第7話 風船と違和感のデリバリー
北園寺・沼尻公園。
昼の光が湖面で割れて、歩道に細かい模様を作っていた。
俺と七海は、その模様の上を踏みながら公園の奥へ向かっていた。
目的は猫探し。街の東側歓楽街エリアは何人かの知り合いに、見かけたら連絡をくれるよう頼んである。他に街のどこで猫を見るかといえば、駅の南側に位置するこの沼尻公園くらいのものだ。
「……公園って、こんなに広いもんなんだね」
七海が、池の向こうにかかる赤い橋を見ながらつぶやいた。
さっきまでは“街に慣れる最中の人”って感じだったが、今日はもう普通に景色を楽しんでいるように見える。
「迷い猫って、大体こういう場所に流れ着くんだよ」
「へぇ……ご飯とかあるの?」
「お前みたいなのが肉をくれるしな。段差も多いから隠れ場所が多いんだ」
七海は道すがら買った焼き鳥の袋を片手に持ちながら、木々の隙間まできょろきょろしている。
それだけ視線を動かして、本当に猫を見つけられるのかと思ったが、七海のことだ。
野生の勘かなにかで、木の上で昼寝している猫がいたら、俺が気づくより先に見つけそうだ。
と、公園の奥から泣き声が聞こえた。
「うわぁぁ……! ぼくの……ふうせん……!」
小さな子どもが、木の下で両手を握りしめている。
見上げれば、枝の高い位置に赤い風船が引っかかっていた。
風が吹くたび、ひらひらと揺れて、地面に戻る気配はない。
「引っかかったか……」
俺が状況を把握した瞬間、七海はもう一歩前に出ていた。
「ちょっと見てくる」
「は? おい七海、ちょっと待――」
言い終わる前に、七海は焼き鳥を俺に押し付け、すでに木に手をかけていた。
ただ地面を歩くかのように、まるで何のためらいもなく枝を掴むと、靴の爪先を幹の窪みに引っ掛け、
一気に数メートル分を駆け上がった。
「……おいおい。普通あんな速度で登れないだろ」
つい口から出る。
元気なのはいいことなのかもしれないが、怪盗マリンランタンが昨日街を飛び回った件と結びつける人間が、いないとも限らない。少しは控えてほしい。
七海は枝の上でバランスを取り、風船の紐まで慎重に手を伸ばす。
「よっと……!」
七海の指が風船の紐を掴んだ瞬間、枝がぎしりと揺れた。
だが七海は動じず、その揺れを見計らってひょいと飛び降りる。
正直なところ助かった。七海が登らなければ俺が登っていただろうが、あんなにスムーズにはいかない。
地面に着いた七海は、息も乱さず子どもに赤い風船を差し出した。
「はい。これ、ちゃんと持ってなよ」
「……ありがと……! ねえちゃんすごい!」
「え、あ……まあ、昔ちょっとね」
七海は頬をかきながら目をそらす。
誇張はない。
ただ、できることを当たり前にやった顔だ。
子どもが笑顔で走り去っていくのを見ながら、俺は小さく息を吐いた。
七海は風船の余韻なんて気にも留めず、公園の奥へ歩き出す。
猫探しを再開するつもりだろう。
その背中を見て、ふと思う。
――この七海の“普通”が、どうして怪盗なんてものにまで繋がってしまうのか。
その違和感だけが、風の中でずっと形を残していた。
「ねえ、如月さん」
七海灯と怪盗、その接点はどこにあるのか。
怪盗というのは己の欲にのみ従う生き物だというのは、散々見てきた事実だ。
しかし昨日から見てきた七海は、怪盗をやるような人物像とは一致しない。
「おーい、如月さーん? ……真守くーん?」
「……ん? いや待て、その呼び方はやめろ」
どうやら考え込んでいるうちに、自分の世界に入っていたらしい。
辺りを見渡すと、池の反対側まで来ていた。
「ああ、焼き鳥。返し忘れてたな」
「それも大事なんですけど、あれ」
焼き鳥を返しながら、七海の指さす方に目を向けた。
「猫……シェルナに似てるな」
視線の先、公園内に設置された市民向けのテニスコートのど真ん中に座るブルーの毛並み。
この街でロシアンブルーなんて見たことがない。
ほぼ間違いなく、探していた猫のシェルナだ。
いや、毛並みや品種もそうなんだが、それ以上にシェルナと確信させる要素がある。
威嚇するその猫に、何とか近づこうとしている人物に見覚えがあるのだ。
「あのー、佐藤さん?」
シェルナの飼い主であり、俺の依頼人でもある佐藤さんだ。
大声に驚いてシェルナが逃げないよう、意識して少し声を潜めて呼びかける。
「あっ……如月さん?」
「はい、探偵の如月です。こっちは、まあ……助手みたいなものです」
七海のことは簡潔にそう言うにとどめた。
