子羊のパズル
風が、歌っていた。
今日は昼から雨。それも、近年稀に見る大雨です。傘を忘れないようにして下さい……。
大体そんなことを言っていた、今朝見たばかりの天気予報に悪態をつきたくなった。なにが昼から、だ。今にも降り出しそうじゃないか。そんな文句の一つや二つ言いたくなったが、言ったところでこの状況が改善されるわけではないから、黙って鞄を背負った。
「それじゃあ、行ってくるよ」
ドアを開けると、生ぬるい風が入り込んできた。湿気を多く含んだ風に不快感を覚える。すると音が聞こえたのか、多希が部屋の奥から駆けてきた。髪が中途半端にはねているところを見るに、髪をとかしていたところを慌てて中断したのだろう。
「兄さん、今日もまた帰り遅いんですか?」
「ああ、今日も部活で」
多希の眉間に一瞬皺が寄る。またですか、と瞳が訴えていた。一瞬、口が何か言いたげに開いて、閉じて、一拍置いてまた開いた。
「そうですか。晩御飯、机に置いておきますから。温めて食べてください」
冷静に言ったつもりだろうが、棘が隠しきれていなかった。滲み出るそれに気づかないフリをして僕は言う。
「ありがとう。いつもごめんな。いってきます」
ガチャリ。ドアの閉まる乾いた音は、今日という日の始まりを告げる音は、吹き荒れる風の中でも鮮明に聞こえた。立てかけている傘の中から適当に近くにあった一つを引き抜く。偶然にもそれは暗い紺色の、いつも愛用している傘だった。
傘を右手に二、三歩進んで、違和感に気づく。目線を足下へ向けると、昨日結びなおしたはずの靴紐がほどけていた。もうそろそろ買い替え時かな。ところどころ磨り減って、土で汚れたスニーカーを見つめながら、そんなことをぼんやりと思った。傘と荷物を下に降ろし、ボロボロの靴紐を結びなおす。力加減を間違えたら千切れてしまいそうだった。
赤子の手を握るようにゆるゆると靴紐をいじっていたら、ドアの向こうから声が聞こえてきた。靴紐をいじる手を止め、僅かに聞こえるそれに意識を研ぎ澄ます。
「美波、準備は出来た?傘はちゃんと持った?」
「うん!」
少女のよく通る高い声と、それに呼応する幼い少女の声。待ちきれない、と言わんばかりに幼い声の主は、美波は、言葉を紡ぐ。
「あのね、今日はね、幼稚園でみんなとね、お花の冠作るの!」
「そうなの?じゃあ、お姉ちゃんの分も作ってくれる?」
「つくるー!お姉ちゃんの分と、お兄ちゃんの分と、お父さんの分と、わたしの分!」
美波が必死に紡いだ拙い言葉に、柔らかな表情でうんうんと頷く多希の姿がありありと想像できた。その姿は想像でありながら、今の空のようにどんよりと曇った僕の心に光を射す。僕ではない誰かに向けられている優しさでありながら、まるで僕に向けられたかのような錯覚を引き起こす。
「頑張ってつくるね!」
「ふふっ、楽しみにしてるわね」
そこまで聞いて、僕はこんなことをしている場合じゃないと再び手元に意識を集中させた。
靴紐は相変わらず、美波の紡いだそれよりも脆く、千切れてしまいそうだった。
*
駅は相変わらず登校途中の学生でごった返していた。自分もこの状況を作り出している一人だと思うと、やるせなくなる。寒い、と甲高い声を上げるやけに丈の短いスカートを履いた女子高生を傍目に、僕は階段を上った。風は相変わらず気ままに歌っている。
孤独だと、毎朝駅のホームを訪れるたびに、思う。
世界という名の大きなパズルの、どこにはまるか分からないピース。繋がりたくて、でも誰と、どこで繋がれるのか分からなくて、一人床に置き去りにされている、欠片。その内なくされて、誰も知らない所で朽ちていく、破片。僕はきっと、そういう存在だ。
僕には母がいない。三年前、僕が中学二年生のときに離婚した。それ以来、父さんと妹二人と、四人で暮らしている。そう、家族というパズルにすら、僕ははまることが、繋がることが出来なかったのだ。
無理に押し込んだつもりはなかった。僕も、父さんも、母さんも、妹達も。でも、ピースは はじけ飛んでしまった。バラバラになってしまった。人一人分広くなったはずの家は窮屈で、息苦しかった。僕たちは家族だというのに、どこかぎこちなかった。どうすれば昔のように戻れるのだろう。そう問いかけたところで、何かが変わるとは到底思えなかった。
