一話:問題提起
あなたの特徴はなんですか?誰しも聞かれた事がある質問であり、答えに窮する厄介な質問でもある。
では自己の特徴を説明しようした時にあなたは自分のしてきたこと考えてきたことを振り返り、他人と比較して自分は何てちっぽけで誇るべきものは無いのだろうと自己嫌悪に陥かもしれない。隣の芝生は青いという諺もあるくらいだ、昔の人々も大いに悩んでいたのだろう。
友人に自分の特徴はなにかと聞くと、「うーん、元気なところ?」や「協調性があるところかな」、「真面目な所だと思う」と月並みな答えが返ってくる。
しかし、考えてみるとそれは誰にでも当てはまることではないだろうか?世の中には元気な人も協調性がある人も真面目な奴なぞわんさかいる。
この考察にそれは他人と自己を比較するからそういった卑屈な考えになるのだと反論される方もいるだろう。
ならば考えてみて欲しい。仮に世界に人間はあなた一人だけとしよう。君は君の特徴を上げられるだろうか?『元気なところ』『協調性』『真面目』。さあ何を以ってそれを述べる?
物事を知る上で比較は実に有意義な方法であり、私たちに客観的尺度を与えてくれる。モノとモノを比べその差は違いであり、特徴にもなり得る。つまり比較対象する相手が無くては私たちは満足に自分を語ることはできないだろう。
ではもう一つ。もし、君の周囲の人物が全て遥かに優秀だとしたら?自分よりも遥かに元気で強調性があり真面目だとする。
するとこう考えるだろう。「自分はなんてつまらない人間なのだろう」と。
尺度というのは一定ではない。比較する対象物によって導き出される結果は大きく異なるのだ。少し卑しい考え方をするならば、自分より劣る者がいるから自分という者が述べられるのかもしれない。
尺度の変化によってその特徴が大いに変動すると言うのであるならば自分をどう現すか。いや、そのような事ができるのか?いやそもそもそれをする必要があるのか?
残念ながら社会という人と人が顔を付き合わせる空間で暮らす以上避けては通れないことだ。勉強で受験で就活で常に競争して上を目指さなければいけない。学校は勉強やスポーツが出来る者を欲し、企業も少しでも優秀な人材を探して我々にそれを要求してくる。
しかし比べなければ自己を見出せず、尺度が異なれば今まで考えてきたものは変わる我々はその事で苦しみ生きていかなければならない。もちろん世の中には毎日を充実に過ごしているという人はいるだろうが、それで解決するというものではないということもまたしかり。
この朧で霞のような輪郭を持つ私を形作るもの。それは一体なんなのであろうか?