全く感じることが出来なかった。
そしてそれを向けられたアリスはそれに気付かないほど鈍感ではなく、むしろ
「────ッ」
背中に強く引かれるような感触を感じて後ろを向くと、アリスは僕の服の裾を力一杯握り込んで、ただただ震えていた。
全身を震え上がらせ、怯えていた。
さながら──赤子のように。
まるで──怪物に怯えるいたいけな少女のように。
「アリス……」
大丈夫? と問うことすら躊躇われる。
彼女が大丈夫でないのは自明なのだから。
しかし皮肉なことにすぐ後ろでアリスが怯えているという事実は却って僕の頭を冷静にした。
「親父」
声が震えてしまわぬよう、努めて平坦に呼ぶ。
「どういう、ことなんだ?」
自分でも要領を得ない質問であることは分かっている。ただ、それ以外に問いようの無い状況だというのも事実で。
だが、どうやらその一言は効果があったらしい。
質問後、ほんの一秒の空白の後親父は相好を崩す。鋭く刺すような眼光も弛緩して、同時に流れていた剣呑な空気も消え失せる。
「あぁ、あぁ──すまん。時空の彼女さんが気になってしまってつい真剣な目で凝視してしまった! どうやら怖がらせてしまったようだね。申し訳ない」
嘘だ。あれはそんな目じゃあなかった──ということは確信を持って断定できる。
でも、それを指摘する勇気と根拠は少なくとも現時点で僕の手の中にはないわけで。
ただ茫漠とした不安だけが胸中に広がる。
「なるほど、そういうことだったのか……ってこの子は彼女じゃないんだけれどね」
「二人で連れ立って街を歩いていてこの子は彼女じゃないときたか。まぁそれに関しては後日──というか後ほど問い詰めるとして」
そこで親父は一旦言葉を切ると、少しばかり声に猫撫で成分を加味して、
「時空のお友達、でいいのかな? 改めてさっきはすまなかったね。怖がらせるつもりはなかったんだ」
それでもアリスは未だ僕の背中から離れようとしない。
更に言えば、震えは収まるどころか増大してすらいるのだ。
カタカタカタカタ──ガタガタガタ。
最早それは異常とでも呼べるような震えだった。
「喋りたくない……か。こりゃあ本格的に怖がられてしまったようだ。時空の将来の嫁候補に俺はなんてことを……」
「よ、嫁候補ってなんだよ! 嫁候補って」
「あ、今少し動揺しただろ?」
「し、してない!」
「と、まぁおふざけはこの辺にして。そろそろ時間も遅いし時空、早くその子を家まで送って行ってあげなさい」
「ああ、分かった。アリス、行こうか」
「アリス──ほう、やはりか」
親父にその意味を問いただそうと口を開きかける──が。
その言葉は更に意味深長な親父の言葉に封殺される。
「アリスちゃんをしっかり送り届けるんだぞ。しっかり、彼女のお家にな」
──きゅっ。
裾を掴間れる感触を確かに感じつつ、僕は歩き出した。
僕はこうして「親父」が分からなくなった。
親父は結局陽気に振舞っていたように見えて会話の中で一度たりとも目の奥が笑っていなかったのだから。
それは──僕も同じことではあったのだが。
−−−
あれから、僕たちは家に帰るわけでもなく、さりとて目的地を定めることすらせずに当て所もなく歩き続けていた。お互いに一言も発することなく、ただ黙々と。
その間考え続けていたのは、やはり先ほどの親父の不可解な態度について。
どうして親父はアリスに対してあんな態度を取ったのだろう。
一緒に暮らした一週間の間で親父とアリスが鉢合わせるというハプニングは無く、アリスと親父は初対面であるはずなのに。
『────へぇ』
脳内で反復されるのは今まで聞いたこともないような冷たい声。
それは心の弱い部分を凍りつかせるようで、つまり、例えるなら──悪意のような、敵意のような。
と、そこまで考えたところで
「────ごめんね」
意識に割り込んできたのはアリスの声。
親父と別れてからかれこれ三十分ほど経っただろうか。
ようやく落ち着いたのだろう、アリスあれからずっと握り続けていた僕の服の裾からゆっくりと手を離すと、微笑んでそう言った。
その表情は硬く強張り、離したばかりの手をぎゅっと握りこんでいることから無理をしていることは明らかだった──が。
「いやいや、こちらこそ親父が変な絡み方しちゃってごめん」
あえてそのことを指摘することはせず──どころか父親の変調についてもやんわりと誤魔化す。
そのことについて話すべきなのだ、ということは理解している。だが、父親のことを何も知らなかったのだ、という衝撃と、アリスに身内を悪いように言ってほしくないという見当違いな保身のような感情もあったのだろう。
(まだ話す時じゃない)
そう、結論付ける。
結局決定的な言葉と、胸に少しばかり感じた棘を深呼吸と共に飲み込んで。
「じゃあ、そろそろ家に帰ろうか」
先ほどの父親の言に従ってアリスを元の家に帰しに行く──という訳では勿論無く、この家というのは純粋に僕の家に、ということだ。
もしアリスを元の家に帰そうとしたところで僕はアリスの家を知らないわけだし、ましてやアリスに家が自発的に帰るとも考え難い。
それに、こんな状態のアリスをどこかに放ろうだなんてとてもではないが出来ようもない。
とはいえ、親父に釘を刺されたばかりだから、気が重いのは確かだけれど。
しかしだからといってそろそろ帰らなければ怪しまれてしまうのだから──とは言っても既に三十分が経過している今、それは焼け石に水にしかならないのかもしれないわけだが。
ともあれ、兎にも角にも。
未だ緊張の残る顔のままアリスが頷いたのを確認し、僕らは帰路に着いた。
道中はといえば、これまたほとんど言葉を交わすことはなく、既に遊園地の後の楽しい余韻などといったものはとっくに消え失せてしまっていた。
あぁ全く────
「はぁ……どうしてこう……」
どう言葉を継ぐべきなのだろう。
ちっぽけで定まらない呟きは、残暑を漂わせた夏の空気に溶けて、そして。