9 魅了
「ちょっと、待って、止まって! ごめん、僕が悪かったからさ!」
「ふん! 知らないもん! ちょっと自分が遊園地上級者だからって人を馬鹿にするようなやつなんて!」
「遊園地に上級者も何もないと思うけど……」
「うるさい!」
無事に園内に足を踏み入れて早五分。僕は早速アリスの機嫌を損ねてしまっていた。
というのも────
「こ、これで大丈夫かしら?」
差し出された福引チケットを見て、僕は驚きのあまり数秒硬直してから、
「ぷっ……くく……アリス、それは全然関係ないチケットだよ……っくく……チケットはあの……チケット売り場で買わなくちゃいけないんだけど……あははは」
あまりのトンチンカンな行動に笑いを堪えられるはずもなく、噴き出すを通り越してほとんど笑いながら言う。男性スタッフも営業スマイルに微妙に苦笑いのような色を含ませており。
と、ここでアリスもようやく自分の行動の突飛さに気が付いたようで、みるみるうちに顔を赤くさせる。
「わ! わかってたわよ! あそこで買えばいいんでしょ! 買えば! ほら、さっさと行くわよ!」
「うん……にしても福引券って……っくく……」
「うるさいうるさいうるさーい!!」
──そんなやりとりが園内に入っても続けられ、今やアリスはすっかりヘソを曲げてしまっている。
「ごめん、ごめんったら」
「い・や・よ!」
「そろそろ機嫌を直そうよ。ほら、福引券事件は横に置いておいてさ。折角だから遊ばないと損だよ。そう、折角のデートなんだしさ!」
言ってて恥ずかしいことこの上ないが、しょうがない。デートという特別な日であることを強調して、オーバーな身振り手振りを付けて言い放つ。
頬に熱を感じる。だが、自身の羞恥心と引き換えに彼女の機嫌が直ってくれるのなら安いものだ。
「ちょ、あんま大きな声で……」
「何か困ることでもあるのかい? デートだって先に言ってたのはアリスだよ?」
「そ、そりゃそうだけど……」
「うーん……。じゃあさ、分かった。さっきのお詫びにアイスでも奢らせてよ。それで今回のはなかったことに……はならないだろうけど機嫌直してくれないかな?」
「……わかったわ。これだけで今日一日を無駄にするのも勿体無いしね。いいわ、今回だけは特別に乗ってあげる。でもいい? 今度この件について触れてみなさい。そしたら……分かるわね?」
「はい……」
結局、妹が居るから女の扱いに慣れている、などといったことは全く無く、内心では溜息を禁じ得ないわけだが。ただ、「女の子はみんなスイーツが大好きなの。お兄さんにそんな機会は永遠にこないと思うけど一応覚えておいたらいい」という夕暮の言葉は確かに今、役に立った。
すると、幸か不幸か丁度近くにアイス販売のカートが通りかかる。
「ちょっと待ってて」
言い残すと、素早くソフトクリームを注文してアリスに渡す。
どの味がいいか聞いていなかったためになんとなくで選んだストロベリーソフトだったのだが、どうやら気に入ってくれたらしく、一心不乱に少しずつ先端から攻略している。
その様子を見てまた頬を緩ませてしまえば、またしてもアリスに見咎められること必至なので自重。
余計なことを考えてしまわぬように、園内の様子を改めて眺めてみることにする。
メリーゴーラウンドにジェットコースター、フリーフォールに空中ブランコ、海賊船を模した乗り物にコーヒーカップ……そして最奥に佇むそれだけやけに大きい観覧車。
うん、これといって特筆すべき物のないと断言できてしまうほどに普通の遊園地である。
ただ──
「変わって、ないなぁ……」
去来するのは、感慨のような感情。
大体十年前のこと。結構前に来たのを最後にしてここには来ていなかったというのに、何故だかここでの思い出は鮮明に思い出せる。
お父さんとお母さんに挟まれながら、手をつないで園内を歩き回った。
いろいろな乗り物に乗った。たくさん笑った。たくさん遊んだ。
楽しい記憶。掛け替えのない記憶。
そう、あれは僕がまだ《時間泥棒》になる前で、そして──
「ねぇ」
アリスが僕の上着を引っ張っていた。
見ればアイスはその標高を半分ほどまで落とし、その表面はアリスの唾液で濡れていて、なんだか見てはいけないものを見ているような気持ちにさせられて慌てて視線をアリスの顔に戻す。
「どうしたの?」
「どうしたの? じゃないわよ。ほんと今日はずーっとぼーっとしてるわね。まぁいいわ。ん!」
溜息を吐きながらアリスが差し出してきたのは先ほど目を逸らしたばかりのアイスクリーム。
ここでアイスから目を逸らしてしまうとまるで意識しているみたいで──いや意識しているのは事実なんだけれど──気恥ずかしい沈黙が生まれてしまうことは想像に難くない。
だから僕は硬い声で聞き返すのが精一杯だ。
「あいす……だけど、え?」
「はぁ……全く、本当にぼーっとし過ぎ。ほら、ん! 私だけアイス食べてるのも悪いなって思って……だからその……分けてあげるって言ってるのよ」
意外な申し出に暫しポカーンとしてしまってから、僕は思わず微笑む。
何のことはない。彼女がその優しさと気遣いをいつものごとく向けてくれただけだったのだ。
だから全く緊張することなんて……あるよ! 馬鹿かよ僕! 理由がどうであれ普通に間接キスじゃないか!
「あ、ソウイウコトカ。アリガトウ」
「いえいえ。むしろ私がもっと早く気付いあげていればよかったのにってくらいなんだから」
緊張しすぎて宇宙人めいた発音になっていることなんて気にも留めず、アリスはふわりと笑う。
あぁ、可愛い……なんて純粋に見とれている場合じゃないって!
「もう、早くしなさいよ。あ、デートだからこうして欲しいってことなのかしら?」
「こうしてって?」
「はい、あーん」
状況が悪化した!
いや、意中の女の子にあーんされて嬉しくないわけないんだけれど。それでも躊躇いを覚えてしまうのは事実で。だから……。
そうしてまごついていると、アリスは焦れたように
「ほら、早く!」
「う、うん」
でもこれってどこからかぶりつくのが正解なんだろう。いや、舐めるべきなのか?
そんなふうにまだそれでもまごついていると、
「何? ストロベリー嫌いなの? だったら無理にとは言わないけど……」
「いや、そんなことないよ! 大好きさ!」
「だったら早くしなさいよ!」
「わ、わかってる」
「はい、あー」
「待って、ちょっと待って」
「そんなこと言ってるとほら、段々溶けてきてる!」
「わ、わかった。じゃ……じゃあ」
「はいあーん」
「あーん」
……ぱくっ。
やっとのことで口に入った一口は、とてつもなく甘くて冷たくて、そして仄かに暖かいレモンが香った。……というのはきっと幻想なのだろうけれど。
「やっと食べてくれた、ダーリン」
「────」
頬を染めて巫山戯るようにはにかんだアリスの表情はどうしようも無いほどに、暴力的なまでに魅力的で。
僕は数秒言葉を失う。
──「無反応だと恥ずかしいじゃない!」と赤い顔のまま理不尽につねられるのは、それからおよそ五秒後くらいのことだった。