第26話 副所長とネイルアートの戯曲
島崎学園の校門前で、登校のピークを少し外した時間帯。
制服姿の生徒がまばらに行き交い、校舎の奥からはチャイムの余韻が微かに聞こえてくる。
「そういえば、如月さん」
マユミさんが校門をくぐる前、ふと思い出したように振り返る。
「探偵事務所って、今もやってるんですよね?」
「……ええ。まあ、一応」
反射的に、言葉を選んでいた。
やってるのは事実だが、この人にどこまで話していいのかは別の話だ。
「へえ……探偵事務所かあ」
マユミさんは、どこか楽しそうに小さく笑った。
「実は前から、ちょっと見てみたかったんです。漫画とか映画の世界のものだと思ってたから」
声色は軽い。
警戒も探りもない、純粋な好奇心。
怪盗が市民の脅威でなくなってから約30年、若い世代には探偵も怪盗も、過去のものになっている。
だからマユミさんの言葉は、たまに俺も経験する自然な会話だった。
__今はそれが、逆に引っかかる。
俺の頭の中で、いくつかの可能性が静かに並び始める。
偶然か。誘導か。それとも、こちらの動きを確かめるための接触か。
怪盗アリスによって、事務所にいるところを瞬間移動されられるなんて露骨な挑発があった直後だ。
探偵事務所を見たいという言葉を、ただの世間話として受け取れるほど、俺は楽観主義者じゃない。
「もちろん、無理ならいいんですけど」
マユミさんはそう前置きしてから、続けた。
「ありさの家族みたいな人が、どんな場所で仕事してるのか、ちょっと興味があって」
……かなり自然な発言だ。
ありさの先輩としても、バンドメンバーとしても、不思議じゃない。
この状況でなければ、俺も何も疑問に思わなかっただろう。
表面上は、何一つおかしくない。
だが。
もし仮に——
もし、この人が怪盗アリスだった場合。
この申し出は、別の意味をもってくる。
断れば警戒していると悟られる。
受ければ、こちらの内側を見せることになる。
どちらに転んでも、リスクはある。
「……放課後なら」
気づけば、そう口にしていた。
マユミさんが怪盗アリスなら、これはつまり、ありさを人質に取られているのと同義なのだ。
学校の中で何かあれば、俺には手出しのしようがない。
「仕事の合間になりますけど、それでもよければ」
「本当ですか?」
マユミさんの表情が、ぱっと明るくなる。
「ありがとうございます。じゃあ放課後、ありさと一緒に伺います」
大丈夫。
彼女が怪盗アリスでないなら単にありさが友人と訪ねてくるだけ。
仮にアリスだとして、こっちのホームで情報を探るチャンスだ。
そう、胸の内で自分に言い聞かせた
「楽しみだなあ。探偵事務所なんて、初めてです」
そう言って、マユミさんは校門の内側へと歩き出した。
制服姿の背中を見送りながら、俺は一度だけ、深く息を吸う。
__考えすぎかもしれない。
それでも、ありさに危険が及ぶ可能性がある以上、慎重にならざるを得ない。
今日は、事務所を見せるが、隙は一切見せない。
ただそれだけだ。
昼下がりのカドクラ探偵事務所は、今朝以来の静けさだった。
アリスの挑発行為さえなければ、今日はずっと落ち着いて過ごしていたはずなんだがな。
ブラインド越しの陽射しが床に斜めの影を落とし、机の上には冷めかけのコーヒー。
俺は椅子にもたれ、腕を組んでドアの方を見ていた。
進学校の試験というものが何時くらいに終わるのか俺には分からんが、まあそろそろ来る頃だな。
そう考えてしばらく、半ば無意識に入口を見つめていると、ほどなくしてノックの音がなった。
「はいはい」
立ち上がってドアへと向かう。
