玉子焼き、ホットチョコレート、高級羊羹 尚と平太
一方、尚はミナが通っている農業高校へ進学した。
父に似て背が低く丸顔のミナと、祖母の兄似で背が高く細い目元の尚が一緒に登校する姿を、最初は物珍し気に生徒たちは見ていたもののすぐに慣れた。
そしてある日、ミナが『サンショウ』とあだ名で呼ばれていることを尚は耳にした。
「山椒大夫? それともサンショウウオ?」
「ぜんぜん違う。小粒でピリリの方だよ」
「へえ……」
同級生の井上平太からの情報だが、理由を本人に直接尋ねてみると、姉は「ふふ」と唇の端を器用に上げたきり、がんとして答えない。
後日姉が見た目に反して剛腕で、舐めてかかると百倍返しされると恐れられているのを知り、無神経なことを聞いたと後悔した。
「またやっちまった……」
電車の中で、ミナはうなだれていた。
少しイキっている新任教師を授業中にやり込めて涙目にさせてしまったらしい。
ミナの二つ名は『山椒』から死神の名を冠する唐辛子『キャロライナ・リーパー』へ昇格した。
「まあ……。そもそもあの先生贔屓と弄りが酷くて評判悪いって聞いてるし」
「ちなみに私は贔屓されない方でさ。それは全然構わないんだけど……」
大人しい生徒を弄る教師が許せないミナの口が火を噴いた。
姉は正義感が強く時々暴走してしまっては、帰りの電車で反省会をする。
「尚。今年からはあんたがいて良かったわ」
「そう言ってくれるなら、有難いけど」
「ところで、情報源は誰よ」
「うん。平太」
「井上平太? またアイツかあ……」
「うん。いいやつだよ」
車両が一つしかない小さな電車は集落を目指してカタタンカタタンと軽やかな音をたてて進んだ。
「尚んちの弁当、いつ見てもうまそうだな」
学食で向かいに座る井上平太が、定食を食べながら心底羨ましそうな顔をした。
彼は奨学金を貰いながら学ぶ寮生で、実家は他県だ。
なんとなく、家族とあまり仲が良くないようだと薄々感じている。
「食うか?」
「うわ、いいの? じゃあ、その玉子焼きとこっちの何かを交換しよ!」
一口食べると、大声を上げて喜んだ。
「うまーい。ほんっと、すごくうまい!」
帰宅して祖母に平太の話をすると、「一度連れておいで」と言われた。
翌日彼に打診してみると二つ返事で週末にやって来た。
「すげー、山ん中なのに、海が見える」
平太はまず庭からの景色に感激した後、甥たちと仲良くなった。
『へーちゃん』と呼ばれるのがまんざらでもないらしく、追いかけっこしたり、田畑について行って野良仕事を手伝ってくれたりと大活躍だった。
「ほんとすげーな。ここって桃源郷ってやつみたいだな」
当初は暗くなる前に駅へ送る予定だったが、祖母が寮に連絡を入れて泊まることになった。
人付き合いの上手い平太はすっかり柚木家に馴染み、言づてを持って来たミナが「なんか兄弟が増えてる」と目を丸くすると、「へへ。末っ子で~す」と得意げな顔をした。
その日を境に、平太は週末や長期休暇は柚木家で過ごすようになった。
正月も実家へ帰らない徹底ぶりに、両親は顔を見合わせたが、「そっとしといておやり」と祖母が言い、泰明たちもそれに倣った。
時々里帰りしてくるアユや健ともすぐに打ち解け、土産は必ず平太の分も含まれるようになった。
農作業も家事も手伝い、甥たちの相手をして、尚の部屋で寝起きする。
本当に平太は最初から家族だったのではないかと、尚も錯覚してしまいそうになるくらい一緒にいた。
「なあ尚。『猫の浄瑠璃』って話知ってるか」