一度は光が射した今日の僕の心を、再び厚い雲が覆いかけていることに気がついた。このままではこの街より先に僕の心に雨が降ってしまう気がして、せめて、とばかりにポケットから取り出したイヤホンを耳に突っ込み、画面も見ずに選んだ曲を流してみた。が、周囲の声がかき消されることはなかった。むしろより一層、孤独の存在を意識させられてしまって、僕は途方にくれた。流れ出した前向きな歌詞と軽快なリズムは、僕の心を癒してはくれなかった。
電車が来たことを告げるアナウンスの声がホームに響く。僕は顔を上げ、ため息をついて、重い足を引きずりながら電車に乗り込んだ。
*
四限目の数学の授業が終わり、先生が教室を出て行ったのを確認してから僕は昼食の支度を始めた。今日の弁当は、多希が夕食のついでにと作ってくれたものだ。
「よっ、東」
弁当を広げていたら頭上から声が降ってきて、僕は顔を上げた。
「晴夜」
目の前の、小学生の頃から知っている見知った顔の名を呼ぶと、彼はいぶかしげな目でこちらの顔を覗き込んだ後、
「どうしたんだ、そんな思いつめた顔して。叶わぬ恋でもしたか?」
と、冗談交じりに聞いてきた。思わず過剰に反応する。いっそ叶わぬ恋だったらすっぱりと諦められたものを、と、叶わぬ恋をしたこともないくせに、だ。
「違うよ!家族の、父さんのことを考えていたんだ」
「あぁ」
僕の過剰な反応を気に留めるわけでもなく、晴夜は言った。
「元気か、東の親父さん」
晴夜は近くの席の適当な椅子に腰を下ろすと、僕の机の隅に弁当を広げだした。男子高校生二人分の弁当を広げるにはこの机は狭すぎたが、仕方ない。
「うん。昔よりだいぶやつれたけれどね。白髪も増えたし」
僕は卵焼きを箸でつつきながら言った。
「そうか」
晴夜は相槌を打ちながら、僕の箸の先のそれを見つめていた。あまりに目つきが真剣だったので、食べる?と問いかけたら、晴夜は黙って頷いた。僕は声もなく笑った。
「もうすぐ、父さんの誕生日なんだ。男手ひとつで三兄弟を育ててくれているから、何か出来たら良いなって」
今の僕の心に巣食うモヤモヤの原因は、毎朝感じる孤独の他にもう一つあった。
父さんの誕生日。それは本来おめでたい出来事で、祝福されるべきことであるのだが、今の僕達では祝福なんて出来そうになかった。特に、母への依存が強かった多希は。
現にここ三年、僕達は父さんはおろか、自分達の誕生日ですら祝っていなかった。多少なりの贈り物はする。だが、家族でどこかに出かけたり、なんてことは一度もない。
「なるほどね」
卵焼きを晴夜の弁当に入れてやったら、彼は目を子供のように輝かせながら、さんきゅ、と言った。昔から変わっていない彼の姿に、少しだけ安心する。
「でも、思いつかないんだ」
プチトマトを箸で転がしながら僕はぼやいた。びっくりするほど、僕の頭は空っぽだった。
「どうしたら父さんが喜んでくれるか、分からなくて」
あはは、と自嘲するように笑った声は乾ききっていて、僕は自分で発しておきながら驚いてしまった。ちらり、と晴夜の方を見やる。晴夜はもぐもぐと卵焼きを頬張りながら、しばし考えたような表情をしていたが、すぐにごくりと卵焼きを喉に流し込んで口を開いた。
「東が、一番やりたいことをすれば良いんじゃないか?」
「え?」
僕は素っ頓狂な声を上げた。
「それって、どういう」
「そのままの意味さ」
僕が最後まで言うのを待たずに晴夜は言った。わけが分からなくて僕はもう一度、
「えぇ?」
と、間の抜けた声を上げる。
「東が一番望んでいることって、何だよ?」
「それは」
晴夜の目は真剣だった。けれど決して、刺すような目ではなかった。責めるような目ではなかった。答えを急かすような目でもなかった。
「親が一番嬉しいのって、子供の笑顔を見ることだと思うんだよな」
笑顔。そう言われて僕はハッとした。この三年間、僕は家で笑ったことがあっただろうか?テレビを見て笑ったり、友人とのメールのやり取りの最中で笑うことはあった。けれど、家族で話していて笑ったことは?父さんの前で笑ったことは?自分の胸に問いかけて、その回数が数えるほどしかないことに気が付いて、僕は愕然とした。
