第27話 邂逅とソウルメイトの調律
昼下がりの事務所は、コーヒーの匂いと静けさだけが支配していた。
シェルナは例によって、窓際の定位置から動かず、ありさの方を見ようともしない。
それが余計に、室内の空気をぎこちなくしている気がした。
「いやー、でも本当に来られてよかったです」
そんな空気を壊すように、マユミさんが楽しそうに声を上げた。
「探偵事務所って、ずっと気になってたんですよ。北園寺に住んでて、しかも身近に探偵がいるのに、来たことなかったなって」
「……身近、ね」
俺は曖昧に返しながら、コーヒーを一口飲む。
探偵事務所なんて、普通は近づかない方が健全だと思うんだが。
「実は私、曲を作るときに“場所”からインスピレーションをもらうタイプで」
マユミさんはソファに腰掛け、きょろきょろと室内を見回す。
「ライブハウスとか、夜の駅前とか、河川敷とか。そういう空気感を、そのまま音に落とす感じなんです」
「へえ……」
ありさが、少しだけ意外そうに声を漏らした。
「作曲って、部屋で黙々とやるもんだと思ってた」
「それもやるよ。でも、行き詰まったときは特にね」
マユミさんは笑って続ける。
「探偵事務所なんて、物語が詰まってそうじゃない? 秘密とか、過去とか、選ばなかった人生とか」
……随分とロマンチックな解釈だな。
「そんな大層なもんじゃないですよ」
俺は肩をすくめる。
「ここにあるのは、だいたい面倒事と、後悔と、どうしようもなかった結果です」
「それがいいんじゃないですか」
マユミさんは即答した。
「そういうの、音楽にすると一番強いですから」
ありさが、ふっと視線を落とす。
その仕草が、ほんの一瞬だけ遅れたように見えた。
「……ここ、変わってないね」
ありさが、ぽつりと言った。
「机も、ソファも。前に来たときと」
「一年そこらで変わるほど、金回りよくないんでな」
軽く冗談めかして返すと、ありさは小さく鼻で笑った。
「そっか」
それだけ言って、また黙る。
マユミさんはそんなありさを横目で見て、少しだけ声のトーンを落とした。
「でも、不思議ですね」
「何がです?」
「探偵事務所って、もっとピリピリしてる場所だと思ってました。 事件の匂いがするとか、緊張感があるとか」
シェルナをちらっと見てから、続ける。
「でもここ、落ち着く。……ありさの居場所って感じがする」
一瞬、空気が止まった。
「……まあ、昔はけっこう来てたかな」
ありさが、少し早口で言う。
師匠がいた頃は、とは言わないでくれた。
「今は別に。たまに来るくらいで」
「うん、分かってる」
マユミさんは、否定も追及もしなかった。
「ただね、曲を書く人間の勘ってやつ?」
軽く笑って、
「ありさ、最近ちょっと“音”が変わったでしょ」
ありさの肩が、わずかに強張る。
「……そうかな」
「うん。悪い意味じゃないよ」
マユミさんは慌てて付け足す。
「むしろ表現は増えてる。ただ……」
言葉を選ぶように、間を置く。
「自分の声っていうより、“求められてる声”に近づいてる気がして」
ありさは答えなかった。
代わりに、無意識のように自分の指先を見る。
白銀のストーンが、事務所の明かりを反射していた。
俺は、その沈黙をどう扱えばいいか分からず、黙っていた。
探偵の仕事としてなら、質問はいくらでもできる。
だがこれは、事件でも依頼でもない。
ただの、違和感だ。
「……まあ、音楽の話はこのくらいにして」
マユミさんが、ぱっと明るい声に戻す。
「探偵事務所、来られてよかったです。ちゃんと“物語の匂い”がしました」
「そうですか」
「はい。今日、いい曲書けそう」
その言葉に、ありさはほんの少しだけ、安心したように息を吐いた。
だが俺の胸の奥に残った違和感は、消えなかった。
体感ではシロだ。
マユミさんからは、怪盗アリスらしい挑発的なところも、こちらを探るような質感も感じられなかった。
まだ安心はできないし、マユミさんがアリスでないなら、それはそれでアリス手がかりゼロ。振り出しに戻ることになる。
こちらから探りを入れてみるか……?