三年生の春。尚の部屋で向かい合って試験勉強をしている時に、平太が話しかけてきた。
「いや、知らないな。漫画か何かか」
「うーん。昔話かな。ずいぶん前に図書館で読んだんだよ。題名もうろ覚えなんだけどさ」
ノートから顔をあげると、平太は続けた。
「夏休みで家にいたくなくてさ。宿題やるって図書館行ったけどなんか飽きて、あちこちぶらぶらしていたら見つけたんだよ。猫ばっかり出てくる昔話の。雑誌だったのかな。冊子って言うのかな。なんか大きくて薄かった」
その本は西日に染まるひとけのない書棚にあった。
本の背が斜めにはみ出ていたので引っ張り出すと、目の鋭い黄色の猫の顔が大きく描かれていて、血のように赤い口が少し不気味だった。
だが猫が好きな平太は内容が気になってめくってみたる事にした。
明らかに大人向けの体裁で書かれた本は難しく読みづらかったが、ふとある話に目が留まった。
それは、猫が浄瑠璃を演じて見せる話。猫が出るのに可愛らしいどころかハードモードで始まり、身も凍るバッドエンドだった。
「主人公は嫁ぎ先で毎日暴力を受けながらこき使われる可哀想な若い女でさ」
平太は語り出す。
「集落に浄瑠璃の一座が来たって姑と小姑と旦那が大はしゃぎで観に出かけるところを、自分も行きたいと嫁が勇気を出して頼んだら、お前は仕事しろってボコボコに殴ってさ」
取り残された女が泣いていると猫がすり寄り、『どうして泣いているのか』と人間の言葉を話しかけてきた。女は不思議に思いながらも、浄瑠璃を見たことがないから自分も行ってみたかったと答えると、猫はそれなら自分が聞かせてやろうかと言い出した。
是非にと喜ぶ女に猫は条件を出す。それは、猫が浄瑠璃を唄ったことは誰にも言ってはならぬ。約束を破ると死ぬ事になるだろうと。
女が約束すると、猫は唄い出す。それはとてもとても美しく、嫁は大喜びで拍手した。
ところが運悪くそこへ姑と小姑が帰宅して、『今、お前は何をしていた。浄瑠璃らしきものが聞こえたぞ。知らないと言ったではないか。嘘つきめ』と嫁を折檻した。
激しい暴力に耐えかねた女は、ついに白状してしまう。
『ね、ねこが…』
「それで、その猫が女の喉笛を掻き切って風のように走り去って、女は死んだってわけ」
「そりゃ……。すごい話だな」
「うん、すごいだろう。もうさ、ちょうどカラスがカーって鳴いて、本当にとんだホラーな夏休みだよ」
ふうと、息をついて平太は両手を膝に置く。
「……まんま、俺の母ちゃんだなと思ってさ。とはいえ殺される前に逃げてったけどな」
「ああ……」
今まで一度も平太は家庭の事情を口にしなかった。でも本当は聞いて欲しかったのかもしれないと、尚は今更思う。
「あのさ。俺の母ちゃんは金で買った嫁でさ」
値段なりの働きをしろとさんざんこき使ったところ、平太が小学校に上がる前の冬に国外逃亡したと、平太は言う。
「ちょうど福引で温泉旅行が当たってさ。そんで親父とババアとオバがウキウキ行っちまって、俺と母ちゃんは留守番。ケチだよな」
三人がいない家はとても静かで、平和で。 平太はこれがずっと続けばよいのにと思った。 嬉しくてまとわりつく平太の頭をなでて、母はカタコトの日本語で笑った。
『オイシイ、オヤツ。イッパイ、アルヨ、ヘイチャン』
いつも暗くて怖い顔ばかりの母が、歯を見せて笑っている。
ずっと笑って欲しいと思っていたが、平太は母の急変になぜか菓子の家へ子どもたちを誘う魔女を頭に思い浮かべた。
そして次に目を開けたら、罵り合う父たちが家にいた。平太はいつの間にか布団に寝かされていて、なんと翌日の夕方になっていた。
