今日も私はあなたにパンを渡す
私には日課があった。きっかけは忘れてしまったけれど、
毎朝、同じ時間の同じ電車に乗って、同じ三号車の同じ扉のそばで、昨日のバイト先のパン屋の売れ残りを一つ、同じサラリーマンに渡すのだ。
彼の連絡先は知らない。名前も知らない。
会話といえば、袋を差し出すときのほんの少しだけ。
「今日は塩パンです」
「お、塩パン。結局これなんだよな」
「わかります。なんだかんだ、いちばん飽きませんよね」
「うん、シンプルなのがいい」
そう言って、口元だけは柔らかく笑った。
塩パンがいちばん好きなのかと思いきや、翌日ピザトーストを渡すと、子どものように目を丸くして「やった!ピザトーストこそ至高!」と言った。
別の日にくるみパンを渡せば、袋を鼻の近くに持っていき、真面目な顔で「この香ばしさたまらんな」と感想を述べる。
私はいつの間にか、彼の反応を眺めることが楽しみになっていた。
パンの向こう側で彼の機嫌が少し上がるのを、そっと見ていることを。
たまに、お返しをもらう。
出張土産のクッキー、コンビニの新作チョコ、グミ。受け取りづらい額ではない、ちょうどよいくらいのお返し。
「いつもありがとう」
その一言は、焼きたてのパンのように不思議なあたたかさがある。
たまに彼がいない朝がある。
改札に向かう人の流れを見送ってから、紙袋の重さに気づく。
パンの重さを感じると同時に、少しの不安が押し寄せる。体調を崩したのだろうか?勤務が変わったのか?あるいは単に寝坊か?考えても答えは出ない。
次の日、彼は当たり前の顔でいつもの場所にいた。
髪が少し跳ねていて、ネクタイの柄が昨日と違う。私が袋を差し出す前に、先に声が飛んでくる。
「お、今日はクロワッサンか! 当たりだな!」
「クロワッサンは当たりなんですね」
「層1枚ずつにパン屋さんの愛情が包まれてるからな」
そうやって、毎日は少しだけ進む。
私は、彼のことをほとんど知らない。
背広の色の傾向、靴のかかとがすり減りにくい歩き方、袋を受け取るときに必ず「どうも」と言う癖。
それくらいしか知らない。
彼がパンを貰うこと以上のことを求めない限り、私はそれで良いと思っていた。
彼女がいるかもしれない。もしかしたら、奥さんも子どももいるかもしれない。
それでも、パンを渡す一瞬のために早起きするのは、面倒ではない。むしろ、その一瞬があるおかげで一日が落ち着く。
ある朝、売れ残りが一つもなかった。珍しいことだ。私は悩んで、結局、自分の朝ごはん用に買った塩パンを紙袋に入れ替えた。
「今日は……売れ残りじゃないんですけど」
「売れ残りじゃない?」
「はい。おすそ分けです」
「それは申し訳ないな」
「いえ、これは私の日課なんです」
「そうだ。ちょうど昼12時頃に調布大学近くに営業で向かうから、良ければお昼をご馳走しよう」
「そんな、悪いですよ」
「いつものお礼もしたい。君が嫌じゃなければ」
「わかりました。私もお話ししたいなって思っていたので」
「じゃあ、12時に正門集合で!」
「はい。楽しみにしてます」
ついOKしてしまったが、内心とてもそわそわしていた。
男性経験もまともにないのに、年上の男性の方とランチをするなんて、想像もしていなかった。
でも、話してみたい。
これが恋心なのかどうかも私にはわからなかった。
お昼になり、大学の正門に向かうと彼はもうそこに待っていた。
「お!良かった良かった!大学って結構広いから会えるか心配だったんだ」
「お待たせしました」
「いやいや、営業がちょっと早く終わったから、先に着いちゃっただけだから」
彼はそういって、近くに気になる店があるんだと歩き出した。
「ここ!ここ!イタリアンなんだけどここで良いかな?」
「おしゃれな店ですね…高そう…」
「ランチだからそんな高くないから安心して」
そう言いながら、ドアを開け、私を中に誘導してくれた。
店内に一歩足を踏み入れると、木の温もりに包まれた、まるでイタリアの片田舎のような温かい空間が広がっていた。
店内のピザ窯からは、香ばしい匂いが立ち込めていて、私のお腹を刺激した。
店員さんに空いてる席に通され、彼は子供の様な笑顔で話を始めた。
「な?美味しそうな店だろ?」
「はい…この雰囲気と匂いたまらなく良いです」
「そうなんだよ…店のHP見ていて前から気になってたんだ!パンをあれだけ愛する君ならわかってくれると思った!」
「私パンを愛してるように見えますか?」
「見えるとも!パンの運び方だけで君の愛情はわかる。パンが潰れないように、また湿気ないようにいくら混んでいても