「だから、東が喜んでいる顔、それが一番のプレゼントになると思うぜ」
「晴夜」
僕は目の前の、小学生のころからの親友に、心から感謝した。
なあ晴夜、お前、中二のころ、僕に「貴方は私の太陽です、ってロマンティックなラブレター貰っちゃったんだけど、どうしよう」って困り顔で相談してきたよな。あの時は、差出人の夢見がちな言葉の羅列に笑っちゃったけれど、今なら分かるよ。
晴夜、お前は太陽だ。何人もの人の心を照らす、太陽だよ、お前。
「ほら、笑顔は何よりの薬、って言うだろ?」
「何だよそれ」
聞いたこともない、と僕は笑った。
「でも、そうかもな」
「だろ~?」
ふふん、と得意げな顔をする太陽を傍目に、僕はずっと箸でいじくり回していたプチトマトをぽいと口に放り込んだ。心に影を落とす厚い雲が消えつつあるのが分かった。
その時、不意にチャイムが鳴った。
「ん?まだ昼休みの時間は終わりじゃねぇだろ?」
教室の天井近くの壁にかかった時計を見る。針は十二時五十分を指していて、授業の開始まではまだ余裕があるはずだった。
「誤報か?」
晴夜は白米にふりかけをかけながら言った。しかし、すぐに間違っていたのは僕達の方であったと知ることになる。
「連絡します。大雨洪水警報が発令されたため、午後は休校とします。生徒はすみやかに下校を始めてください。繰り返します……」
僕と晴夜はほぼ同時に窓の外を振り返った。真っ白だった。途端にザアザアと雨の音が聞こえてきた。今の今までまるで聞こえていなかったのが不思議なくらい、やかましかった。
「マジかよ。話に夢中で全然気づかなかったぜ」
「昼から雨とは聞いていたけれど」
僕は今朝見た天気予報と、今にも雨が降り出しそうな今朝の空を思い出していた。昼から、との予報が当たるとは思っていなかったから、少し、悔しかった。
「仕方ない、帰るか」
晴夜は一口しか食べられていないご飯に蓋をして、手早く帰り支度を始めた。僕もあとで食べよう、と唐揚げと野菜炒めがまだ残っている弁当に蓋をした。
教室は異例の事態にざわついているようだった。早く帰れる、と喜ぶものも居れば、こんな雨の中帰れるか、と嘆くものも居た。教科書濡れちゃったらどうしよう、と不安がるものも居れば、これからカラオケ行こうぜ、と騒ぐ命知らずも居た。
「帰ろうぜ、東」
鞄を片手に言う晴夜を見て、僕は慌てて教科書を鞄につめた。お先に、と言わんばかりにドアへと向かう彼の背を追って、僕はクラスメイトの間を潜り抜ける。
「あっ、東」
廊下でようやく追いついたころ、晴夜は思い出したように僕の名を呼んだ。
「なんだ?」
「あんまり一人で抱えるなよ。たった一人で、何でもする必要は無いんだからな」
僕はパチパチと目を瞬かせた。晴夜が困ったように笑う。
「お前は昔からなんでも一人で解決しようとするからさ」
なるほど、太陽は何でもお見通し、ってわけか。
「……あぁ、ありがとな」
僕はもう一度、目の前の、小学生のころからの親友に、心から感謝した。
*
バケツをひっくり返したかのような、酷い雨だった。
僕は一人、ホームで人の波が収まるのを待っていた。ひとつ前の駅で降りた晴夜は、今ごろ家に着いているのだろうか。
「酷いな、どしゃ降りだ」
誰に言うわけでもなく呟いた言葉は当てもなく虚空をさまよい、そのまま消えていった。返事など最初から求めていないそれが消えたことを悲観することもなく、僕は制服のポケットから携帯を取り出す。新着メール一件。
「近隣の小中高は全部休校、か」
と、いうことは多希も美波も帰っているのだろうか。濡れて、身体を冷やして、そこから風邪を引かなければ良いのだけれど。
僕は空を見上げた。僅かでも雨が弱まっていることを期待したが、むしろそれは強さを増したように見えた。僕はがくりとうなだれて、暗い紺色の傘を差した。
家まで後半分、その時点で既に傘はもはや役目を果たしているようには思えなかった。びっしょりと濡れたYシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。
東が一番望んでいることって、何だよ?