驚いたことに母は平太に一服盛って眠らせ、出奔していた。
三人が隠し合っていたへそくりをごっそり持ち出し、叔母のよそ行きの服を着て出ていったらしい。
ついでに居間の梁に掲げていた先祖たちの写真と、父の男性向けのお宝が空き地でまとめて焼かれていたらしく、最後は全員その場にへたり込んだ。
母は入念に準備をしていたらしく、捕まらなかった。
平太に残されたのは、最後の晩餐ならぬ最後のお茶会の記憶だけだ。
『パーティ、スルヨ』
普段平太と母には禁止されていた袋菓子を母は次々と出して開封し、炬燵いっぱいに広げたそれらを二人は両手でわしづかみにして次々と口に詰め込んで、思いっきり笑った。
『おいしいね。おいしいね、かあちゃん』
『ウン。オイシイネ、ヘイチャン』
やがて母が台所に立ち、鼻歌交じりで火にかけた小鍋へ牛乳を注いだ。
『ミテ、オイシイノ、ツクルヨ』
温まって独特の香りを放ち始めた牛乳に叔母の秘蔵のチョコレートを砕いて入れる。
白い液体の中に落とされた茶色の塊がゆっくりゆっくり溶けて台所はチョコレートの匂いでいっぱいになった。
『オイシクナル、マホウ』
砂糖と、父が居間に飾っていた茶色の液体が入った瓶を開け、それをちょろりと加えた。
『デキアガリ』
カップに注がれた飲み物を促されて飲んだ。幼稚園でおやつに飲むミロと似ているけれど、全然違う。とてもとても甘くてちょっと苦くて。大人の仲間入りをした気分になった。
『かあちゃん、すごくおいしいよ。かあちゃんすごい、まほうつかいだ。かあちゃん、だいすき。あのね、かあちゃん……』
うれしくて、たくさんしゃべった。
あの時、母がどんな表情を浮かべていたのか思い出せない。
ただ、口の中に甘いチョコレートの味がいっぱいに広がって、とてもしあわせで楽しかった。
「今にして思うとさ。母ちゃんは俺を殺しにかかっていたのかもしれないな」
「いや……。それはどうだろうな」
想像以上の話に、かける言葉がない。
「ババアがため込んでた睡眠薬を親父のブランデーと混ぜて幼児に飲ませるって。鬼だろ」
「ブランデーだったのか」
「うん。アンモナイトみたいな形の瓶だったからすぐにわかった」
「そうか……」
「まあ、今となってはどうでもいいけどさ。俺もあの家嫌いだし。あのホットチョコレートめちゃくちゃ美味かった。だから母ちゃんはもういいや。多分どっかで生きてるだろ」
口調は明るいが、表情が一致していない。じっと平太の顔を見つめると、口と喉元がひくひくと震えているのに気付いた。
「……ってか。この際言うけど、俺、尚が憎たらしくて、めちゃくちゃ羨ましい」
「……は?」
平太は目に力を入れて泣くまいとしているようだが、鼻から鼻水が出て慌てて袖で拭う。
「なんかさあ。いいよなあ、尚は。ここんちの子で。俺もここんちの子に生まれたかったなあ……」
ぐすぐすと鼻を鳴らす平太へ、尚はとりあえずティッシュボックスを渡す。
「尚は贅沢なんだよ。すっごく恵まれてんのに、いっつもつまらなそうな顔してさ」
「別につまらないとか思ってない」
「嘘つけ。種なしって弄られても、女子から告白されても無反応で、ちっとも顔の筋肉動かないじゃん。武士かよ。ほんっとムカつく」
平太は尚の表情のなさに、自分と似た境遇なのだと思い、勝手に親近感を持っていたと鼻をかみながら平太は白状した。
「そんでここに来てみればなんだよ、この桃源郷。ふざけんな。こんな飯美味しくてみんな優しくて仲良しで。全然違うじゃん俺と」
