プロローグ
何となく、予感はしていた。
最近めっきり落ち着いてきた老猫が突然、毎日山に入っては小動物をしとめ、得意気に口にくわえて帰って来るようになった。
しかも獲物は日増しに大きくなっていく。
出迎えた母は「マア、アリガトネ」とこわばった笑みを浮かべ、猫が背を向けるなり十字を切って神に祈る。
その様を視た祖母も、何やらせかせかと倉庫と押入れを漁り始めていた。
いつもと違う空気が流れ始めている。
今年の冬は厳しくなるという兆しなのか。
いや、そうではない。
もっと違う何かだ。
納屋で農機具に屈みこみ手入れをしながら尚が考えていると、いきなり声が降ってきた。
「やっほう。ただいま、ナオ」
「……ああ。そっちか」
見上げると、東京にいるはずの姉のアユがいた。アユは器用に片眉を上げた後、にいっと口角を上げ、ひょいと前に身体を傾けて腕に抱えている物を尚に見せる。
「ほら、新しい甥っ子だよ。可愛いでしょ」
柔らかな布に大切に包まれているのは小さな小さな赤ん坊。
生まれたてのほやほや。
赤ん坊特有のなんとも甘く魅力的な香りが尚の鼻に届き、尚はふうと息をつく。
「まじか……」
「うん、マジマジ」
秋の澄んだ空気の中をアユの明るい笑い声が広がり、周囲の花々を優しく撫でて行った。
「まったくもう、産みっぱなしもいい加減にしな、アユ」
威勢の良い口調のしゃがれ声が落ちる。
声の主は祖母のイネだ。
柚木家の長老である祖母は小さな身体で腰に両手を当て仁王立ちし、居間で孫たちを睥睨する。
そして彼女は驚異的な速さで奥へいったん引っ込むと、赤ん坊用の布団を抱えてすぐに戻ってきた。
「ほら、ここに寝かせな。お前がぱったり顔を見せなくなった上に猫が若返り出したから、そんな事じゃないかと用意しといたんだよ」
「あ、ばれてたんだ」
アユはぺろりと舌を出して抱っこ紐を解いた。
尚は頼りない小さな身体を注意深く受け取り、慎重に寝かせる。
毎度思うが鼻と口、そして手指と爪が驚くほど小さい。
こんなものが本当に機能しているかと不思議になる。
そしてこの子は睫毛がかつてなく長い。
胡坐をかいてしげしげと覗き込み、まず思った。
「いつだい」
「うーん、先月のはじめ?」
「なんでこんな時だけ黙ってるかね、お前は」
「だって、叱られると思ったから?」
「もう今更叱りゃしないよ。四人目ともなればね!」
四人目。
そう。アユの産んだ子供はこれで四人だ。
「あはっ。そうだったんだ!」
大きな目をくりくりとさせながら姉は畳を叩いて笑うが、傍らで眠る赤ん坊はもみじのような手を開いてぐっすり眠ったままだ。
「……毎度思うが、今回も大物だね」
立ったまま覗き込んだ祖母がぽつりと言う。
「うん、今度も大成功だよ。すっごくかわいいでしょう?」
「まだそんなのわかりゃしないよ。それより」
そこで、急に玄関の方が騒がしくなった。
「ただいま、ナオちゃん、おばあちゃーん」
紺色の塊が凄まじい足音で駆けてきて、尚の背中に飛びつき、よじ登る。
姪の杏だ。
後ろから杏の荷物を持って現れた母は久々に会う娘と赤ん坊を見るなり、目を丸くした。
「アユ……」
「ただいま、お母さん」
ひらひらと手を振るアユに困惑するばかり。
「あ、あかちゃんだ」
制服姿のまま姪は肩車の状態になり、尚の頭の上からひょこっと顔を出して声を上げた。
「弟だよ、アン。ヒュウマ、っていうの」
「おとうとー。おとうとだー。わあい」
今度は尚から飛び降りて床をごろごろ転がり、腹ばいになって赤ん坊へにじり寄る。
「てぇちいさい、りっちゃんよりもさっちゃんよりもちいさい!」
保育園の子どもの名前を挙げて大興奮だ。
「ひゅうま、おねーちゃんだよー。アンちゃんだよー。アンズちゃんだよ~」
大はしゃぎの娘の背中をぽんぽんと軽く叩きながら、アユは笑う。
「喜んでくれてありがとね、アン」
「うん、アユちゃんありがとう」
杏は母親のことを「アユちゃん」と呼ぶ。
年に何度かふらりと現れる程度の人を、母と認識できないでいるからだ。
尚達の両親は『おとうさん、おかあさん』。
杏にとっての曾祖母は『おばあちゃん』。
それで十分だ。