僕は足を速めながら、晴夜の言葉を心の中で何度も何度も繰り返していた。それは、とそこで言いよどんで、結局言えずじまいだった続きの言葉も添えて。
僕が一番望んでいること。そんなの、決まっている。
一歩 歩くごとにくたびれた靴に空いた穴から入ってきた水が、身体を少しずつ冷たくさせていく。夏も終盤とはいえ、まだまだ炎天下の日が続いているっていうのに、傘を持つ右腕は冷えきっている。鳥肌もたっている。
だから僕は急いだ。晴夜が照らしてくれた心がまた雲ってしまわぬうちに。心が冷えてしまう前に。バラバラになった家族のピースを繋ぎ合わせる術を掴めたと思っているうちに。
「ただいま」
部屋はまだ昼すぎだというのに暗かった。誰も居ないのか、という考えはバラバラに放り出された水色のシューズと、玄関の真ん中、一番目に付くところに積んであるバスタオルによってかき消された。鞄を床に降ろし、バスタオルで濡れた髪を拭く。
廊下の奥、リビングかすすり泣くような声が聞こえてきたのは、水を多く吸った靴下を脱ぎ、Yシャツのボタンを外そうとしていたときだった。
「美波?」
嫌な予感がした。ドクン、ドクンと心臓が危険信号を発している。それでも何かに引き寄せられるように、廊下が濡れることも気にせず、僕はリビングへと一直線に向かった。
「お兄ちゃん」
そこで美波は顔をくしゃくしゃに歪ませ、泣いていた。多希がすぐ隣で、濡れた制服を脱ぎすらせず立ち尽くしていた。俯いているせいで表情は見えない。僕は言った。
「多希、一体何が」
「お兄ちゃん、なんでわたしにはお母さんが居ないの?」
「えっ」
思いがけぬ方向から声が聞こえてきたことに驚いて、僕は視線を多希から声の聞こえた方向へと向けた。潤んだ瞳がこちらを見上げている。
「幼稚園でお花の冠作ってたら、なんでお母さんの分は無いのって聞かれて。お母さんはいないの、って言ったら、なんで?って聞かれて」
「美波」
大きな瞳から、また、ぽろんと雫がこぼれた。その雫は止まることなく、美波の頬を伝って雨のように床に落ちていく。
「ねぇなんで?なんでわたしにはお母さんがいないの?わたしも、お母さんがほしいよ」
「美波、それは」
どうしようもないことなんだ。なんで、だってそんなこと、僕が聞きたい。
思わずそう叫びかけて、僕はすんでのところで言葉を押し殺した。
父さんは、離婚の理由を教えてはくれなかった。ある日突然、父さんと母さんは別れることになった、と父さんは僕達に告げ、話を聞いた翌日の朝に母さんは家を出て行った。別れの言葉を告げる時間も、別れを惜しむ時間も、僕達には与えられなかった。
「いい加減にしてください」
「多希?」
僕は多希の方を振り返った。発せられた声は隠す気もない怒りが含まれていた。
「兄さんはいつもそうやって、母さんが居なくても平気な顔して」
「そんなことない!」
「だったら!なんで、なんでいつも帰ってきてくれないんですか!」
僕は唇をきつく噛んだ。美波の前でしか笑わない多希が、僕や父さんの前では滅多に感情をあらわにしない多希が、叫んでいる。自身のむき出しの感情を、生まれたありのままの感情を、僕にぶつけている。
「私、ずっと待っているんですよ。兄さんが帰ってくるのを、父さんが帰ってくるのを。美波と二人で、ずっと」
泣きそうな声だった。泣きそうな顔だった。眉は垂れ下がり、瞳の表面は濡れ、口は嗚咽を堪えようとしていびつに歪められている。
「多希」
多希も、僕と同じだったのだ。ずっと耐えていたのだ。孤独を。恐怖を。喪失感を。多希にとって美波は守るべき存在でありながら、同時に、唯一の支えでもあったのだ。
「なのに、それなのに、兄さんは、兄さんはっ」
今にも枷が外れたように泣き出しそうな多希を前に、僕は呆然と立ち尽くしていた。何をすることが多希にとって最善であるのか、今の僕には分からなかった。