怪盗には無関係の佐藤さんに、わざわざ怪盗の話をすることもない。
「どうしてこちらに?」
「シェルナを探してたところです。昨日お伝えした通り、猫の集まる場所の1つですので、ここは」
「昨日……そうですね、昨日。そうでした」
なんかフワフワした人だな。
会話が通じているのか微妙なリアクションが返ってくる。
あるいは、シェルナのことで頭がいっぱいなのか、
佐藤さんは、話しながらも目線は猫から外さず、腰を落としてゆっくりと左手を伸ばしていた。
その指先は震えている。怖がっているというより、期待と不安が入り混じった震えだ。
「シェルナ……大丈夫よ。ほら、帰ろ?」
声は優しい。無理に触ろうともしていない。
だが、シェルナは低く唸り、背中の毛を逆立てたまま一歩も動かない。
ロシアンブルー特有の青灰色の毛並みが、日差しの下でわずかに逆立ち、細い尻尾が地面を叩く。
「……だめですね。警戒心がかなり強い」
「ええ……。昨日から、こんな感じで……」
佐藤さんは困ったように笑ったが、その目は少し潤んでいた。
俺は一歩前に出る。
「佐藤さん、少し下がってください。人が多いと余計に緊張します」
「は、はい」
素直に後ろへ下がる佐藤さんを見送りながら、俺はしゃがみ込んだ。
猫相手は久しぶりだが、別に苦手じゃない。
昔、この公園の野良猫たちにはそれなりに顔が利いた。
「よし……」
声を低く落とし、視線を合わせないようにしながら、ゆっくりと距離を詰める。
「大丈夫だ。捕まえたりしない。ちょっと確認したいだけだ」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
探偵の聞き込みと同じだ。相手を刺激せず、逃げ道を残す。
――いける。
そう思った瞬間だった。
シェルナの耳が、ぴくりと動いた。
次の瞬間、青い影が弾ける。
「っ――!」
鋭い衝撃が指先を走った。
反射的に手を引くと、甲に赤い線が一本、くっきり浮かんでいる。
「うわっ、引っかかれた!」
思わず声を上げると、七海が即座に反応した。
「えっ、大丈夫ですか!? 如月さん!」
「大丈夫……だけど、予想以上に気が立ってるな」
情けない。
動物には好かれる方だと、内心そこそこ自信があったのに。
そんな俺を見て、七海が一歩前に出た。
「じゃあ、次はわたしがやってみます」
「おい、無理するな。見ての通り――」
「大丈夫ですって。わたし、地元じゃ“猫マスター”って呼ばれてましたから」
「どんな地元だよ」
止める間もなく、七海はしゃがみ込む。
さっきまでの軽さは消え、声も動きも妙に丁寧だ。
「シェルナちゃん、だっけ? こんにちはー」
猫を見る目が、今までと少し違う。
獲物を見る怪盗の目でもなく、街を見る好奇心の目でもない。
ただ、純粋に動物を見る目だ。
「ほら、怖くないよ。ほらほら」
指を軽く曲げ、距離を保ったままゆっくり動かす。
……確かに、悪くない。
シェルナの唸り声が一瞬、弱まった。
「お、いい感じじゃないか」
佐藤さんも、息を呑んで見守っている。
七海はさらに一歩、距離を詰めた。
「ほら、ね? 大丈夫で――」
次の瞬間。
「にゃっ!」
「いたっ!?」
鋭い音と同時に、七海の手が弾かれた。
今度は、しっかり爪が立ったらしい。
「いったぁ……!」
七海は慌てて手を引き、涙目で俺を見る。
「なんで!? 猫マスターなのに!」
「自称だろ、それ」
シェルナは完全に警戒態勢に入り、背中を大きく丸めた。
そして、次の瞬間。
――逃げた。
地面を蹴る音はほとんど聞こえず、青い影はテニスコートのフェンスをすり抜け、植え込みの向こうへ消える。
「あっ……!」
佐藤さんが一歩追いかけかけるが、俺はすぐに制した。
「無理です。今追うと余計に遠くへ行きます」
風が、さっきまでシェルナがいた場所を撫でていく。
残ったのは、少し乱れた空気と、三人分のため息だけだった。
動物に好かれる自信があったんだがな……。
それはともかく、だ。
「シェルナは、どうしてあんなに警戒していたんです? 僕と助手はともかく、佐藤さんにまで」
「わかりませんわ。でも、昔からわたしには懐かないんです。姉には懐くのですけれど」
佐藤さんはそう言って悲しげに目を伏せた。
だいぶ気難しい猫みたいだな。
いや、それ以外にも実は少しだけ気になった点があったのだが、依頼人の個人的な事情には踏み込まないように教育されているしな。忘れることにしよう。