開けると、予想通り、ありさとマユミさんがそこにいた。他に客人が来るような人気事務所じゃないし、七海なら勝手に入ってくるから当然だ。
「こんにちはー! わあ、本当に探偵事務所だ!」
開口一番、テンション高めなのがマユミさん。
制服姿のまま、目を輝かせて室内を覗き込んでいる。
「はあ……お邪魔します」
その半歩後ろで、ありさは少しだけ居心地悪そうに立っていた。
「開口一番ため息つかなくてもいいだろ。事務所に来るのは久しぶりだなんだし。……一年ぶりくらいか?」
「たぶん、それくらい」
ありさは短く答え、視線を泳がせる。
机、ソファ、壁の古い写真――そして。
「……あ」
マユミさんが、声を落とした。
視線はソファの背もたれの上。
書類棚の影になる位置に、青灰色の毛玉が佇む。
ロシアンブルーのシェルナが、瞬きもせずに、こちらを見ていた。
「猫……?」
マユミさんが、そっと一歩踏み出しかける。
だが、シェルナは動かない。
近づきも、逃げもしない。
ただ、目だけで人を測るように、静かに見下ろしている。
尻尾の先が、ゆっくりと一度だけ揺れた。
「……近づかない方がいいですよ」
俺が言うと、マユミさんはぴたりと足を止めた。
「え、怖いタイプですか?」
「人によるみたいです。今はだいぶ慣れましたが、一昔前は私もずいぶんやられました」
そういう猫だ。シェルナは相手を選ぶ。
俺も七海もはじめのうちは、噛みつかれ引っ掻かれ散々だった。
たまに外を散歩しているところを見かけると、街猫として老若男女に懐いて可愛がられているようだが……なんでよりによって懐かない方の例に俺も七海も入るんだか。
「じゃあ、ちょっとだけ。わたし動物には好かれるタイプなんです」
マユミさんは余程猫が好きなのか、触りたくて仕方ないようだった。
そして、それはありさも同じようで、マユミさんの後ろでそわそわしながらシェルナをじっと見つめていた。そういえば猫好きだったな。
シェルナを飼いはじめた時、教えてやればよかったか。
「まあ、止めはしませんよ。シェルナが決めることです」
なんだか懐かしいな。俺も七海も、動物に好かれると豪語しては、二人とも見事に引っ掻かれたんだったな。
「シェルナちゃんっていうんですね、この子」
「ええ、先月からうちの副所長です」
「副所長、ですか。じゃあちゃんとご挨拶しないと。シェルナ副所長、こんにちは」
マユミさんはそう言って微笑むと、しゃがみ込み、ゆっくりとシェルナに手を差し出した。
指先を伸ばすのではなく、掌を下に向けて、距離を保ったまま。猫慣れしている人の動きだ。
シェルナは一瞬だけ瞬きをし、鼻先をひくりと動かした。
シェルナはしばらくマユミさんを見ていたが、やがてすっと身を乗り出し、マユミさんの指先に鼻を寄せる。
「……あ」
ありさが、小さく声を漏らした。
シェルナは、そのまま顎を差し出すように首を傾ける。
「え、いいの?」
マユミさんが恐る恐る顎の下を撫でると、シェルナは喉を鳴らした。
低く、満足そうな音。
「すご……懐かれてますよ、マユミさん」
「良かったぁ。かわいいねえシェルナ副所長」
マユミさんはすっかり調子に乗り、背中から首元まで丁寧に撫で始めた。
シェルナは逃げない。
むしろ、撫でやすいように体勢を変え、完全に許可を出している。
「……わ、わたしも」
ありさの声が、やけに小さい。
そのまま一歩、前に出た。
「シェルナ」
呼びかけながら、そっと手を伸ばす。
__その瞬間だった。
シャッ、と空気を裂く音。
シェルナが一気に毛を逆立て、背中を丸める。
低く、腹の底から響く唸り声。
「__ッ!」
ありさが、反射的に手を引っ込める。
威嚇は一瞬だったが、剣幕は凄まじい。