そう考え、口を開こうと息を吸ったタイミングだった。
――ガチャ。
唐突に、ノックもなくドアが開いた。
「ただいま戻りましたー」
間延びした声と一緒に、七海が事務所に入ってくる。
どうやらバイトは終わったらしい。
だが――
「……」
俺は、一瞬言葉を失った。
七海の頭には、堂々とネコミミのカチューシャが乗っていた。
黒地にふわっとした質感。昨日、ありさがつけていたものより、若干あざとい。
「……なんだ、その格好は。あとここはお前の家じゃないから、戻ってこなくてよろしい」
「え? 見て分かりません?」
七海は得意げにくるっと一回転する。
「猫です」
「見りゃ分かるわ。頭に……いや、なんでもない」
頭にマタタビでも湧いてるのかと言いかけて、ありさもこの前やっていたことを思い出し踏みとどまる。
しかし目的が分からん。
「シェルナちゃんと、もっと仲良くなろう作戦です」
「作戦?」
七海はネコミミを軽く揺らしながら、ソファの背もたれにいるシェルナを見た。
「猫は猫に心を開くんですよ。たぶん東大の先生もそう言ってます」
「そんな雑な理論あるか」
シェルナはというと、七海を一瞥して__興味なさそうに目を閉じた。
「……あれ?」
「完全に無視されてるな。シェルナの方がお前より賢いんだろうな」
「おかしいですね。昨日はもうちょっと反応ありましたよ?」
「昨日はシェルナに何したんだ。お前、毎日こんなイカれたことしてたのか」
首をかしげる七海の後ろで、マユミさんがくすっと笑った。
「あ、もしかしてこの子も探偵事務所の名物ですか?」
「いいえ、近所の騒音公害です」
「ちょっと!?」
七海が抗議するより早く、マユミさんが立ち上がる。
「じゃあ、そろそろお邪魔しました」
「もういいんですか?」
「うん。十分インスピレーションもらいましたし」
にこやかに会釈してから、七海のネコミミを見る。
「……かわいいですね」
「ですよね!?」
「ええ。でも――」
一瞬だけ、視線を俺に向けて。
「如月さんの趣味、ってわけじゃないですよね?」
「違います」
毀損される名誉が、俺みたいな人間にもまだあったんだな。
「こいつが勝手にやってるだけです。たぶん頭のネジを怪盗に盗まれたんでしょう」
「ひどい!」
七海が声を上げる。
「わたし、如月さんの趣味に寄せたわけじゃないですからね!?」
「だから今俺がそう言ったんだよ。重ねたら逆にあやしくなるだろ、やめろ」
だが、ありさが小さく鼻で笑った。
「……真守、そういうの好きだったんだ」
「違うって言ってるだろ」
マユミさんは楽しそうにそのやり取りを眺めてから、最後にありさの方を見る。
「またね、ありさ」
「……はい。ありがとうございました」
ドアが閉まり、足音が遠ざかる。
事務所には、俺とありさと七海と、シェルナが残った。
「……で」
ありさが、七海を見る。
「結局どちら様なんですか?」
「仲良しです」
「誰と」
「シェルナちゃんと」
七海は胸を張った。
まあ、俺とは別に仲がいいわけではないな。
「……その耳つけると、シェルナと仲良くなれますか?」
「は? おいありさ待て、毒されるな。そいつは根っからのバカなんだ」
シェルナが、その瞬間だけ、片目を開けた。
――ほんの一瞬、七海の方を見て。
そして、また目を閉じる。
「……今、見た?」
「見たな。いや、見たけど……」
「ですよね!? 進展ありましたよね!?」
七海は嬉しそうに拳を握る。
ありさは、じっとその様子を見てから、ぽつりと言った。
「……んー、いやでもさすがにネコミミはない」
その声は、いつもの棘のある調子じゃなかった。
事務所の空気が、少しだけ、揺れた気がした。
「あれ? ネオンライオットのアリサちゃんでしょ。わたし前にネコミミしてるの見て、この作戦思いついたんだけど、見間違いだったかな」
……あの日か。
なんだったんだろうな、あの日のありさは。
「いや、違っ__あれは、なんかその日おかしくなってただけで……」
「ふぅん……?」
七海は納得したのかしてないのか微妙な顔で首をかしげ、その後俺の方をじっと見てきた。
……なんだよ。
「わたしバカだからよく分かんないんですけど」
「お前みたいに本当にバカなやつが言うセリフじゃないぞ、それ」
「バカじゃないならよく分かんないんですけど」
なんだそのバカ丸出しの文は。
話が進まないなら黙っておくが。
「アリサちゃんって、そういう子なんですか? 如月さんの妹なんでしょ」
「さあな。そういう気分の日もあるってだけなんじゃないか」
俺の知ってる範囲でいえば、ありさは自分のこだわりが強くて、そんな日によってやることの変わるやつじゃないが。
人は変わるから、そこのとこは断言できないんだよな。
「わたしの地元でも、似たようなことがあったなあって、思っただけです」
「はあ……」
七海の地元、たしか静岡だったな。
"似たようなこと"じゃ何が言いたいかさっぱりだが。
__いや。
まさかとは思うが、あの話なのか?
七海はまた、俺の目をじっと見据えていた。




