第13話 揺らめきと宵闇のアンサンブル
六月十五日、午後二時過ぎ。
北園寺美術館は、いつもと変わらず開館していた。
正面のガラス扉は陽光を柔らかく反射し、エントランスには平日の昼らしい、ほどよく間の抜けた静けさが漂っている。
なんのことはない近隣の住民と、たまに観光客。
この街にとって、美術館は特別な場所であると同時に、日常の一部でもある。
……今日が、怪盗の予告日だということを知らなければ。
俺はチケットカウンターの前で足を止め、軽く館内を見渡した。
警備員の数は、いつもより明らかに多い。
だが、緊張感は表に出していない。あくまで平常運転を装っている。
それでいい。
怪盗という生き物は、異物に敏感だ。
過剰な警戒は、かえって“来てください”と言っているようなものになる。
……今日は閉めるのが一番だとは思うが、こういう時、北園寺には独特の美学がある。
「我々は怪盗に屈しない街だ……ね」
展示案内の立て看板を横目に、俺はゆっくりと中へ入る。
空調の効いた空気。
足音を吸い込む床材。
美術館特有の、音が遠くなる感覚。
今日の目玉展示――若き天才アーティスト・神代楽展。
ターゲットとなった「星の揺らめき」を含む各展示は、二階の企画展示室だ。
地元のよしみで出しているのだろう。世に評価された作品__世俗的な言い方をすれば金になる作品は今日ここにはない。
だが、俺はすぐに階段へは向かわなかった。
まずは一階。人の流れ。視線の癖。
怪盗より先に、もっとややこしい事情のある人物を探す。
……そして。
入口付近、ミュージアムショップの前。
俺は、一瞬で理解した。
いる。
青いワンピース。
白い帽子。
少し背伸びした、来館者らしい服装。
間違えようがない。
七海だ。
怪盗マリンランタンではなく、
北園寺美術館を訪れた、ただの一人の来館者として。
心臓が、わずかに跳ねた。
――来たか。
時間は、まだ昼だ。
予告は夕刻。
それでも、あいつはもう“現場”にいる。
日時まではバレていなかったはずだから、おそらく朝からずっといるのだろう。
無意識に、俺は視線をそらし、柱の影へ身を寄せた。
展示パンフレットのラックの裏。
通路から半歩外れた、視界の死角。
七海は、気づいていない。
展示解説のパネルに視線を落とし、ゆっくりと歩いている。
その横顔は、静かで。
落ち着いていて。
――そして、どこか覚悟を秘めている。
「……やっぱり、来るよな」
誰に聞かせるでもなく、俺は小さく息を吐いた。
夕刻まで、まだ時間はある。
だがもう、この美術館は舞台だ。
怪盗も、探偵も、
そして“怪盗になった理由を捨てきれない少女”も。
全員が、同じ場所に集まっている。
__ついでと言っては悪いが、警察も。
「よう、来たか隠し子」
「隠し子じゃないって」
私服姿の源さんが俺を見かけ、声を潜めて近づいてきた。
一段とダメなおっさん感が出ている。
「結局、あの嬢ちゃん来てるじゃねえか。やっぱ弟子かなんかなんだろ? お前みたいな半人前が弟子なんかって言われるのが嫌で、隠してるんだろ」
「違いますよ。……俺も源さんの立場なら似たようなこと言うだろうけど。あれは一般人です」
少なくとも、今日は。
「警察も何人か私服で張ってる。どれがそうかは言わんでもお前ならわかるだろ」
「ええ、まあ。多少は頼りにしてますよ」
「けっ、生意気言いやがって。だが実際、人数も経験も足りてねえ。一昨日あれだけの騒ぎがあったのにAPPも出せねえんだと」
「APPねえ……解散してなかったんですね」
APP。
Anti-Phantom thief Policeの略で、要は対怪盗に特化した警察の特殊部隊だ。
特殊部隊が動いた段階で、多くの怪盗が犯行を諦めるため、怪盗の逮捕には繋がりづらく、規模を縮小させていったと聞いている。
「とにかく、俺は逆に目立つように堂々と「星の揺らめき」の周囲をうろつきますよ。俺はステラ・エトワールに顔を知られて…………」
「ん? どうした?」
七海と目があった。
あわよくば飽きて帰ってくれないかと期待していたが、仕方ない。
溌剌とした普通の少女のように、小走りに駆け寄って来る。
「如月た……ん」
「人を萌えキャラみたいに呼ぶな」
昨日の流れで如月探偵と言いかけたな、こいつ。
俺が源さんと話しているのを見て、言葉を選び直したのだろう。
ほんの一瞬だけ、視線が泳ぐ。
七海は、俺と源さんを交互に見て、小さく会釈をした。
「こんにちは。あの……如月さん、今日はお仕事ですか?」
“お仕事”。
その言い方が、妙に刺さる。
「まあな。展示の警備……みたいなもんだ」
嘘は言っていない。
だが、七海の目は一瞬だけ細くなった。
――気づいたか?
