2話
そんな都市に住む一人の少年、柏原隆太は心地よい空間の中にいた。ふわふわと体が浮いているような、ありとあらゆるしがらみから解放されているような感覚。
「―――っ、―――!」
どこか遠くから、聞いた事のある声が聞こえてきているのを感じていた。こちらに起きよ、と命令している。なんとなく、そんな気がした。
強い光が顔を焼いている事から、朝が来ていることが分かった。しかし朝の布団には魔力に似たものがあり、それは毎日等しく、誰であろうと牙を剥く。なんとかそれに抗おうと、僅かに聞こえてくるその声に縋ろうとするも、意識は深みへ堕ちていく。
「―――い、お―――てー」
ドンドン、と入っているカプセルを叩く音が響いている。言葉も少しずつ聞こえ始めた。もっとも抗いがたい微睡みの始まりだ。
あと5分だけでも、と隆太は現実から目を背けるように体の向きを変える。
「起きないかー……なら」
続いてガチャッ、という嫌な音。
その後、空気の抜けるような音が聞こえた後に、隆太に差し込む光が増した。
(あ、嫌な予感……)
「強制的に起こしちゃうよー!!」
瞬間、隆太の体は浮遊感に包まれた。
「うわああああああああああ!?!?」
落ちている。
どうい打ち付けられた腰が鈍く痛んだ。
「え、なになに!?何なの!?」
文字通り急転直下の超展開。隆太は驚き、微睡みに細められていた目を見開いた。
視界が猛スピードで回っていた。回る回る、ついでに胃の中身も回る回る。
(は、吐く!胃の中身全部ぶちまけちゃう!?)
中身がシェイクされる嫌悪感をひたすら堪え、地獄の終わりが来るのを祈り続ける隆太。すると、後頭部への痛烈な衝撃と、頭蓋骨が砕けたかと思うほどの痛みを伴ってそれは訪れた。
「うぐっ!?いっ、てててて……」
少しずつ引いていく痛みと引換に浮かんできた涙をぬぐい、寝起きでぼやける視界のフォーカスを合わせる。すると、いつも見ている少女の顔が映った。
窓から差し込む朝日に照らされて輝く髪は肩まで伸び、リスを連想しそうなパッチリとした瞳は髪と同じ深い茶色。それが隆太の瞳を覗き込んでいる。それも、鼻が当たりそうなくらいの至近距離で。
「って近いよ!?」
「むー、何さ!そんな事気にする仲じゃないでしょー」
そう言う少女、遠里ゆらは、隆太の言葉に不満を覚えたか頬をぷくーっとふくらませた。その顔は本当にリスのようだ。
「ゆ、ゆらもそろそろ年頃なんだから、もっと恥じらいを……」
「気にしない気にしない! 今までずっと一緒だったもん、これからも別にいいでしょ?」
「僕は気にしたいんだけど!?」
「アハハ」
「笑ってごまかす気だな!?」
思わず許してしまいそうになるような、底抜けに明るい笑みを満面に浮かべるゆら。隆太は許そうと囁く誘惑に負けぬよう、士気を上げる為に猛獣よろしくグルルルと唸り声を上げて睨みつける。
一度ガツン、と言ってやらねばなるまい。隆太は自分の意思を再確認した。
しかし、こうやってギャーギャー騒いでいても話は進展せず、ただ今日一日を過ごすためのエネルギーが消費されるのみであり、この状況は隆太にとって損な事しかない。今日もやっぱりこういうパターンで諦めるんだな、と隆太は一つの溜息と共にこの後叫ぼうとしていた言葉も吐き出し、未だケラケラと笑い続けているゆらに声をかけた。
「……で、何さ。朝からいきなり」
「何かって!?そりゃ他でもないよ!」
そう言葉を放つゆらはまた叫び、隆太に大量の唾を飛ばしながら勢いよく立ち上がった。声を上げた時至近距離で吐息がかかったが、ドキドキなど皆無であった。
また叫ぶのか、大きく息を吸い込む。その予備動作を見て、隆太は言葉が放たれる前に声が少し聞こえる程度に耳を塞いだ。
「おはよーりゅーた!今日から高校生だね、頑張っていこー!!」
「おはよう、ゆら。今日も相変わらず元気だね、頑張れる気がしないよ……」
「ふっふっふ……私が元気じゃなかったり、静かだったりしたら、それはもう世界の終わりと同等の意味を持つって言われてるからね。父さんに!」
「お父さんも大変だね……」
常に掘削工事現場レベルの騒音に晒され続けているゆらのお父さんに同情の念を禁じえない隆太。目頭を押さえながらそう言うが、しかしそんな皮肉を気にするでもなく、ゆらはむしろ得意気な表情である。
「ふふん」
「いや反省しようよ!?」
「後悔しても世界は変わらない、だから私は過去を省みない!」
「なんか格好良い……いや駄目だ、駄目な思考だ!」
「でもさーりゅーた。私が5秒に一回のペースで溜息を量産してたら、りゅーただって心配するでしょ?」
電力換算すれば5000wクラスの笑顔を浮かべて、ゆらはそう言った。
(まあ、確かに……)
「……そりゃ、そうかもね」
「だからいいの!……あ、そろそろ朝ごはんができるから呼んできてって言われたんだっけ。じゃ、そういう事だから、着替えて降りてきてねー!」
「あ、ちょっと待って!」
そう言葉を残して、ゆらは部屋を出ていこうとする。そこに、隆太は声を掛けた。必ず、聞かなければならない事があったからだ。
隆太の声に、ゆらは素直に振り返る。
「ん?何さ?」
「……このカプセルさあ、ロック掛けてたんだけど。暗証番号で、しかも7桁。どうやって開けたの?」
「え?ハッキングしただけだよ?」
ゆらは晴れやかな笑顔でそう言った。