ギシギシと床がきしむ音がして、僕は反射的に振り向く。
「東、多希、美波」
するとそこには、僕らをじっと見つめる父さんの姿があった。
「あっ」
「父さんっ」
多希と美波が驚いたように声を上げる。そして、ごしごしと涙を拭う美波を置いて、多希は父さんの横をすり抜け、二階へ続く階段を駆け上がっていってしまった。
「多希っ」
「東、待ちなさい」
「でもっ」
追いかけようとする僕を、父さんは道を塞ぐようにして制した。バタン、と勢いよくドアの閉まる音が聞こえる。僕は父さんを見やった。父さんはゆるくかぶりを振って、
「今は、一人にさせてやりなさい」
と、言った。僕は父さんから目を逸らした。
「美波も今日は疲れただろう。少し、向こうの部屋で休んでいなさい」
「うん」
美波は頷いて、隣の和室へと走り去っていった。自分は此処にいるべきではない、そう察したのだろう。その行動は年のわりに、大人びすぎているような気がした。
「東。少し、良いかい」
僕は美波の背中を目で追いながら、父さんの問いかけに無言で頷いた。
*
「東も、そこに座りなさい」
「うん」
向き合う形で椅子に腰掛け、僕は顔を上げる。父さんは穏やかな目で僕を見ていた。
「今日は、すまなかったな」
「いや」
それは優しい声と言うより、弱々しい声に聞こえた。
「多希には苦労かけたな。今年受験生だって言うのに、美波の世話から何から……。美波も美波で、寂しい思いをさせたな。まだ、五歳だっていうのに……」
父さんはため息をついて、誰に聞かせるわけでもない独り言のようにぼやいた。僕はそれを、一字一句として聞き漏らさないよう耳を傾ける。
「東、お前にも今まで苦労ばかりかけたな」
今までごめんな。辛かっただろう。
その言葉を聴いた瞬間、とても強い感情が、衝動が、こみ上げてきた。
「確かに、苦労することは沢山あったよ。けれど、それでも僕はこの家に生まれてきてよかったと思っている」
止まらなかった。止められなかった。言葉に出来ない強い想いが溢れてきて、僕は年甲斐もなく大声を張り、しゃくりあげるまで泣きそうになった。僕は必死に激しい衝動を堪えて、
「ありがとう、父さん」
と、言い切った。父さんは呆気にとられたようになにも言わなかった。ただ黙って、僕を見ていた。じっと、見ていた。
「礼を言うのは父さんのほうだ」
しばらくして父さんは口を開いて、笑おうとして、失敗した。上手く笑えない自分を叱咤するように口元を歪ませて、父さんは言う。
「ありがとう。東も多希も美波も、立派に育ってくれて、本当にありがとう」
ありがとう。もう一度父さんは言った。噛み締めるように、深く頷きながら。
父さんは右腕を伸ばして、机の隅に置かれている白い花冠を手に取った。
「この花冠は、美波が作ってくれたのかい」
「そうだよ」
顔も見ずに僕は言った。見られそうになかった。見たら、抑えていた感情が爆発してしまう気がした。
「そうか。母さんも東と多希が小さい頃、よく作ってあげていた。覚えているかい」
「うん」
こくり、と僕は頷いた。家から歩いて五分、十分のところにある広い野原。そこに出かけては、母さんは僕と多希に花冠を作ってくれた。それは美波の命が腹に宿った後も同じだった。母さんは暇を見つけては僕達を野原へと連れ出し、飽きもせずにせっせと花冠を作っていた。綺麗なのはその場限りだというのに丁寧に編みこむ母の姿は、今でも脳裏に焼きついている。
「母さん、ピアノもよく弾いてくれたよね」
「ああ。よく覚えているな」
父さんは感心しているようだった。だから、僕は付け足した。
「母さんがいつも弾いてくれた曲、多希も、よく弾いているからさ」
「そうか、そうか」
トロイメライ。以前、曲名をたずねたら多希はそっけなくそう答えた。