「そうなんですね。……わたし、神代さんの絵、好きなんです」
そう言って、七海は二階へ続く階段の方を見上げた。
無垢な来館者の仕草。
だが、その視線は迷いがない。
何が理由かわからないが、バレている。
神代楽自体の知名度が、静岡の17歳が普通に知っているレベルのものではないし、何より本当に知っているなら「絵が好き」というのも変だ。
彼は現代アートの作家であり、絵画と呼べる形状の作品は「星の揺らめき」ただ一点のみだ。
「星の揺らめき、か……」
俺の口が、勝手に動いた。
「……はい」
七海は一拍置いて、うなずく。
その“間”が、昨日までの彼女と同じだった。
「閉館まで、いるつもりですか?」
探るような質問。
俺は肩をすくめる。
「仕事次第だな。……混む前に、見たいものは見といた方がいい」
「ありがとうございます」
七海は微笑んで、再び一礼すると、人の流れに紛れていった。
青いワンピースが、階段の向こうへ消える。
「……やっぱ来てるじゃねえか」
源さんが、ぼそっと言う。
「ええ。呼んでないですよ、もちろん」
「朝からずっといるぞ。偶然居合わせた来館者じゃないぜ、あの嬢ちゃん」
その通りだ。
怪盗が予告した日。
探偵が張り付く美術館。
そして、怪盗を憎む怪盗が、客の顔でそこにいる。
まだ何も起きていない。
だがもう、舞台は整っている。
「源さん」
「あ?」
「一応言っておきますけど、あいつはステラ・エトワールじゃありません。夕方まで……これは探偵の勘です」
源さんは苦い顔で笑った。
「……言うじゃねえか。見習いの癖に」
「だから見習いじゃないって」
俺は二階を見上げる。
そこにあるのは、絵画と、予告。
静かな館内で、時間だけが確実に進んでいた。
企画展示室は、二階の一番奥にあった。
白を基調とした空間に、控えめな照明。
壁際に一定の間隔で作品が配置され、中央には緩やかな動線を描くようにロープが張られている。
人の入りは、昼過ぎとしては多い。
だが、騒がしくはない。所詮は街の美術館だ。
足音も、囁き声も、すべてが布で包まれたように吸い込まれていく。
美術館という場所は、こういう時に妙に残酷だ。
静かであればあるほど、異物は際立つ。
俺は、どこから何が来ても対応できるように、問題の展示室から少し離れた位置に立っていた。
警備についている私服警官は四人。
入口に二人、室内に二人。
来館者じゃないのは、目線と立ち方で分かる。
七海がもし彼らの目線から、ターゲットがあの絵画だと見破っていたのなら、なかなか見どころがある。
源さんは、展示室の外。
あの人は、こういう時は出過ぎない。
そして――
七海は、室内にいた。
別の展示パネルの前に立ち、解説文を読むふりをしている。
距離は保っているが、視線は常に作品のある方向だ。
いや、正確には――
作品“だけ”を見ているわけじゃない。空間全体を、だ。
源さんに言ったことは、余計だったかもしれないな。
逃げ道と死角と、人の癖を見る目は怪盗のそれなのかもしれないが、ある程度経験を積めば、微妙な違いは体感的に分かる。
今の七海の目は――
今から犯行に及ぶヤツの目じゃない。
時間が、ゆっくりと流れる。
時計を見ると、十五時半。
予告状に示されたのは「夕刻」とだけだが、六月の日暮れにはまだ時間がある。
だが、空気が変わり始めていた。
最初は、些細な違和感だった。
展示室の照明が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
目の錯覚と言われれば、それまでの程度。
次に、空調の音が途切れた。
完全に止まったわけじゃない。
一拍、呼吸を忘れたような“間”。
そして――
誰かが、息を呑んだ音。それが、連鎖する。
ざわ、と。
波紋のように、人の気配が動く。
俺は、視線を上げた。
展示室の中央。
問題の作品――「星の揺らめき」。
絵は、そこにある。間違いなく、ある。
だが。
色が、違って見えた。
キャンバスの中で描かれた星々が、わずかに、ほんのわずかに――揺れている。
錯覚だ。
そう言い聞かせる前に、確信が走る。
これは、来ている。
姿は見えない。
赤いマントも、星の意匠も、カードも視界に映らないないが、間違いない。
この空間に、怪盗ステラ・エトワールが侵入した。
警官の一人が、ポケットへ手を伸ばす。
七海は、息を詰めたまま動かない。
全員が同時に理解していた。
――始まった。
予告の夕刻には、まだ早い。
だが、怪盗なんて所詮は手の込んだ窃盗犯だ。
予告の内容を律儀に守る義理もないし、実際ほとんどの怪盗は守らない。
俺は、ゆっくりと一歩踏み出す。
鹿撃帽の縁に指をかけ、深く被り直す。
「ふっ……」
久しぶりの、怪盗らしい怪盗だ。
腕の見せどころだと思うと、不謹慎にも笑いが漏れた。
さあ来い、怪盗ステラ・エトワール。
予告状ってのは、誤魔化しようもなく“明らかにする”ものだ。
きっちり予告を果たす妄執的サイコパス――本物の大怪盗と、てめえのような、こそ泥崩れの違いをな。
静かな展示室で、
星の揺らめきだけが、不自然に息づいていた。