いつからだったかは分からない。ゆらにカプセルを無理やり開けられ、たたき起こされる毎日を送っていた隆太。いい加減うんざりしていたのと単純に体調が悪くなったことで、なんとか睡眠時間を確保しなければと決意した隆太はカプセルに暗証番号を設定しようと考えた。内側からは開ける事ができるため、特に気にする事はなく、考えたその日のうちに設定した。そしてその日はぐっすりと眠る事が出来た。寝ている間ガッチャガッチャと耳元で聞こえてきているのが少しうるさかったが、朝早くにたたき起こされるよりは数倍マシだった。
それから数日間、ずっと気持ちよく眠る事が出来た。ようするに数日のみのことだった。
いきなり、ハッキングの方法を覚えたのだ。SCの科学力は凄まじい。そんじょそこらの一女子が片手間にハッキングできるようなセキュリティではないはずなのだ。なのに、当然のようにやってのけた。最初は4桁であったが、それから5、6、7と増やしても効果はなし。今は最早形だけのものとなっていた。
いつからこのような能力を持ったのか、とこめかみを揉む隆太の前を、ゆらは笑いながら疾風の如く部屋から走り去っていくのだった。
部屋に一人取り残された隆太は、今日何度目か分からない溜息をついた。まだ朝、それも始まったばかりなのに、もう3回は溜息をついている。ただでさえ朝から騒音&睡魔との激闘によって疲れているというのに、あと何回諦めと疲れを込めた息を吐き出さなければならないのか、と思うと暗澹たる気分が増したような気がした。
これで最後にしようという悲愴な決意を込めてもう一回息を吐き出し、体を起こす。そのまま、ほんの数分前まで寝っ転がっていたカプセルベッドに近づき、入れられたままの空調設定をオフに。代わりに除菌モードをONにする。すると触ってもないのにカプセルが閉じられる。
空調の恩恵によって寝汗など染み込んでいない乾ききった寝巻きを脱ぐ。そのまま、着慣れた制服に手を伸ばす……
「あれ……?」
その時少しの違和感を覚え、隆太は思わず手を止めた。
なんだろう、と首を捻る。答えはすぐに見つかった。
(あ、制服が変わったんだ)
さっきのゆらの言葉、今日から高校生活の始まり。つまり今日は4月5日であり、中学校生活の苦労を忘れ堕落の限りを極めた春休みが過ぎ去り、次いで花の青春時代と称される高校生活が訪れたのだという事。隆太は溜息こそつかなかったが、小さく肩を竦めた。
「あー、終わっちゃったか。春休み」
少し記憶を掘り返すだけで、何の苦労もなく春休みの思い出がゴロゴロと出てくる。隆太ゆら、そしてもう一人の親友、北方カイ。三人で同じ高校に入ろうと約束し、互いに励ましあいながら努力し、合格したときは泣きながら抱き合った。そこからは鬱憤を晴らすかのように遊び呆けた。
しかし、そんな夢のような時間も過ぎ去ってしまった。時は旅人とはよく言ったものである。松尾芭蕉先生は流石だ、故人の偉大さを思い知る隆太であった。
そして、違和感の正体は……
「そうか、高校はブレザーなんだな」
であった。
中学校は詰襟だったのだと思うと、少し大人になったような気分になる。個人的にはネクタイが特別だった。ブレザーにスーツ、年上の人が着ている服の大半にはネクタイが付いている。それを考慮すると、やはり大人の象徴と言ってもよい気がした。
でも遠くない未来に着替えが面倒になるんだろうな、と思いつつカッターシャツに腕を通し、ズボンを履いてベルトを巻く。そして、何度も何度も練習したネクタイの締め方に従い、ようやく着替え完了。
「んじゃ、行こうかな……っと。忘れるところだった」
向こうから僅かに漂ってくるベーコンの焼ける匂いにつられるように部屋を出ようとした隆太だったが、視界に一瞬映った輝きによって行動が中断される。
隆太の足を止めたのは、古ぼけた小さな写真立てだった。周りの近未来的な機材の中で、浮いている木製のそれ。
「……よ、っと」
その前で膝を折り、正座で座り込む。飾られた写真の中では一組の夫婦と一人の少年が楽しそうに、桜の木の下で笑っている。それを見て、隆太も一緒になって笑う。
「もう、五年になるのか」
誰もいない空間で、隆太は一人呟く。
「父さん、母さん。僕、もう高校生になったんだよ?……相変わらず、背は伸びないけどさ……」
笑い混じりで言う。
「びっくりしたんだよ?いきなり、あなたのご両親は亡くなられましたって言われてさ。しかも、お姿はお見せできませんとか言われるし。ほんと、どんな死に方したんだよって。でも、ほんとに帰ってこないから、死んだんだろうけど」
意思の宿っている、なんて曰く付きの写真ではなく、これはただの写真である。当然ながら、普通の写真に語りかけた所で、応えが返ってくる訳もない。
「二人共、離れ離れになってない?……って、僕を置いて二人で旅行に行くくらいラブラブだったんだから、そんな訳もないか。しかもそこで、二人揃って死んじゃうんだから折り紙つきってやつかな」
ただ、中の人間が笑うのみだ。
「まあ、それなりには頑張ってるからさ。心配しないで。病気ももう治ったし。天国の父さんと母さんは心配してたかもしれないけど、もう大丈夫。ピンピンしてるよ」
…………
「………また、夢でもいいから出てきてよ。待ってるからさ。……じゃあね」
言うだけ言って隆太は立ち上がり、写真立てに背を向ける。そしてリビングへと歩き出し……一度だけ振り返って、今度こそ部屋を出た。