夜、ちょうど布団に入るころに流れてきた曲。幼いころの僕は、目を閉じてそれを聞いているうちに夢の世界へといざなわれていた。母さんが弾いているのだと、そう知ったのは小学三年生のころだったか、四年生のころだったか。
花冠もピアノも、母さんが確かにここに居たという証であり、それは確実に根を張り、息づいている。存在している。受け継がれている。
「間違っていたのは、父さんのほうだったらしいな」
「え?」
僕はこの日初めて、父さんの顔をまじまじと見つめた。昔より艶を失っていると記憶していた肌と髪は、さらに艶を失くしていた。
「今まで、母さんのことを忘れることが、それがお前たちにとって一番良いと思っていた。 そうすれば、また昔のように戻れると思っていた」
父さんは目を細めた。それは全てを諦めた表情に見えた。
再び強い感情が込み上げてきて、僕はそれに抗うことなく叫んだ。
「父さんだけじゃない。多希も、美波も、僕も、みんな戻ろうとしていた」
父さんは、過去を消すことによって。
美波は、居ない寂しさを忘れることによって。
多希は、空いた分を自分が母となり埋めることによって。
そして僕は、再び家族が繋がる方法を探すことによって。
「父さんと方法こそ違っていても、やろうとしていたことは皆同じだ」
みんな探していた。みんな求めていた。空白を埋める術を。バラバラになった僕達を再び繋ぐ術を。
「ねぇ、皆でまた、やり直そう」
込み上げた感情を思い切りぶつけた反動で、全身からドッと力が抜けて、僕はふにゃりと情けなく笑った。
「母さんが居た頃には戻れないけれど、新しく作っていくことはいくらでも出来る」
ああ、なんて不器用なんだろう。みんな最初から、目指しているものはたった一つ、同じものだったのだ。
「今からでも、間に合うかな」
「大丈夫だよ、きっと」
顔を曇らせる父さんに、僕はそう言いきった。根拠も、確実性もないけれど、言いきった。どこからか沸いてきた自信が、僕に強くそう言わせた。
「だって僕たちは、家族なんだから」
*
感嘆のため息が漏れるほどに、清々しい朝だった。嵐は一晩のうちに過ぎ去り、雲ひとつない青空に眩しいほどに輝く太陽が浮かんでいた。
「ねぇ、来週末に家族みんなで出かけない?」
「なんですか、急に」
多希は怪訝そうな顔で僕を睨んだ。目元がうっすら赤くなっていることに気が付いたが、僕は何も言わず話を続けた。
「父さん、もうすぐ誕生日だろ。だから、みんなで祝おうと思って。何事もたまには息抜きしないと、な?ほら、笑顔は何よりの薬って言うし」
僕は晴夜が言っていた、ありもしない言葉を受け売りした。多希の目つきが一層鋭くなる。
「そうだな」
多希の目つきに気づいたのか気づいていないのか、のんびりとした口調で父さんは言った。
「思い返してみれば長い間、家族全員で出かけていなかったな」
一年、二年、それ以上か?指折り数えて回想にふける父さんの言葉に、美波がパアッと顔を輝かせて言う。
「みんなでお出かけ?行く!行く!わたし、水族館が良いな!ペンギンさん見るの!」
手足をばたつかせて待ちきれないと言う妹に、思わず笑みがこぼれた。
「多希は?」
くるりと多希の方へ向き直りたずねると、美波の姿にほだされたのか表情を緩ませ
「別に。勉強の息抜きになるなら、何処でも良いです」
と言った。僕は父さんのほうを向いた。父さんが、よし、と言わんばかりに頷いた。
「それじゃあ、ミナミの言うとおり、水族館に行こうか」
「わーい!ペンギンさん!ペンギンさん!」
はしゃぐ美波、やれやれと言うように微笑む多希、それを見て笑う僕と父さん。目指していた理想に限りなく近い光景がそこにはあった。
時間は戻らないし、無かったことにも出来ない。でも、やり直すことは何度だって出来る。世界とは、家族とは、人生とは、そういうものだと、僕は信じている。
僕は窓の外に広がる青を仰ぎながら、心の中で呟いた。
家族の形は、一つじゃないから。
終
(初出:2013.08.23)