紙袋は絶対に閉じず、自分の荷物よりも大事に持つ。それに私の感想に対してもちゃんと応えてくれる」
「自分では気が付きませんでした」
「そう。その自然とそうしてしまうところにまた愛を感じるんだ」
「そんなもんですか」
「君が運んでくれたパンはいつも最高の状態だ。だからこそ君にはお礼したいと思っていたんだ」
「なんだか照れますね。でも」
「でも?」
「はい。私も話してみたかったんです。そういえば…お名前は?」
「そういえば、お互い名前も知らなかったな!僕は榊」
「私は日菜です」
「日菜さんか。良い名前だ。じゃあ、注文しようか」
榊さんはメニューを私側に向け、見せてくれ「これなんか美味そうだな」と楽しそうにメニューを選び出した。
「私はこのレディースセットにします」
「良いね。デザートにスープもサラダもついて。この店を堪能できるね。じゃあ、僕はこっちのセットで」
店員さんがメニューを持っていき、水を注いでくれた。
店内は程よいざわつき具合で、居心地がとても良い。
最初にサラダとスープが来た。
「こういうシンプルなのが良いんだよな」
「昼に重くないのがいいですね」
塩パンの時も同じこと言っていたなぁと思いつつ、スープから手を付ける。
スープはミネストローネで、トマトの酸味があまり強くなく、野菜の優しい風味が口いっぱいに広がる。
サラダは、イタリアンドレッシングの酸味がサラダの新鮮さを際立たせて、スープとの相性も抜群だった。
話す内容は身近なことばかりだった。
大学で学んでることや、会社での仕事内容など。
彼はよく聞いて、短く返す。その間が心地いい。
焼き上がったマルゲリータが運ばれてきた。
彼がカッターで一度だけ押して、取り分けてくれた。
「先にどうぞ」
「ありがとうございます」
私はクアトロ・フォルマッジを頼んでいたが、半々で食べようという話になった。
ピザは分け合って食べるための食べ物だと彼は言っていたが、激しく同意した。
マルゲリータはバジルの香りが先に届き、口の中に運ぶとトマトの酸味が先に来て、あとからオイルの香りが追いかけてくる。
生地は軽く、ピザ窯ならではの香ばしさが口いっぱいに広がる。
「これは当たりだ」
「最高ですね」
レディースセットのクアトロ・フォルマッジが運ばれてきた。
テーブルに置かれると同時に、チーズの香りがふわりと立ち、食欲がそそられる。
それも見越してか。彼はすぐにカッターを入れ、取り分けてくれた。
蜂蜜は各々好きな量でと彼は言ったが、ほんとによくわかってる。
これは、唐揚げにレモン以上の問題だ。
「これは…たまらないな」
「このチーズの量と蜂蜜の甘さは人間が食べてはいけない領域です」
「あぁ、これは禁忌だ。どんな罪も受け入れよう」
「はい。受け入れます」
食べ終わるころ、彼が少しだけ姿勢を正した。
「君を誘ってよかった」
「来てよかったです」
「舌が合うっていうのは、一番大事だと思うんだ」
「わかります。食が合わない人とは一緒に居られないです」
「それでなんだが、今後とも、君とは同様の付き合いをお願いしたい」
「同様…それは私も大歓迎です。引き続きパンお持ちしますね」
「良かった。食事を誘ってしまった手前、もう会いたくないとか言われたらショックを受けそうだったから」
「いえ、今日はとても良い時間を過ごせました」
「それは嬉しいね」
会計は彼が済ませた。
「今日は僕の奢りです。いつものお礼」
「ありがとうございます。パン山の様に持っていきます」
「いやいや、今まで通り1つで良いよ」
彼は笑いながら、優しくツッコんでくれた。
店を出る。外は明るいけれど、風は弱い。
「じゃあ、僕はこのあと、もう一件営業行ってきます」
「いってらっしゃい」
「また、三号車で」
「また、三号車で」
彼が角を曲がるまで見送ってから、私は一度だけ深呼吸をした。
秋の少し冷たくなってきた空気が肺を満たした。
翌朝。三号車、同じ扉のそば。
紙袋を渡す。今日はシナモンロール。
「おはようございます」
「おはよう。お、この香りはシナモン。食欲を刺激するねぇ」
「うちのシナモンロールはほんのり甘めです。休憩時間に是非」
「いいねぇ。楽しみだ」
電車が揺れて、吊り革が軽く当たる。
降りる駅は違う。
今でも彼のことはほとんど知らない。
連絡先も交換していない。唯一名前だけ教えてくれた。
それでも、今後もこの関係は当分続く気がした。
「じゃ、また」
「はい。また、三号車で」