牙を剥き、爪を見せ、「これ以上近づくな」と全身で主張している。
さっきまでマユミさんに喉を鳴らしていた猫とは、まるで別だ。
「……え」
ありさが、固まった。
数秒遅れて、表情が歪む。
「……嫌われた」
ぽつりと落ちた言葉には、いつものトゲトゲしさは微塵もなかった。
肩が、目に見えて落ちる。
「ちょ、ちょっと待って、ありさ」
マユミさんが慌てて手を引き、ありさの方を向いた。
「今のはたぶん、タイミングとか距離感とかで」 「……いい」
ありさは視線を逸らし、唇を噛む。
「猫って正直じゃん。嫌いなものは嫌い、って」
声が、少しだけ震えていた。
シェルナはというと、ありさから距離を取り、なおも警戒を解いていない。
その様子が、余計に刺さる。
「……別に猫、好きじゃないし」
小さく、吐き出すように。
無理のある言い訳を子供みたいに呟いた。
マユミさんは一瞬言葉に詰まり、それから、そっとありさの肩に手を置いた。
「違うよ」
「え」
「シェルナ副所長は“嫌い”じゃなくて、“ダメ”って言っただけ」
優しく、はっきりと。
「近づくな、今は。って」
ありさが、ゆっくりと顔を上げる。
「……それ、フォローになってる?」
「なるなる。だって、見て」
マユミさんが顎でシェルナを示す。
「本当に嫌いだったら、もっと早く逃げてるし、威嚇もしないよ。相手にしない」
「……」
ありさは、しばらく黙り込んだまま、シェルナを見つめていた。
シェルナは視線に気づくと、ふいっと顔を背ける。
だが、部屋の奥へは行かない。
「……そっか」
ありさが、小さく息を吐いた。
「じゃあ、今はダメってだけか」
「うん。きっとね」
マユミさんはそう言って、にこっと笑う。
ファンからママ呼びされているのは、こういうところなのかもな。
「そのうち懐くよ。時間かかるタイプなだけ」
ありさは、ほんの少しだけ、表情を緩めた。
「……なら、いい」
そう言ってから、ぽつりと付け足す。
「時間なら、かけ慣れてるし」
俺はそのやり取りを、黙って見ていた。
シェルナは相変わらず、ありさを正面からは見ない。
だが、完全に背を向けることもない。
しかし、気になったのはシェルナの様子だけじゃなかった。
「ありさ、その爪……」
「何?」
ありさが、さっきのシェルナと変わらない剣幕で俺を睨んだ。
一昨日、七海に言われて、気がついた変化に言及してみただけなんだが、やっぱりあのバカの言うことを真に受けるんじゃなかった。
「いや、もしかしたらその爪が原因なんじゃないかって……思っただけで……」
我ながらフォローが下手だな。
マユミさんに全部任せた方がよかったかもしれない。
ただ、どうしても気になってしまったのだ。
左右10本、すべての指に長い付け爪がされ、その上には、爪を埋め尽くさんばかりの白銀に輝くストーン。
前見たときは、爪には何もなかったはずだ。
いや、俺も世の男の例に漏れず、色を塗られたくらいでは気が付かないだろうが、さすがにこんな派手ではなかったはず。
「シェルナ副所長がどう思ったかは分からないですけど、今日突然こうなっててわたしもビックリしたんです」
マユミさんも苦笑しながら、ありさの爪を見つめていた。
「かわいいとは思うけど、ギターを弾く上で危ないからやめた方がいいかなって思うんですけど」
確かにな。
ギターをはじめた頃から、ありさは爪の手入れには拘っていたように記憶している。
ピックを変えてみたり、ネコミミを付けてみたり、最近変に気分屋だな。
それこそ本物の猫みたいに。
ありさとシェルナを交互に見て、俺はなんだか底しれぬ不安を感じ始めていた。




