珈琲の香りと君の微笑
第一章:朝のカウンター
朝のカフェ「ビーンズ・ハート」。七時前の店内はまだ静かで、焙煎したばかりの珈琲の香りがふわりと漂っていた。外は少し冷えているのに、この香りだけはいつも先に目を覚ましてくれる。
私はエプロンを締めて、カウンターを磨く。布を動かすたび、昨日までの空気がリセットされていくみたいで好きだ。肩まで伸びた黒髪を後ろでまとめると、朝陽が少しだけ頬に触れて、くすぐったい。
この店を始めて五年。うまくいかない日もあったけど、ここに立つ時間だけは、いつも私を落ち着かせてくれる。
小さな店だけど、朝の光と珈琲の香りに包まれると、ここが特別な場所だとあらためて思う。
ドアの鍵を開けた瞬間、軽い足音が近づき、香織ちゃんが元気よく入ってきた。
二十二歳の大学生で、茶色のボブヘアがふわっと揺れるたびに、店が少し明るくなる気がする。
面接の日からずっと、彼女の笑顔はこの店に小さな温度を足してくれている。
「おはようございます、綾さん! 今日もよろしくお願いします!」
弾むような声に、私は思わず笑ってしまう。シフトの説明を続けながら、ふと香織ちゃんの手元に目が吸い寄せられた。まだ不器用なところはあるのに、一つひとつの動きが真っ直ぐで丁寧で、そのたびに胸の奥がじんわり温かくなる。
視線を戻さなきゃと思うのに、香織ちゃんの横顔が気になって仕方がない。
光に揺れる髪の動きまで綺麗で、呼吸をするタイミングすら忘れそうになる。
気づけば追いかけていた視線はそのまま留まってしまい、ほんの数秒のつもりが、いつの間にか長いひとときになっていた。
「香織ちゃん、いい感じ。焦らなくて大丈夫だよ」
そう声をかけると、彼女は照れたみたいに頰をゆるめた。
「いつも綾さんが淹れてる時の手つき、好きなんです。その珈琲飲ませてくださいね」
その言葉があまりにもまっすぐで、胸の奥がきゅっと温かくなる。
こんなふうに言われるだけで、一日の始まりが少し特別に感じてしまう。
開店ラッシュが始まると、二人で息を合わせて動き回る。
香織ちゃんの笑顔はお客さんの緊張までほどいてしまうみたいで、店の空気がやわらかく変わっていく。
そして……その変化にいちばん影響を受けてるのは、きっと私だ。
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第二章:雨上がりの休憩
十一月、午後の雨が止んだ頃。
店内は常連さんの落ち着いた気配で満たされていて、私は香織ちゃんとバックヤードでひと息つくことにした。誰にも見えない、小さな休憩スペース。
「綾さん、いつもありがとうございます。大学忙しいけど……ここ来るの、ほんとに楽しみなんです」
そう言って、私が淹れた珈琲をそっと口に運ぶ。
その仕草がなんだか丁寧で、胸の奥がゆっくり温かくなる。
私は隣に座って、雨上がりの光に照らされた香織ちゃんの横顔をぼんやりと見つめた。
濡れた街の明るさがそのまま瞳に映っていて、きらきらしてて……気づいたら、胸が落ち着かなくなる。
「私もだよ。香織ちゃんが来てくれてから、店が明るくなった。その笑顔がさ……珈琲みたいに優しいんだよ」
言ってから、自分で驚くくらい恥ずかしい言葉だったと気づく。
ほんの少しだけ、頬が熱くなる。
けれど、香織ちゃんは驚いたように目を丸くしたあと、
ふわっと花みたいに笑ってくれた。
「綾さん……そんな風に言われたら、嬉しいです。私、綾さんのこと尊敬してるんです。優しくて、いつも頑張ってて」
その言葉が胸に染みて、じんわり熱くなる。
ただの珈琲の香りなのに、今だけ甘く感じてしまう。
休憩の終わりを知らせるベルが鳴って、私たちは立ち上がる。
その瞬間、そっと触れた指先。
ほんの一瞬だったのに、離れたあとも温度だけがずっと胸に残った。
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第三章:珈琲の約束
十二月。街はクリスマスの灯りでいっぱいで、窓の外まできらきらしていた。
閉店後、店内は嘘みたいに静かになって、さっきまでの賑わいが夢みたいに遠く感じる。
私は勇気を絞って、香織ちゃんをカウンター席に誘った。
「香織ちゃん……ちょっと、話したいことがあって」
言葉にした瞬間、自分の声が少しだけ震えているのがわかった。
胸の奥がざわざわして、指先にまでその緊張が伝わってくる。
私はエスプレッソを淹れ始める。
いつもの作業なのに、今日は手つきが少しぎこちない。
ミルクピッチャーを持つ手が震えて、こんなに不器用な自分がいたんだって初めて知った。
それでも深呼吸して、そっとミルクを落とす。
白い線がゆっくり広がっていくのを見つめながら、
彼女への気持ちも一緒にそこへ流れ込んでいくみたいだった。
最後にハートを描く。
小さな湯気が二人の間でゆらゆら揺れて、
その距離ごと温めてくれているように見えた。
「私……香織ちゃんのことが好き。店長とか、バイトとか、そういう立場じゃなくて……もっと一緒にいたい。香織ちゃんの笑顔を見ると、毎日が特別になるの」
言った瞬間、胸の奥がぎゅっとつまる。
逃げたくなるくらい怖いのに、それでも言いたかった。
でも、香織ちゃんは目を潤ませて、立ち上がって私の手をぎゅっと握った。
「綾さん……私もです。面接の日から、ずっと惹かれてました。好きです。綾さんと一緒にいたい。この店で……綾さんと」
手の温かさが、心の奥の何かをそっと融かしていく。
その温度が指先から腕に広がって、胸の鼓動までゆっくり変えていく。
気づけば、香織ちゃんが少しだけ近づいてきて、
カウンター越しの距離が自然に縮まっていた。
呼吸が触れ合うくらいの近さになった瞬間、
ふたり同時に動いたみたいに、そっと唇が触れた。
軽いのに、震えるほどあたたかくて、
珈琲の苦味のあとにふわっと残る甘さみたいに、
ゆっくりと胸に溶けていくキスだった。
「綾さん……これからも、朝の開店から夜の閉店まで。
ずっと一緒に珈琲を淹れたいです」
その言葉に、胸の奥がふわっとあたたかく広がった。
私は香織ちゃんの手をぎゅっと握り返して、深く頷いた。
二人で手をつないで店の灯りを落とす。
がらんとした店内に、さっきまでの湯気のぬくもりだけがそっと残っていた。
外に出ると、冬の夜風が頬に触れる。
冷たいはずなのに、今は全然怖くなかった。
その風の向こうに続く未来が、静かに、でもはっきりと香っていた。
──終わり──




