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執筆モードへの移行にはそれぞれが設定した『キーワード』が必要となるが、このハトの場合、それは……
【さあ、ハトが出ますよ】
羽がばさばさと架空のキーボードを叩く。デジタルの風がふわりと青ねずみ色の体を包み込んだ。
【金の髪がさらりと揺れる。長躯にふさわしく、手足はすらりと……】
「いい男に書きすぎだ、エミーリオさんッ! それじゃ兄さんに解ってもらえないッ!」
「解った! 師匠にも解りやすい要素を加えようッ!」
【右手には使い込まれた湯きりかご、頭にきりりと巻いたタオル、そして黒いTシャツの背中に白でまぶしく染め抜かれたのは彼の店の名前だ】
「ラーメン屋かッ!」
「ああ、師匠が俺にくれた設定だッ!」
「それで! 境目にはどうやって行くのッ?」
「あせるなワンちゃん、ちゃんと考えてあるッ!」
【二人は今、ファンタジー区画とエッセイ区画の境目にいた。】
酒場の風景は溶解するように消えうせる。
男と犬は、空間さえも灰色に染めあげられたのではないかと錯覚するほど荒れ果てた、草一つない砂利混じりの荒地に立っていた。
「ここが……境目?」
ジョンは少し鼻先を上げて空気の匂いをかぐ。まったく無機質で構成されたここは無臭であり、それが逆に不安をあおった。
それでも風は吹く。
静かに吹く風が運ぶその匂いを、ジョンはかぎ逃したりはしなかった。思わず叫ぶ。
「兄さんの匂いだッ!」
「本当か!」
「間違いないよ、お酒を飲んだ後の匂いだッ!」
「化け物になっても酒飲みなのか……」
しかし、それは二人にとっては希望でもあった。人間であったころの嗜好が残っているのなら、人間らしい思考も残っているのかも知れない。
「兄さんッ! いるなら出てきてッ!」
しかし声は、反響するものすらない荒野にむなしく散った。
「兄さん、兄さんッ!」
「待て、迂闊に動くな!」
「だって、兄さんがいるッ!」
走り出したジョンの目の前に、突如せりあがる灰色の壁!
「きゃいん!」
いや、壁と思ったのは無数の触手が絡まり、つぼみのように閉じた姿であった。
「兄さん、兄さんだねッ!」
はしゃぐジョンの目の前で、触手は開く。わさわさと揺れる悪花が開ききると、その中心にうずくまっていた人物がゆっくりと立ち上がった。
エミーリオは少し目を細めて、その正体を見極めようとする。
「子供?」
彼は仮想の姿をそのまま信じるほど馬鹿ではない。それでも、やっと中学生になろうかという年頃の少女は、害なす存在とは思えなかった。
「師匠好みだな」
体つきは細身で小柄。髪は明るい緑色で、その下にくりっと動く瞳もグリーン。シンプルな形の、そっけないワンピースから覗く手足も細く、胸元の未発達な感じが初々しい色気を放っていた。
犬が吠える。
「エミーリオさん、騙されちゃダメだ! それは小波さんだッ!」
少女は口の端だけをあげて、いかにも小生意気そうな笑みを浮かべた。
「騙すなんて、人聞きの悪い。この格好でいると、触手ちゃんが優しくしてくれるから、仕方なくなのよ?」
その言葉を裏付けるかのように触手がうごめいて、少女の体を抱え上げる。触手の一本は、するりとスカートの中にもぐりこんだ。
「め! お仕置きするわよ!」
きゅきゅきゅっと縮み上がった触手が震え、うごめく触腕の中心から声が響く。
「……オシオキ……コワイ……ゴメンナサイ……スル」
「そうよ、いい子ね~」
「ショクシュ、イイコ……」
かつての師の、あまりに不甲斐ない姿。エミーリオは、小波をにらみつける。
「師匠を返せ!」
少女は巻きついてくる触手の先を弄びながら、その男を見下ろした。
「『返せ』なんていわれる筋合いはないわね。この子は私が構築したんだから」
「構築……だと……?」
「そうよ。彼がNAROWシステムの仮運用中に事故死したことは知っているわね」
他の利用者達は知らぬだろうが、一番弟子であったエミーリオは知っている。その男はナロー世界を構築するための実験に参加し、死んだ。