支離滅裂な言葉の中に平太の本当が現れる。
嫌われていたのかと、尚は衝撃を受けた。
「……そうだな。俺はかなり恵まれていると思う。ここが好きだし、家族も大切だし」
「う~っ。惚気てんじゃねえよ。何様なんだよお前。なんで俺ここの子じゃないんだろ。俺はずっとひとりぼっちなのに……」
火に油を注いでしまった。
尚はどうすれば良いのかわからず、中腰になったまま動けないでいた。
そこへ、突然襖が開いた。
「こら平太。この二年間、さんざんうちの飯を食っといて、今更余所者のつもりかい? お前はずいぶんと薄情なんだね」
見ると、祖母がぴしりと背を伸ばして座っていた。
傍に饅頭と茶を載せたお盆がある。
「ばあちゃん……」
「……平太。あんたは大学へお行き」
「へ」
ティッシュを鼻に当てたまま平太は固まる。
「尚はね。座学は眠っちまうから向いてない。高校へ行ってくれただけでも御の字さ。だけど平太はずっと一番取っているんだろう。行くべきだよ。ミナが毎日楽しいって言ってるよ。お前も大学に入ればきっとそうなる」
ミナは卒業と同時に家を出て大学へ進学した。もちろん専攻は農学だ。
「ばあちゃん、俺……」
のろのろと迷う様子の平太に祖母は諭す。
「何も追い出そうとしているんじゃないよ。かわいい子には旅をさせろというだろう。平太、お前はうちの末っ子で、お前の根っこはここだよ。いつ帰ってきてもいいから、ここに根っこを置いたまま思いっきり飛んでお行き。アユと健とミナがそうしているようにね。とりあえず世の中ってやつを見ておいで」
平太は祖母のもとへ這って行き、膝に縋って泣いた。
「ばあちゃん……。ありがとう……」
「やれやれ。うちの末っ子は泣き虫の甘えん坊だねえ」
嗚咽する平太をぽんぽんとあやしながら、祖母は続けた。
「ところでさ。尚は別に無反応じゃないよ。ちいと顔の筋肉を動かすのがゆっくりなだけだ。武蔵たちはとっくに分かっているのに、平太はまだまだだね」
「まだまだ……」
ずびっと鼻をすすって平太は顔を上げ、尚へ振り向いた。
「尚、さっきはごめん。なんか、頭の中がカーッてなって、なんかいっぱい言った」
「……いや、別に、大丈夫だ。構わない」
「なあ、お兄ちゃんって呼んでいい?」
「いや……」
突然、本当の弟のように甘えだした平太の変わりように、尚は戸惑う。
「なら、尚ちゃん」
「それは……、ちょっと……」
祖母と平太の四つの眼に射抜かれ、生きた心地がしない。尚は額に両手を当てた。
「ちょっと……考えさせてくれ」
「ほら。わかっただろう」
「……ほんとだ。ははは。ゆっくりだ」
二人の笑い声に、柱の影からこっそり様子を伺っていた両親はほっと胸をなでおろした。
その夜、食後のお茶請けに家ではめったにお目にかかれない高級和菓子店の羊羹を、『頂き物だ』と何食わぬ顔で祖母は振舞った。
家族はみな素直に、得も言われぬ高貴な甘さに、うっとりと頬を押さえながらじっくりと味わった。
もちろん、平太も含めて。
尚は知っている。
平太が柚木家に入り浸っていると知った校長から祖母に再三電話がかかってきて、どうかどうか大学へ進学するように平太を説得して欲しいと頼まれたことを。
そして私的にこの羊羹が送られてきたのも目撃している。
「終わり良ければ全て良しさ。こういうのって、イマドキ『ういんういん』って言うんだろ」
二人きりになった時に追及すると、祖母はけろりと答えた。
果たして末っ子・平太は無事大学に合格し、北の大地へ飛んで行った。




